大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

この時代の工事 昭和46年~昭和48年ころ

最高速度250㎞/hは西へ

東海道新幹線から山陽新幹線へ

山陽新幹線は、昭和47年(1972)3月、新大阪と岡山間164㎞が開業し、さらに岡山から博多までの400㎞を開通させるべく、この時期、盛んに工事を進めていた。

折しも47年は日本に鉄道が生まれてちょうど100年。東海道新幹線の東京~新大阪間が開通した39年から10年近くの歳月がたとうとしていたころでもあり、山陽新幹線はこれまでの経験を生かし、東海道新幹線にさらに改良が加えられたものとなっていた。

山陽新幹線の計画最高速度は、東海道新幹線の時速200㎞から250㎞に引き上げられ、それだけ工事に求められる技術水準は高くなっていた。また、高度成長期の建設工事に対する反省から、騒音、振動防止など環境対策にもさまざまな技術が要求された。さらに、この線は路線短縮を目指して直進路線を採用したうえに、地形そのものが中国山脈が海にせまっていて平坦部が少ない所で、しかも都市密集地帯を避けたためにトンネルが多いことも特色となっていた。また路盤構造物は、東海道に多用された土構造に代わり、高架橋が多く採用されている。

50年3月、岡山~博多間の工事は完成をみ、ここに山陽新幹線全線が開通した。山陽新幹線において当社が担当した主要な工事は下図のとおりである。このなかには当初より難工事が予想された六甲トンネル、完成すれば世界第2位の長大トンネルになる新関門トンネルでの各1工区が含まれており、また岡山駅や広島駅などの建築工事もあった。

総工事費は当初5,410億円の予定でスタートしたが、岡山以西でまともに石油危機にぶつかり、これに起因する用地費や工事費の増加、そして東海道新幹線の経験を踏まえての環境整備工事の追加などで、最終的には8,236億円と52%も大幅にアップした。

山陽新幹線での当社の主な担当工事
山陽新幹線での当社の主な担当工事
備後東工区隧道
<広島県>昭和48年12月竣工
発注 日本国有鉄道
設計 日本国有鉄道
備後東工区隧道
<広島県>昭和48年12月竣工
発注 日本国有鉄道
設計 日本国有鉄道
大野トンネル東工区
<広島県>昭和49年10月竣工
発注 日本国有鉄道
設計 日本国有鉄道
大野トンネル東工区
<広島県>昭和49年10月竣工
発注 日本国有鉄道
設計 日本国有鉄道
関門隧道奥田工区
<福岡県>昭和49年3日竣工
発注 日本国有鉄道
設計 日本国有鉄道
関門隧道奥田工区
<福岡県>昭和49年3日竣工
発注 日本国有鉄道
設計 日本国有鉄道
広島駅(東側2/3を担当)
<広島県>昭和50年3日竣工
発注 日本国有鉄道
設計 日本国有鉄道
広島駅(東側2/3を担当)
<広島県>昭和50年3日竣工
発注 日本国有鉄道
設計 日本国有鉄道

山陽新幹線六甲隧道北山工区

六甲トンネルは、人家密集地帯の兵庫県西宮市上ケ原から六甲山系の南麓を縦断して、神戸市布引に至る完成当時日本最長の延長1万6,250mの長大トンネルである。

工事は、横坑1、立坑1、斜坑5を設け、7工区に分けて施工したが、当社は東から数えて3番目の工区、北山工区の延長2,750mを担当した。建設地点の六甲山系は海底隆起による数本の大断層が交差し、膨張性のモンモリロナイトを含む脆弱な破砕帯がある。とくに北山工区は、当初から最も悪質な断層破砕帯と高圧湧水が予想された。

昭和44年(1969)4月から底設導坑先進上部半断面工法{}で掘り進め、その年の暮れまでは至極順調に1,300mほど進行した。ところが、それ以降は山が悪くなる一方で、ついに1,800mほど掘り進んだ45年5月14日、異常大出水が始まった。切羽から毎分15t(総量は約10万tにのぼった)の水と粘土、砂が噴出し、その後は一進一退、9月までは掘進量ゼロを記録することになる。こうした状況を打開するため、6月には芦屋側から導坑を掘り、8月からは計3カ所の水抜き兼用の迂回路を掘り進め、ようやく10月1日導坑貫通にこぎつけた。その導坑掘進においても毎分15tの大出水に見舞われ、約700mの区間が水没、トンネル内で筏を組み、その上にポンプを設置して半月がかりで水をくみあげた。「トンネルの中で筏を浮かべたなんて、前代未聞、古今東西ないことですよ」と所長であった黒沢専務は当時を回想して苦笑する。筏はドラムカンを縦横に幾つもつなげて作ったものであった。

状況がひどかった4カ月間、北山工区の工事担当者たち(北山工区工事には当社社員は総勢23名が従事した)は1~2時間の仮眠で過ごした日々もあった。

こうした難工事を進めながらも、ここではこれまでにない幾つかの新しい試みを断行し、大いに成果をあげた。

その第1は坑内用誘導無線装置の開発で、これにより従来トンネル内で使えなかった無線電波を、2㎞以上に及ぶ切羽と通行車輌への指令連絡に用いることができるようになった。第2は工程の流れを自動表示、自己記録するオペレーショングラフを考案したことである。このデータ解析によって仕事の隘路を発見し、改善の方策を立て、処置方法を講じた。第3はレーザー照準器を導入したことであった。レーザー光線によって測量を代行させ、現場の業務を著しく簡素化することができた。

請負金は28億1,000万円、所長は黒沢重男である。なお、当工区を含む六甲トンネル建設工事には、高圧湧水を伴う断層破砕帯突破工法の技術により46年度土木学会技術賞が授与された。

