昭和40年代後半の民間建設投資は、47年(1972)、48年に急増したが、用途別着工建築物で見ると、商業用ビルの建設が47年に続いて48年も異常な伸長を示している。いわゆるビル建設ブームである。これは、「建築基準法」の改正を契機に高層化が図られたことや事業拡大に伴ってオフィスビルの建設が相次いだことなどがその大きな要因であったが、列島改造ブームもその背景にあった。
とくに48年の東京都心部の高層ビル建設ラッシュはものすごく、一時、当社の現場が林立した丸の内、大手町ビジネス街では各ビルが覇を競うがごとき様相となっていた。
40年代後半は、この地区でまず、帝国ホテル新本館(JV)や一ツ橋総合ビル(竹平加入電信局総合建物)が45年に完成、続いて46年に東京會舘・富士ビルディング(JV)が、48年には三菱ビル・三菱重工ビル(JV)と三和銀行東京ビルの両ビルが完成、49年に入って日本興業銀行本店、東京海上ビル本館(JV)、AIU東京ビル(JV)などが次々と竣工を迎えた。
なお、これに先立って日生日比谷ビル・日生劇場(38年)、国際ビル・帝国劇場(41年)、パレスサイドビル(JV)(41年)が、また、これより後には有楽町電気ビルヂング(北・南)(JV)(50年・54年)、郵船ビルディング(JV)(53年)、さらには蚕糸会館(58年)、朝日生命日比谷ビル(JV)(59年)、大和生命ビル(JV)(59年)、東京海上ビルディング新館(JV)(61年)などがお濠に面した日比谷通りや内堀通り界隈にズラリと並ぶこととなった。
一方、40年代後半に竣工したこの地区以外の東京での当社施工の代表的なオフィスビルには、コンワビル、主婦の友ビル2号館、国際赤坂ビルディング、日本銀行本店営業所(増改築第2期)(JV)、住友スリーエム新本社ビル、日本生命五反田ビル、新室町ビルなどがあった。
オンライン化が進むなかで金融機関の事務センターが相次いだことも、大規模なビル建設工事につながった。先の三和銀行東京ビルもコンピュータセンターを兼ねたビルであったが、太陽生命事務センター、日本興業銀行麴町別館、三井銀行東京事務センター別館などもその代表的なものであった。
三和銀行東京ビル
三和銀行東京ビルの25階建のカナディアンブラック外壁は“お濠に映える建築美”のなかでも一段と印象的である。
昭和46年(1971)6月、まず、深さ25mの土留め・止水用のOWS壁を構築することから本格的な工事がスタートした。しかし、地下16m以下の地盤が予想以上に硬く、急遽フランスのソレタンシュ社から新鋭ケリー機を空輸して投入、きわめて精度の高い地中連続壁を工期どおりに築造した。その後の連壁工事における当社の輝かしい実績を支えることになったOWS工法でのケリー機の活用は、当工事から始まったのであった。
地下工事では逆打ち工法を採用し、根伐り工事は同年10月から1年間かけて行い、総量17万2,000㎥に及ぶ土砂を搬出した。
約1万2,000tにのぼる地上鉄骨は、発注者の要請で外側柱・梁に防錆塗料として三和カラーのグリーンのペンキを使用したが、お濠端にそびえ立つグリーンの鉄骨が皇居の緑と相和して、仮囲いの“四葉のクローバー”のデザインとともに当時大いに人目をひいた。
ちなみに、この仮囲いには通行する人たちが工事の進行をうかがえる覗き窓を設けていた。
外装はカナダ産の花崗石をショックベトンで裏打ちしたPCカーテンウォールであったが、石の産地は冬期になるとマイナス40度となって凍結河川を砕氷船で輸送しなければならなくなるため納期遅れを懸念して当社自ら現地での石の切出しを督励し、ようやく約3万㎥の所要量を早めに手当てすることができた。最大4.5tにも及ぶ花崗石PCブロックを高層建築に使用した例はこれまでになく、この施工に際しては当社技術研究所で2階建の実物大の試験体を製作して、耐震・耐風実験を繰り返して安全性を確認した。
