大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第1章 転換する時代のなかで

転換する時代を迎えて

昭和45年(1970)に始まるこの時期は、まさに“黄金の60年代”(1960年代、昭和35~44年)が終わり、新しい70年代の夜明けの時期であった。60年代は“黄金の”と形容されたように、日本をはじめ自由主義諸国の経済は、幾度かの曲折があったとはいえ、この時期に著しい成長を遂げ、繁栄を謳歌した。

しかし、45年を境にわが国の経済はその流れを変え、「転換の時代」へと移っていった。わが国をめぐる国際政治の面でも、46年に沖縄返還協定が調印され、47年には沖縄の本土復帰、田中内閣による日中国交回復が行われるなど、“戦後”の決算といわれる出来事が続き、時代の変化を感じさせた。

40年不況を赤字国債と輸出をテコとして脱出して以来、45年7月まで実に57カ月に及ぶ長期好況は、神武、岩戸を上回る「いざなぎ景気」と呼ばれ、大阪で開催された日本万国博覧会はその掉尾を飾るイベントとなった。当時、自由主義諸国のなかで、わが国と西ドイツの国際収支の黒字基調は目立っていたが、こうした黒字基調のもとで、44年9月、金融引締め策がとられ、45年秋まで続いた。従来は「景気上昇→輸入拡大→国際収支悪化→金融引締め→景気後退」というパターンが繰り返されたが、今回は全く条件が違っていた。

戦後初の異例の国際収支黒字下の金融引締めは、国内景気の過熱、物価の上昇を抑制するための措置にほかならなかった。景気調整策の効果が浸透し、45年夏には景気後退が明確となり、日本万国博覧会が同年9月に終わると景気にも秋風が吹き始めた。日本と同様、長期好況を続けていたアメリカが対日貿易赤字のため保護貿易的政策をとり始めたのも大きく影響した。繊維、テレビ、洋食器などの輸出規制が表面化し、対米貿易黒字を続けるわが国との間の経済関係は緊張し、他産業もその影響を免れなかった。同時に国内でも、それまでの高度成長の牽引力であった自動車、家電等の売行きは鈍化し、金融引締めの効果と相まって、景気停滞感が強くなった。

また、高度成長の“ツケ”といわれた公害問題はすでに噴き出していたが、このころからますます表面化して国民の関心を集め、高度成長、産業優先政策に対する反省の気運も高まった。

“GNP”は45年の流行語の一つになるほど国民の関心をひき、「くたばれGNP」の言葉も生まれた。45年の『経済白書』も「70年代は転換の時代」と位置づけ、産業優先から「高福祉経済の基盤としての産業構造」への転換を強く要請した。

建設業界は好況の余熱続く

景気後退の波はしだいに各産業に及んでいったが、建設業界がその波を受けるのは、かなりのタイムラグがあった。昭和44年度(1969年度)の建設投資は対前年度比22.9%増という高い伸び率であり、45年度のそれは16.8%と鈍化したものの、依然として15%以上の高い伸びを示していた。46年度に13.9%とさらに鈍化したとはいえ、まだ高度成長の余熱のなかにあった。47年は一転して列島改造ブームが巻き起こるのである。

景気を反映する民間建設投資は、45年度に対前年度比14.6%増の再成長の後、46年度は8%増へとスローダウンしている。民間建設投資額の建設総投資額に占める割合は45年度66.2%であったが、46年度には62.7%と低下した。代わって公共建設投資は、45年度21.5%増、46年度25.6%増ときわめて高い伸びであった。また、46年度の公共建設投資の対前年度比を建築、土木別にみた場合、建築12.9%増に対し土木は30%増であった。公共工事の内容も、新幹線、高速道路などの産業基盤づくりや下水道などの生活基盤づくりを目指すもののほかに、各地の土地再開発や筑波研究学園都市、多摩ニュータウン建設等にみられるように、その範囲が拡大、多様化し、規模も大きくなった。

これは、政策が経済成長第一主義から福祉重視、民生重視へと転換し、社会資本の充実にもより一層の積極性を示すものであったが、また建設業界に対しても新たな指標を与えることとなったのである。

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