六甲隧道北山工区
<兵庫県>昭和46年9月竣工
発注 日本国有鉄道
設計 日本国有鉄道
工事概要 本坑トンネル延長2,750m、掘削断面85㎡、掘削土量23万㎥、コンクリート量5万㎥
六甲隧道北山工区
<兵庫県>昭和46年9月竣工
発注 日本国有鉄道
設計 日本国有鉄道
工事概要 本坑トンネル延長2,750m、掘削断面85㎡、掘削土量23万㎥、コンクリート量5万㎥
注 底設導坑先進上部半断面工法:山岳トンネル工法のうち、最も標準的な掘削工法。図に示すように底設導坑①を先進させ、その後に上部半断面部を掘削する。
注 底設導坑先進上部半断面工法:山岳トンネル工法のうち、最も標準的な掘削工法。図に示すように底設導坑①を先進させ、その後に上部半断面部を掘削する。

海をわたる長大橋

急潮流に挑む海中基礎の施工

戦後、数多くの橋梁が出現していくが、モータリゼーションの急激な進展を背景に、離島への架橋や海峡連絡橋、湾岸部の長大道路橋など、わが国がそれまで経験しなかった施工条件と規模、構造をもつ海上架橋の実現が要請された。

これらの架橋においてゼネコンが担当した橋梁下部工事は、大水深、多様な海底地盤、急潮流など、特殊な海象条件下での基礎工がほとんどであり、一橋一橋が実験工事であったといっても過言ではない。

急潮流(10ノット)の海中で直径3.5mの多柱式基礎の建設に成功した大島大橋(JV)(山口県)、超大型ニューマチックケーソンの海中沈設という限界に挑んだ港大橋(JV)(大阪市)など、架橋条件に応じた多種多様な技術を駆使し、従来の橋梁下部工の概念を一変させることとなった。これらの実績は、本格的な海中基礎に関する貴重なデータを残し、昭和50年代に入って本四架橋の技術的素地となっていったのである。

このほかにも当社は早瀬大橋(広島県)、天草瀬戸大橋(JV)(熊本県)、大阪南港の平林大橋(JV)、そして首都高速道路の荒川湾岸橋(JV)(50年5月竣工、次章に掲載)などの下部工を40年代後半に施工している。これに先立ち、当社は42年(1967)に尾道大橋の下部工を施工しているが、同橋は支間215mと斜張橋では当時日本最長の橋であった。なお、港大橋には土木学会の49年度技術賞および田中賞(作品部門)が、大島大橋には51年度田中賞(作品部門)がそれぞれ授与された。

早瀬大橋
<広島県>昭和48年9月竣工
発注 広島県
設計 広島県
早瀬大橋
<広島県>昭和48年9月竣工
発注 広島県
設計 広島県

阪神高速道路南港第1工区下部工(港大橋)(JV)

現在わが国のトラス橋としては支間最長の道路橋である港大橋は、橋長980m、中央支間510mで、橋の中央部は海面より桁下まで57mある2段型式ゲルバートラス構造である。この橋脚2基のうち南港側の1基を、当社(幹事会社)は白石基礎工事とのJVで施工した。着工は昭和45年(1970)7月、竣工は47年11月であった。

この工事の最大のポイントは、軟弱なシルト層に、当時わが国における最大規模のニューマチックケーソンを海面下34.5mの支持層までどのように施工するかということであった。46年6月、建設地点の南港埋立地沖合に築島工を施工し、総重量1万3,400t、荷重圧1㎡当たり8.4tという巨大ケーソンが沈下のスタートを切ることとなった。

初期のケーソン構築と沈下掘削を安全に行い、かつ築島仮締切りの安定を確保するために、まず締切り内海底表層の軟弱ヘドロの砂置換えやサンドコンパクションによる地盤改良など万全の対策で臨んだ。しかし、ケーソンが徐々に沈下し、地盤改良用の砂杭の下端あたりを通過するころから周辺摩擦力が異常に高くなり、ケーソンが移動、傾斜を起こし始めた。函内にヒービング(盤膨れ)も発生し、締切堤とケーソン躯体の間の土砂が函内に引き込まれ、締切堤も変形が生じてきた。このため、やむなく最終沈下を行う47年5月15日には締切堤内に湛水して安定を図り、ケーソン上部シャフトのみが水の上にわずかにのぞく状況でケーソンの沈下を行った。請負金は9億1,975万円、所長は中店輝邦である。

阪神高速道路南港第1工区下部工(港大橋)(JV)
<大阪府>昭和47年11月竣工
発注 阪神高速道路公団
設計 阪神高速道路公団
工事概要 基礎潜函工/1基、40m×40m×深さ30.5m
築島工/鋼矢板および鋼管矢板による二重締切工 地盤改良工/浚渫工3万4,544㎥、置換砂工3万9,768㎥ほか
橋脚工/2基、コンクリート量1,783㎥、鉄筋109t
阪神高速道路南港第1工区下部工(港大橋)(JV)
<大阪府>昭和47年11月竣工
発注 阪神高速道路公団
設計 阪神高速道路公団
工事概要 基礎潜函工/1基、40m×40m×深さ30.5m
築島工/鋼矢板および鋼管矢板による二重締切工 地盤改良工/浚渫工3万4,544㎥、置換砂工3万9,768㎥ほか
橋脚工/2基、コンクリート量1,783㎥、鉄筋109t

大島大橋(主橋梁下部工)(JV)

屋代島(山口県大島郡、別名瀬戸大島)は、淡路島、小豆島に次ぐ瀬戸内海で3番目に大きな島で、わずか850mの大畠瀬戸によって対岸と隔てられているにすぎない。しかし、干満差が約3m、潮流の速度は最大毎秒5m前後と、鳴門海峡に次ぎ、明石海峡や来島海峡と並ぶ急潮流の海域である。

ここに架けられた大島大橋の橋長は1,020m、上部工は連続トラス、最大支間は325m、連続トラス橋としてはアメリカのアストリア橋に次ぐ世界第2位の橋である。下部工は橋台2基、橋脚6基で構成され、このうち海中基礎の3基(P3、P4、P5)を当社と大成建設のJVで昭和48年(1973)9月から50年4月にかけて施工した。