仕上げ工程を左右する揚重計画においては、設備工事を含む膨大な資材の揚重や従業員の昇降等に関しコンピュータ・プログラムを作成し、綿密な運行管理を実施したが、48年の石油危機は、あたかも仕上げ工事の最盛期に当たったため、内部仕上げに大幅な遅れが生じ、一時は工期の確保も危ぶまれた。しかし、三和銀行設立40年行事のため48年12月の竣工期限は厳守しなければならず、最後の3カ月は昼夜兼行で突貫工事を行い、これに応えた。請負金は156億5,612万円、所長は高屋 猛である。なお、当ビルは50年にBCS賞を受賞した。
日本興業銀行本店
大正12年(1923)6月、丸の内1丁目に当社の手で竣工した旧日本興業銀行本店ビルは、同年の関東大震災のとき、付近のビルが倒壊、大損害をこうむったなかにあっていささかの損傷もなく、当社の名声を一層高めた建物であった。新しい本店ビルは、この旧本店ビルのほか三つのビルを解体して建てられることとなった。
解体にあたっては、旧館は建設以来50年の歳月を経過しており、建築の貴重な遺産であることから技術研究所と協力して鉄筋、鉄骨、コンクリートに関するあらゆるデータを採集した。また、旧館の一部原型保存のため建物内外部の彫刻等に至るまでの石膏模型の作製も行い、特別室の木製枠扉等は現在、同行の恵比寿研修会館に保管、陳列されている。
地下工法にはウォール ファウンデーション工法を採用したが、これはOWS工法による地中連続壁を建物地下階構造体と一体化する工法である。地中連続壁工事に先立って、旧館部分に基礎フーチング突出部があったり、隣接する銀行協会ビル側に古い濠の石積みが残っていたため、トレンチの掘削には相当難渋したが、ここでも新規に導入したケリー掘削機が威力を発揮し、現場員の士気を大いに高めた。
外装の大部分は、米国産の小豆色をした花崗石の本磨きをショックベトンで裏打ちしたPC板で、本石が多量に使用されたわが国最初の建物であった。仕上げ工事では、石油危機の影響をまともに受けたが、天井材や床材等の各メーカーの製作状況を確認のため、担当主任を各所に出張させて指示連絡を徹底させるなど、あらゆる努力を尽くした。
このような予期せざる障害を乗り越え工事は予定どおり49年1月に竣工した。同ビルは、村野藤吾氏のすぐれた設計とともにその施工についても高く評価され、50年BCS賞受賞作品となった。請負金は118億7,542万円、所長は丸山俊一である。
東京海上ビル本館(JV)
大正7年(1918)に建設された旧東京海上ビルを解体し、新たに建設されるビルは超高層ビルで、皇居のお濠端に立地することからその美観が問題視され長期にわたる議論となった。そしてついに当初計画高さ150mを100m以下として昭和46年11月に着工、施工は当社、竹中工務店、鹿島建設、清水建設の4社JVが担当した。
外装は、壁が窯変タイル打込みのPC板、サッシュは耐候性鋼、ガラスはペアガラスを用い、1階および地下1階の壁面には特殊つつき仕上げを施したポルトガル産花崗石を貼った。この外装工事には当社関係会社のショックベトン・ジヤパン社が施工に当たり、着工前の模型製作から竣工に至るまで終始協力を惜しまなかった。東京海上火災の中枢部である役員室その他、重要な部屋が配置された23、24階の内装仕上げ工事では、壁面は春慶塗を思わせる塗装仕上げの磨き鉄板を使用したが、これらの塗装仕上げ、大板の揚重、取付け等はいずれも慎重な施工を要したものの、やはり当社の関係会社の内外木材工業が十分に設計者(前川国男氏)の要求に応えた。