着工に先立ち、まず海上実験が47年1月から1年余にわたって行われたが、これは本四架橋の試金石として、国内はもとより海外からも注目されるところとなった。この実験を踏まえて、世界初の試みとしてP3、P4、P5いずれの橋脚にも大口径杭による多柱式基礎工法が採用された。

架橋場所は水深が東側40~80m、西側30~45mで海底は谷を形成しており、地質は硬い岩盤、潮流の流速は秒速3.5~5.2m。ところが海上作業が可能な流速は1m以内であったため、作業足場の据付けや資材運搬などが可能な時間は1日に潮止まりの30~80分にすぎないという厳しい条件下の工事であった。

多柱式基礎の施工では、まず海上足場の設置を行う。そのため台船上に重量約1,600tのパイプトラス構造による海上作業足場を搭載し施工現場に曳航してくる。そして橋脚施工位置に正確に位置決めした後、瞬間的に足場を支える脚柱を海底岩盤中に貫入し、海上足場を固定する。海中基礎は、この海上足場上から大口径掘削機で海底岩盤を掘削して鋼管(直径3.5m)を建て込み、モルタルやコンクリートを打設して杭基礎を築造する。その後、多柱基礎杭上部に厚さ3.5mの頂版コンクリートを打設し工事は完成した。

急潮流での海中基礎工技術は、当工事の完遂によって飛躍的な進歩をみることになり、本四架橋その他大型海洋土木工事の将来に多大な貢献をした。請負金は実験工事と本工事合計で11億8,086万円、所長は森本茂三郎であった。

大島大橋(主橋梁下部工)(JV)
<山口県>昭和50年4月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
工事概要 多柱式基礎/3基、(1基当たり)直径3,600~3,650㎜、長さ8.5~15.2m、33本
頂版工/23m×24.5~33.25m×高さ3.5m、鉄筋1,570t、コンクリート量8,608㎥ほか
大島大橋(主橋梁下部工)(JV)
<山口県>昭和50年4月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
工事概要 多柱式基礎/3基、(1基当たり)直径3,600~3,650㎜、長さ8.5~15.2m、33本
頂版工/23m×24.5~33.25m×高さ3.5m、鉄筋1,570t、コンクリート量8,608㎥ほか

通勤ラッシュの緩和(1)

都市高速鉄道(地下鉄)の延伸

高度成長とともに都市の過密化が進み、昭和40年代に入ってわが国の都市および都市周辺の交通に対する政策は多元化していった。地下鉄の延伸もそのなかの大きな一つの目標であった。都市への人口集中が生んだ通勤ラッシュの激化に対応するものとしても、地下鉄は大いに注目されたのであった。

東京では、初の都営地下鉄である1号線・浅草線(西馬込~押上)が既存鉄道と都心を結ぶものとして43年(1968)に開業し、続いて40年から工事に着手していた6号線・三田線(三田~西高島平)が51年5月開業に向け、この時期、工事の最盛期を迎えていた。また、帝都高速度交通営団の9号線・千代田線(綾瀬~代々木上原)工事も最後の追込みに入り、8号線・有楽町線(和光市~新木場)も一部着工された。

一方、大阪では、37~45年の地下鉄急成長期を経て、この時期は拡張期に入っている。名古屋市では、5路線ある地下鉄のうち、40年代後半のこの時期は2号線・名城線の各工区が次々竣工を迎え、3号線・鶴舞線が工事最盛期、4号線(名城線の分岐線)が着工を迎えたところであった。

また、東京や大阪のベッドタウンとして人口増加が著しい横浜と神戸では、ようやく地下鉄着工の運びとなり、横浜では47年に初の開業を迎え、神戸では46年に市電が全廃され、これに代わる新しい市民交通の主役として地下高速鉄道が同年に着工された。雪と寒さに強い足として地下鉄が有効な交通手段と期待の大きかった札幌では、3路線が計画され、そのうち南北線の一部(北24条~真駒内)が44年に着工され、47年2月開催の冬季オリンピックに向け46年12月開通、48年からは東西線も着工された。

46年から49年までに完成した全国の地下鉄工事のうち、当社請負金が10億円以上の大型工事を列挙すると、以下のとおりである。

<東京>

営団9号線(千代田線)和田倉門工区、都営6号線(三田線)錦町工区・一ツ橋工区、営団8号線(有楽町線)飯田橋駅(第1工区)

<大阪>

2号線(谷町線)北区角田町~道本町間第1工区、2号線都島区都島北通~内代町間(10工区)

<名古屋>

名城線新尾頭工区

<札幌>

南北線北五条~北三条(札幌駅・一般隧道部)~北大通間

札幌地下鉄南北線札幌駅
<北海道>昭和46年11月竣工
発注 札幌市交通局
設計 札幌市交通局
札幌地下鉄南北線札幌駅
<北海道>昭和46年11月竣工
発注 札幌市交通局
設計 札幌市交通局
営団地下鉄8号線飯田橋駅(第1工区)
<東京都>昭和49年11月竣工
発注 帝都高速度交通営団
設計 帝都高速度交通営団
営団地下鉄8号線飯田橋駅(第1工区)
<東京都>昭和49年11月竣工
発注 帝都高速度交通営団
設計 帝都高速度交通営団

都営地下鉄6号線(三田線)錦町工区・一ツ橋工区

当社が担当した錦町工区と一ツ橋工区は、昭和44年(1969)3月に着手、総延長は合わせて528m、このうち錦町工区の345mがシールド工法であった。用いられたシールドは、当社としては初の複線・大断面シールド(手掘り式)であった。

地盤は主としてシルト層で構成されており、その下の砂層は滞水層で被圧されていると予測されたため切羽の崩壊などが大いに危惧され、当時世界最大級の大断面(直径10.72m)のシールド掘進には万全の策を講じて臨んだ。採用された圧気工法も、初期掘削時には立坑圧気を行い約100m掘進したあと、ロックを移動して横型に段取り替えし、本圧気の設備を施して残りの245mを掘り進むというものであった。50年代以降に導入された機械掘りシールドとは異なり、大断面といってもこの工事は手掘りシールドであり、それゆえ、いまではあまり見られない手掘りシールド特有の工夫をさまざまに行った。

最大のポイントは、手掘りや半機械式シールドのみに付いているムーバブルフード{}での工夫であった。いままでとかく曲がったり折れたりして使用不能となる点を改良し、シールド本体が地山に対して偏行した場合でもムーバブルフードは逃げられるようにしておくなどの工夫をした。さらに、この工事では建物下をシールドが進行するため、六つのビルに対し、仮受け工、薬液注入工、下受け工、PIP防護工などそれぞれの条件に適合した工法でアンダーピニングを施工し、建物の安全を確保したのも大きな特徴であった。請負金は錦町工区、一ツ橋工区合わせて21億890万円、所長は森 實二であった。

注 ムーバブルフード:掘進の際、上部地盤が沈下するのを防ぐため、シールド機の前面上部に突き出てセットされる庇のようなもの。

都営地下鉄6号線(三田線)錦町工区・一ツ橋工区
<東京都>昭和46年6月竣工(一ツ橋工区) 昭和46年7月竣工(錦町工区)
発注 東京都
設計 東京都
工事概要 錦町工区/延長423m、シールド外径10.72m、掘削土量2万9,351㎥、通風口1カ所、換気所1カ所
一ツ橋工区/延長105m、1層函形ラーメン構造、掘削土量3万481㎥、換気所1カ所
(左写真は一ツ橋工区、左下写真は錦町工区で使用したシールドマシン)
都営地下鉄6号線(三田線)錦町工区・一ツ橋工区
<東京都>昭和46年6月竣工(一ツ橋工区) 昭和46年7月竣工(錦町工区)
発注 東京都
設計 東京都
工事概要 錦町工区/延長423m、シールド外径10.72m、掘削土量2万9,351㎥、通風口1カ所、換気所1カ所
一ツ橋工区/延長105m、1層函形ラーメン構造、掘削土量3万481㎥、換気所1カ所
(左写真は一ツ橋工区、左下写真は錦町工区で使用したシールドマシン)

通勤ラッシュの緩和(2)

国鉄東京駅の改良工事

国鉄東京駅は戦後間もないころから絶え間なく手が加えられ、当社はそのほとんどの工事に携わってきたといっても過言ではない。戦火で焼け落ちた丸の内本屋(大正3年当社により完成)の復旧工事(昭和21~26年)を手始めとして、その後の主なものとしては、田町~田端間線路増設に伴う第6・第7ホームの建設工事(24~31年)、八重洲本屋・鉄道会館の新設、増築工事(29年、43年)、東海道新幹線の建設工事(36~42年)などがあげられる。そして、横須賀線と総武本線を結ぶ東京地下駅(東京駅地下乗降場)の大工事が行われたのが、43年(1968)から47年にかけてであった。

その後も、新幹線旅客輸送量の増加に伴い、新幹線ホームの増設(48~55年)や新総合指令所(51~55年)などの建設を行い、一方、混雑の緩和対策として、中央通路拡幅および中央地下通路新設工事(50~55年)や第4ホーム下高架化工事(51~55年)、北部自由通路新設工事(51~57年)を行った。

ちなみに、この時期の東京駅の1日の利用客は約140万人、1日発着列車本数約2,600本で、これは東京駅開業当時(大正3年)の利用客約1万人、列車本数240本と比べると気の遠くなるほどの膨張であった。首都圏の人口の異常な集中をこれはよく反映しており、相次ぐ改良工事もこれに対応するものであった。

50年代後半から現在に至るまでにも、東京駅改良工事は絶えず続けられており、これらの工事に当たった当社社員は数知れない。戦後の歴代の東京駅(土木)工事事務所長を列挙すると、佐藤泰一、森 隆広、佐藤信三、坂本義雄、松下照夫、寺尾英二、近藤信行、上原 忠、水巻武一、大橋進也、坂本 宏である。

平成3年末現在、利用客1日約180万人、地上9面18線、地下4面8線、列車本数1日3,533本と、日本最大のマンモス駅・東京駅では、今日も北陸新幹線乗入れに向けて大改造が進められている。

国鉄東京地下駅(東京駅地下乗降場)

当工事は、総武本線の東京~津田沼間26.3㎞の線増工事の一環であり、昭和47年(1972)7月当駅の完成・オープンに伴って、東京~津田沼間は開通した。その後、東海道本線の東京~小田原間の線増が完了した55年10月、この地下駅で総武本線と横須賀線が相互乗入れして直結したのである。

当駅は地下5階、ホーム2面4線、全長735m(当社工区はこの中央300m)、その大きさは丸ビルの3倍にも及ぶ当時日本最大の地下駅であった。このため工事の技術的困難さもさることながら、旅客の安全確保やセントラルステーションらしく工事現場を感じさせないよう整理整頓に現場は努力を傾注したのであった。

技術的に最大の困難を伴ったのは、赤煉瓦の丸の内北口一部をアンダーピニングすること、OWS壁の築造、そして大量の鉄骨柱の現場溶接であった。仮受け杭施工では、古い煉瓦の壁体で狭く仕切られた本屋の中にボーリングマシンを引き込むことや、削孔に先立つ本屋基礎松杭の撤去、地下数mにあった作業員が3人がかりでようやく持ち上げられるくらいの石を大量に除去することにも大いに手間どった。また、仮受け杭建込みでも空頭が3mくらいしかないため6本を継いで建込みを行うなど数多くの制約条件のもとで、仮受け本屋面積約2,600㎡、仮受け総重量1万9,000tのアンダーピニング工事は9カ月かけてようやく完了した。45年6月、地下駅本体に全荷重を受け替えるまでの約2年間、これら仮受け杭はほとんど変状が観測されなかったほどのすばらしい出来であった。

深さ約29m、約1万6,000㎡のOWS壁築造は、都心部では初の路下式(地下8m地点)での施工であった。また、駅前広場の換気塔(直径12m)では当社初の円形の地中連続壁施工も行った。