なお、この東京海上ビル本館は、都市美観論争という特異な経緯を踏まえ、設計、施工とともに尋常ではない苦心をもって建設された意義が高く評価され、51年BCS賞を受賞した。設備工事は別途で、請負金は15億8,299万円、所長は太宰庵里である。
国際赤坂ビルディング
東京都心でのビルラッシュが始まる寸前の昭和46年(1971)2月にスタートした当工事は、労務事情はさほど困難な時期ではなかったが、東京でも有数の高級料亭が立ち並ぶ盛り場での大型工事ということもあり、このころ一段と厳しくなっていた近隣問題に一層気を配りながらの工事であった。
ビルは20階建の高層ビルで、当工事での経験を以後の相次ぐ高層ビルに生かそうと幾つかの試みを行った。その一つが鉄骨建方で、柱はSRC造、梁はS造となっていたが、この柱と梁との接合を、従来のブラケット-ボルト接合工法からブラケットなしの柱面全溶接としたことであった。このため現場の溶接管理を徹底し、その検査結果も良好で、その後の高層ビルでの現場溶接工法に大きく寄与することとなった。そのほか、タワークレーンに油圧式ベースクライミング式のものを投入するなども、その後の高層ビル工事に向けての試みの一つであった。なお、当ビルは地下階と地上19、20階を国際自動車が使用し、2~18階は日商岩井のオフィスとなっている。請負金は77億5,619万円、所長は木内司郎である。
日本銀行本店営業所(増改築第2期)(JV)
辰野金吾博士の設計による日本銀行本館は、明治時代の代表的石造建築として重要文化財に指定されている。また、その北に隣接した1号館は、辰野博士の高弟長野宇平治博士が設計し当社が昭和7年(1932)に施工したものであるが、この1号館と本館東北に隣接していた2号館の一部を解体し、新館を建設することとなり、41年10月、当社、鹿島建設、清水建設、大成建設、竹中工務店の5社JVが工事に着手した。
工期は2期に分けられ、第1期はまず北側半分を、続いて南側半分を第2期工事として建設して一体化することとした。第1期工事はすでに44年10月に完了している。
第2期の解体工事にあたって最大の問題は、1号館が堅牢無比の建物であり、なかでも地下12mの深さにある地下室部分は、厚さ2mの壁、底盤からなる外箱の中に1~2mの壁の中箱、さらに内箱がある三重構造で、その扉も1枚50tの重量があるという点であった。このため特殊構造部に9tの火薬を用い、解体材を搬出したトラックの数も延1万4,000台にのぼった。
こうして取りかかった新築工事では第1期工事の経験を踏まえ、随所に工夫を凝らして積極的に合理化を進めた。地下階の逆打ち工法は工程的に地上階より遅れるため、まずエレベータシャフトを含むコア周りを吊り下げ型枠で先行させ、これによってエレベータを早く使用できるようにし、パイプシャフトや便所等の設備工事の早期施工を可能にした。
また、この第2期工事において公共工事請負契約約款の物価スライド条項に基づいた請負金の増額を実現したことも特記に値することであった。
当工事では、新館工事と並行して本館の改造工事も行った。当館は明治29年に建設されたもので、辰野博士が建築監督、安田善次郎監事が建築事務主管、高橋是清氏が建築事務主任として当たり、従事した書記、技師の数は50名を超えたといわれる。建築様式はイタリア・ルネッサンス様式、規模は地下1階、地上3階、延1万2,078㎡である。建設後すでに70余年の歳月が経過していたこともあり、設備の近代化によって機能の向上を図るべく、新館第1期工事の完了とともに本格的改造工事に着手した。
新館第2期工事および本館改造工事は48年3月にすべて完了し、これによって前後7年にわたる大工事がすべて終了、49年のBCS賞を受賞した。請負金は第1期、第2期工事を通じて26億1,863万円、所長は清水光一であった。