さらに、躯体のうちホームのある当社施工部分はS造の構造形式が採用され、2年間で1万4,200tの鉄骨柱・梁等を建て込んだ。この現場溶接は実に延長22万3,500mに及び、ことに深礎内でのGコラムの溶接はすべて手溶接で、発注者自身が技量試験を実施した100名から約30名に選りすぐった溶接工がこれに当たった。請負金は土木工事が52億1,500万円、建築仕上げ工事が15億8,736万円、所長は佐藤信三(土木工事)、鈴木春雄(建築工事)であった。

国鉄東京地下駅(東京駅地下乗降場)
<東京都>昭和47年7月竣工
発注 日本国有鉄道
設計 日本国有鉄道
工事概要 工区延長295m、幅44m、深さ26m、B5、ホーム2面4線、延6万8,000㎡、掘削土量17万7,000㎥、躯体鉄筋コンクリート量3万1,000㎥
その他/連絡通路、換気塔ほか
国鉄東京地下駅(東京駅地下乗降場)
<東京都>昭和47年7月竣工
発注 日本国有鉄道
設計 日本国有鉄道
工事概要 工区延長295m、幅44m、深さ26m、B5、ホーム2面4線、延6万8,000㎡、掘削土量17万7,000㎥、躯体鉄筋コンクリート量3万1,000㎥
その他/連絡通路、換気塔ほか

国鉄東京駅中央通路拡幅および中央地下通路新設

昭和48年度(1973年度)の調査によると、通勤ラッシュ時の東京駅中央通路は、幅1m当たり通過人員が8,000人/hにのぼり、この混雑は、47年7月に、東京地下駅に総武本線が乗り入れてさらに激しさを増した。そこで、丸の内側にある地下駅から八重洲側に乗降する旅客の利便を図り、八重洲側コンコースにおける遠距離客や乗降客との輻輳を避けるため、地下1階を併設する中央通路の新改造工事が行われた。

中央通路の工事は、全長153mにわたって丸の内側の幅員8mを幅員25mにし、八重洲側に幅員35mの通路を新設して、地下1階で東京地下駅と八重洲地下街を結ぶ工事であった。50年3月から準備工事を開始し、完成したのは55年10月である。

施工は、1日2,300本の列車が発着する営業線、1日150万人といわれた乗客で混雑するホームおよび在来の高架橋を下から支えるためのアンダーピニングを施したあと掘削に移り、地下通路の新設および地平階の通路の拡幅を行うというものであった。在来高架橋のアンダーピニングは営業線直下であるため施工には細心の注意を要し、さらに輻輳する既設構造物があったため、ほとんどの作業は手作業によるほかはなかったが、技術管理には各種計測器や小型コンピュータを多数導入した。

工事は大部分夜間で、かつ地下作業であったため、13万tに及ぶ資機材の搬入は終電初電間4~4.5時間の作業になり、綿密な打合せのもとに遂行した。この工事のハイライトであった、ホーム4カ所、線路9線、計26カ所で行った工事桁から本桁への架換え工事も、深夜の作業にもかかわらず多くの関係者が見守るなか、手際よくかつ慎重に行ったのであった。

請負金は拡幅工事および地下通路新設工事を合わせて土木工事は68億2,600万円、建築仕上げ工事は9億1,787万円、所長は近藤信行(土木工事)、藤田 浩(建築工事)であった。

国鉄東京駅中央通路拡幅および中央地下通路新設
<東京都>昭和54年3月竣工(中央通路拡幅) 昭和55年10月竣工(中央地下通路新設)
発注 日本国有鉄道
設計 日本国有鉄道
工事概要 中央通路拡幅/延長88m、幅25m、深礎工(直径2,600㎜、長さ18m)46基、掘削土量3万6,530㎥、鉄筋コンクリート量1万2,816㎥
中央地下通路新設/延長65m、幅35m、アンダーピニング工一式、深礎工(直径2,600㎜、長さ18m)40基、掘削土量1万1,733㎥、鉄筋コンクリート量4,134㎥
(写真は中央地下通路)
国鉄東京駅中央通路拡幅および中央地下通路新設
<東京都>昭和54年3月竣工(中央通路拡幅) 昭和55年10月竣工(中央地下通路新設)
発注 日本国有鉄道
設計 日本国有鉄道
工事概要 中央通路拡幅/延長88m、幅25m、深礎工(直径2,600㎜、長さ18m)46基、掘削土量3万6,530㎥、鉄筋コンクリート量1万2,816㎥
中央地下通路新設/延長65m、幅35m、アンダーピニング工一式、深礎工(直径2,600㎜、長さ18m)40基、掘削土量1万1,733㎥、鉄筋コンクリート量4,134㎥
(写真は中央地下通路)

海に空に大量輸送時代が到来

国民所得倍増計画が進むなか1県1空港を目標に空港建設が推進され、昭和40年(1965)には全国で48空港が整備され、わが国の空港網の骨格がこのとき整った。42年から第1次空港整備5カ年計画が始まり、このころからジェット機の就航、機体の大型化が促進されるとともに、滑走路の拡幅とターミナルビルなど関連施設の拡充が各空港で急速に進んだ。

32年から当社が一貫して施工に当たっている函館空港整備事業は、この時期、第3期工事を行っており、その後も現在に至るまで土木、建築とも工事が断続的に続いている。そのほか、43年1月に日本航空機装ビル、44年1月に大阪国際空港ターミナルビルディング国内線ブロックの工事、45年2月に全日空第一格納庫増築工事を施工した。また、このころ松山空港滑走路他、新大分空港滑走路、50年代に入り宇部空港旅客ターミナルビル、新帯広空港用地造成およびエプロン新設(JV)の建設工事にも当社は携わった。

国際航空需要の増大に対応して、新たな国際空港として千葉県成田市三里塚に新東京国際空港の建設が計画され、44年9月、その第1期建設工事が開始された。当社は、敷地造成第1工区(その2)(JV)、構内道路、構造物(JV)、旅客ターミナル北棟(JV)などを施工した。しかし、空港建設反対の動きの影響は大きく、新東京国際空港が滑走路1本で部分開港したのは、工事着工後約9年を経過した53年5月20日のことであった。

これらの諸空港の建設を通じ、用地取得問題、騒音問題への懸念等から内陸部での空港立地は難しいという教訓を得、用地取得の容易な丘陵地帯のほか、いわゆる沖合展開や、さらには海上空港案が脚光を浴びるようになっていった。

一方、この時期、世界の海上輸送の形態も大きく変貌していった。41年4月、フルコンテナ船が北米東岸とヨーロッパの間で初めて就航し、外航定期航路にコンテナシステムという新しい輸送形態が登場した。わが国にも42年9月にコンテナの第1船が寄港し、以来、外貿コンテナ輸送が本格化していった。このような輸送形態の変化に対応し、コンテナ船ないしは外貿定期船のための港湾整備が重点的に進められ、当社は東京港、大阪港、横浜港、神戸港等の重要港湾において、コンテナ埠頭や外貿埠頭建設などの諸工事に携わった。また、大型タンカーに対応したシーバース建設工事もこのころ行っている。

新東京国際空港(JV)
<千葉県>昭和47年12月竣工(土木工事)
昭和53年5月竣工・開港(旅客ターミナル北棟)
発注 新東京国際空港公団
設計 新東京国際空港公団、日建設計
新東京国際空港(JV)
<千葉県>昭和47年12月竣工(土木工事)
昭和53年5月竣工・開港(旅客ターミナル北棟)
発注 新東京国際空港公団
設計 新東京国際空港公団、日建設計

造船王国日本

建造設備の巨大化

昭和40年代の輸出御三家は鉄鋼、船舶、自動車といわれている。なかでも鉄鋼と船舶は、30年代、40年代を通じ常に上位を占めていた。40年代に入り、第3次輸出船ブームを迎えた造船業界は、船舶の超大型化に対応して、巨大建造設備に積極的な投資を行った。46年(1971)~50年の5年間の設備投資額は、40~45年の6年間の総額2,383億円の倍以上である総額6,085億円にのぼった。造船業界は47~48年には、45年の第3次輸出船ブームを大幅に上回る受注で史上空前の造船ブームにわいたが、これは48年10月に石油危機が起こるまで続いた。

このように各造船会社が造船所を拡大するなかにあって、とりわけ当社の施工した日立造船有明工場1号・2号ドック(JV)は最新鋭の大型造船所として船舶業界の注目を大いに浴びた大工事であった。この工事のほかにも、大阪から移転した名村造船所の伊万里工場建造ドック(JV)や三菱重工業神戸造船所船台延長および第4ドックの拡幅延長工事、そして三井造船玉野造船所5号船台(拡張)およびLNG船建造用2号船台の拡幅延長工事などが、このころの主な造船所の工事である。

日立造船有明工場1号・2号ドック(JV)

この造船所は、超大型船を連続建造できる2ドック建造システムを採っており、40~60万t級の大型タンカーは年間4隻建造でき、また100万t級超大型タンカーも建造が可能であるという、世界でも有数の規模を誇る造船所であった。造船方法は、1号ドックで船尾部を、2号ドックで船首部を建造し、これを1号ドック内で結合して、渠内で艤装を完了し、ただちに試運転に移れるという画期的なものであり、あらゆる面で作業の高能率化が図られていた。

この造船所のドック本体、クレーン基礎、ポンプ室などの設計・施工を当社と日産建設のJVで特命受注し、昭和47年(1972)1月から2年10カ月の歳月をかけて工事が行われた。

ドックのスケールは巨大で、1号ドックは長さ620m、幅85m、深さ14m、2号ドックは長さこそ1号ドックの半分程度の380mながら幅、深さともに1号ドックと同じで、両ドックを合わせると容量は120万㎥に及び、工事規模も掘削土量150万㎥、コンクリート量20万㎥、鋼矢板約1万2,000t、基礎杭約5,000本の多きにのぼった。

ドック建設の技術上の最大ポイントは、ドック渠底に加わる被圧地下水による揚水圧をどう抑えてドックの安定を図るか、そして揚水量を最小限に抑えるにはどうするか、この二つであった。そこで、まずドック底版下の土層分布を正確に把握するため、約200カ所、延長6,600mに及ぶボーリング調査を行い、地下30~45mにある不透水層(粘土層)の厚さと分布状況を克明に調査した。止水壁は、最も深い所は30mに達し、鋼矢板と薬液注入で止水した。打ち込まれた鋼矢板は約6,000枚、硬い砂礫層、粘土層への鋼矢板の打込みは、先行削孔したものの相当難航した。さらに、両ドックで48カ所にリリーフウェルをセットし、渠底版直下には減圧排水工を設置し、揚水量を当初予測した毎時300㎥以内にとどめることができた。

広くて深い“巨大さ”に挑んだ当工事は幸い天候にも恵まれ、台風に遭うことなく、工期も短縮し、49年10月無事完成した。雲仙岳を望む美しい有明海の埋立地に10万本の樹木に囲まれた“森の中の造船所”として世界で最も無人化の進んだ最新鋭の巨大な造船所がここに出現したのであった。請負金は35億3,800万円、所長は石元顕一であった。なお、同時期に組立工場などの建築工事(請負金8億4,615万円)もあり、所長は南薗次男であった。

日立造船有明工場1号・2号ドック(JV)
<熊本県>昭和49年10月竣工
発注 日立造船
設計 日立造船、日産建設、当社(以上土木)、大建設計(建築)
工事概要 1号ドック/長さ620m×幅85m×深さ14m
2号ドック/長さ380m×幅85m×深さ14m 掘削土量150万㎥、コンクリート量20万㎥、鉄筋1万3,500t
日立造船有明工場1号・2号ドック(JV)
<熊本県>昭和49年10月竣工
発注 日立造船
設計 日立造船、日産建設、当社(以上土木)、大建設計(建築)
工事概要 1号ドック/長さ620m×幅85m×深さ14m
2号ドック/長さ380m×幅85m×深さ14m 掘削土量150万㎥、コンクリート量20万㎥、鉄筋1万3,500t

名村造船所伊万里工場建造ドック(JV)

大阪木津川河口にあった名村造船所が、当社もその造成に携わった佐賀県伊万里湾の工業団地に建造ドックを建設することとなり、当社(幹事会社)と鴻池組のJVが設計・施工を担当した。

ドックの規模は長さ450m、幅70m、深さ11.5m、年間25万t級タンカーを5隻建造できる設備をもち、最大45万t級の大型タンカーも建造できる設計となっていた。

本工事にあたり、昭和47年(1972)10月から渠口および渠壁構築で鋼矢板による仮締切りが行われたが、ドック建設地点は大量の岩石が投入された埋立地であったため、この鋼矢板打込みに大いに難渋し、途中でグラウトの追加や渠壁の設計変更などを行った。

当ドックは、船の前と後ろ方向の両方と、さらにドック中ほどにもゲートがつけられており、この中間ゲートの操作によって一つのドックが1ドック以上に効率的に使用できるという当時としては珍しい設計となっていた。そのため、施工が最も困難である渠口部を二つもつことになったうえに、石油危機の諸々の影響のなかで発注者からコスト低減のための経済設計が強く要請され、これに対し当社の設計技術者と現場技術者は総力を挙げて工事に当たり、49年9月工事は完成した。所長であった神津常務はこの工事を回顧して「コストダウンを図るようにという発注者の意向に沿ったドック造りを目指したが、土木工事では今でもまだまだ少ない設計・施工の利点をここでは大いに発揮できた」と後に語っている。請負金は22億4,000万円、所長は神津裕一であった。

名村造船所伊万里工場建造ドック(JV)
<佐賀県>昭和49年9月竣工
発注 名村造船所
設計 当社、鴻池組
工事概要 ドック/長さ450m×幅70m×深さ11.5m
掘削土量20万㎥、コンクリート量8万4,000㎥、鉄筋3,500t
名村造船所伊万里工場建造ドック(JV)
<佐賀県>昭和49年9月竣工
発注 名村造船所
設計 当社、鴻池組
工事概要 ドック/長さ450m×幅70m×深さ11.5m
掘削土量20万㎥、コンクリート量8万4,000㎥、鉄筋3,500t

東京大林ビルと大阪大林ビル建設余話

当社の本・支店のうち東京本社(本館、別館)と本店、そして名古屋支店、横浜支店、四国支店の各社屋が、現在あるいわゆる“自前”のビルである。戦後最初にできたのが東京大林ビルで、最大のものは大阪大林ビル、最近できたのが高松大林ビルである。請負工事ではないので、この5社屋とも別冊『資料編』の竣工年表には掲載されていない。そこで各々の竣工年月を示すと、東京大林ビルは昭和36年9月(別館は45年11月)、名古屋大林ビルは43年9月、大阪大林ビルは48年1月、横浜大林ビルは48年4月、高松大林ビルは平成3年9月となっている。

◇ ◇ ◇

東京本社の中心をなす東京大林ビルの地は、もと帝都高速度交通営団の材料置場であった。これを33年9月譲り受け、翌34年には建設のため社内で指名設計競技を行い、舟橋巌職員(現・取締役)の案を基本的に採用し建設を開始した。35年3月工事に着手し、翌年9月に竣工した。工事費は5億5,320万円、所長は天野茂徳であった。竣工にあたり大林社長(現・会長)は『大林グラフ』(38号)に次のような挨拶文を寄せている。

「……初代芳五郎が東京に事務所を開いたのが明治37年のことでありますから、東京進出以来実に58年ぶりでビルらしいビルを建てたわけで感銘至極に存じていることであります。(中略)当ビルディングの設計につきましては、建設業者のオフィスとして使いよいことを第一に、能率的で、近代的なオフィスビルの一つの標準にもなり得るものをと心掛けた次第でありますが、概ね所期の目的を達し得たかと存じております。……」

36年といえば、池田内閣が所得倍増計画を発表した年であり、日本経済が高度成長をひた走るスタートを切った年でもあった。

また、このビルについて東京大学生産技術研究所・村松貞次郎助教授は、建築専門雑誌『新建築』(36年11月号)誌上で次のように述べている。

「……きびしい“用”に徹したデザインは、ミジンの甘さも、遊びも許していない。しかも巨大な近代産業のたくましさと、鋭くみがかれた資本家の精神がみごとに調和して、機能がその精神をも豊かに謳いあげている。機能的な設計、機能的な建築という言葉は古くから使われ、すぐれた作品も数多くできている。しかしその建物のデザインが、その建築主の精神を、あるいはまた野心をもふくめて表現の中に共鳴している例は、きわめて少ないのではないだろうか。このビルは、そのごく稀なものの一つに属する。……」

(東京大林ビルの概要については133~134ページを参照)

◇ ◇ ◇

一方、大阪大林ビルは西日本初の本格的超高層ビルとして46年1月着工した。大阪に創業以来81年、旧本店を建設した時からでも45年近くがたっていた。

当ビルの特徴は本文258~261ページに詳しいが、構造の最大の特徴である大林式クロス・ストラクチャーについて村松貞次郎助教授は、『マンスリー大林』(48年2月号「耐震建築の歴史」)の中で次のような感想を述べている。

「……地上32階、高さ120m、外観は、みるからに逞しい。その構造を支えるのが十字形の大架構、すなわち大林式クロス・ストラクチャーで、建物のコア(芯)に設けられた耐震壁を、16階にある高さ3mの大型の梁で十字形に支える構造である。なかなかうまいアイデアだと感心した。

人間の背骨のように建物の中心に剛(かたい)棒状のコアを下から上まで通して、地震の横ブレの力に耐えるようにするのは、超高層建築の常識だが、そのコアが長ければ(すなわち高くなれば)長いほど、どうしても曲ったりよじれたりする。それをちょうど高さ半分の16階の大梁と、外側の柱でしっかり押さえつけるわけだ。地震国日本で、超高層建築を、スマートな外観と経済的な平面とをねらって建てようとすると、技術者の苦労はたいへんなものだとしみじみ感じた。……」

当ビルの建つ場所は、そのすぐ前にある旧本店の設備部が入っていた分室やガレージがあった敷地で、これを整備したものであった。

西日本で最初の本格的超高層建築ということで、本店ビル建設委員会(嶋道朔郎委員長、荒川初雄副委員長)のもと谷口尚武専務取締役(46年当時、以下同様)、意匠設計を栄木一成本店建築本部設計部主査、藤繩正俊同部職員、構造設計を木田幸夫東京本社建築本部設計部次長、高木正敏同部主任技師、設備設計を堀 大成東京本社建築本部設備部設計課長、中原信生同部計画課長らを中心に45年1月から検討を重ねた。工事費は55億6,253万円、所長は新開信之であった。

また、錦上華を添えたのが二つの彫刻と壁画であった。1階ロビーにある流 政之氏の「とうりゃんせ」、前庭にあるルドルフ・ウヘール氏(チェコスロバキア)の「STONE AND FIRE」と、地下1階食堂にある勝本富士雄氏の「Rising Sun」である。

なお、東京大林ビル(38年)、大阪大林ビル(49年)、名古屋大林ビル(45年)はいずれもBCS賞を受賞した作品で(カッコ内は受賞年)、大阪大林ビルはほかにも多くの賞を受賞している。

東京大林ビル建設当時の神田付近
東京大林ビル建設当時の神田付近
上棟間近の大阪大林ビル
上棟間近の大阪大林ビル

生産力増強を進める鉄鋼業

鉄鋼業界では国内鉄鋼需要の急激な増大に対応し、昭和40年代後半に入っても、これをほぼ完全に満たしたうえで世界市場への供給も大幅に増大させたため、ときには需要を上回るテンポで積極的な設備投資を行った。この量的拡大は48年(1973)まで続き、48年の粗鋼生産は1億1,932万tとピークに達した。

30年代から40年代にかけて大手鉄鋼メーカーは粗鋼生産過程で巨大な高炉を相次いで建設し、製鋼過程では平炉から転炉への転換を図ったが、さらには連続鋳造設備を導入し、圧延工程でも設備を大型化、自動化させていった。

製鉄所の大型化、連続化、自動化、高精度化に加え、環境対策、石油危機以降は省エネルギー化も加わったこの鉄鋼産業での設備の近代化、合理化は、景気が下降線をたどった第2次石油危機の53年ころまで続いていった。

40年代後半も、同前半に引き続き、当社は、神戸製鋼所加古川製鉄所・同真岡工場、川崎製鐵水島製鉄所・同千葉製鉄所、日本鋼管福山製鉄所、住友金属工業小倉製鉄所、新日本製鐵八幡製鉄所で大規模な各種工場の増設工事を行い、新規立地の住友金属工業鹿島製鉄所では大規模な新設工事が続いていた。また、日本鋼管京浜製鉄所扇島計画は一大リプレース計画であり、一連の大規模な製鉄所建設工事の最後のものとなった。

なお、50年代前半は、いわゆる“鉄冷え”の時代が始まったころであったが、日新製鋼呉製鉄所新一焼結工場、川崎製鐵千葉製鉄所第3製鋼工場その他転炉地区工事、新日本製鐵八幡製鉄所新三製鋼工場新設および転炉関連土木建築工事(JV)とともに、非鉄金属業の住軽アルミニウム工業(住友軽金属工業など住友系6社の共同出資会社)酒田工場の大規模な電解工場が完成した。同工場は、埋立て中の酒田臨海工業地帯の大半を占める大工場で、そのメイン工場であった電解工場は幅52m、長さ808mに及ぶ長大なものであった。当社は、鋳造工場を除いてこの酒田工場の主要施設のほとんどの工事に設計・施工で携わった。

住軽アルミニウム工業酒田工場電解工場
<山形県>昭和52年6月竣工
発注 住軽アルミニウム工業
設計 日建設計、当社
住軽アルミニウム工業酒田工場電解工場
<山形県>昭和52年6月竣工
発注 住軽アルミニウム工業
設計 日建設計、当社

住友金属工業鹿島製鉄所

同社は和歌山製鉄所で相次いで高炉を建設中であったが、加えて新規立地での新製鉄所を計画し、昭和42年(1967)、建設の進んでいた茨城県鹿島臨海工業地帯の一番乗り企業としてその工場建設を開始した。

鹿島臨海工業地帯は、規模において世界でも有数の堀割式港湾を中心に建設されたが、鹿島製鉄所は、このうち中央航路と途中Y字形に分かれる2本の航路のうちの北航路とに囲まれた敷地660万㎡に立地している。

当社は、42年5月から翌年にかけての、中央航路に面する重油バースから工事をスタートし、その後、原料岸壁や製品岸壁、仮設岸壁など全岸壁4㎞のうち小港湾を除くすべての岸壁を施工した。こうした工事に並行して42年7月からは工場の基礎(土木)および建家工事も開始し、当社は第1・第2製鋼工場、厚板工場、圧延工場ほかを担当した。このうち、第1製鋼工場には3基の転炉が、また第2製鋼工場には2基の転炉が据え付けられており、そのため両工場は高さ60mにも及ぶ大工場で、工事機械の能力が小さかった当時のことでもあり、また熟練工の不足も重なって鉄骨建方作業は難航した。第1・第2製鋼工場の主たる工事は44年9月着工、49年6月終了した。製鋼工場の建築工事の請負金は合計42億800万円で、鉄骨製品4万4,000t、生コン約4万㎥ほか鉄筋、鋼材、鉱滓、塩ビ鋼材などほとんどの建設資材が支給であった。また、土木工事の山場であった42年5月から52年5月までの土木工事の請負金は72億7,179万円にのぼり、ほとんどの資材は支給であった。所長は国本 悟から成尾勝豊(建築工事)、川田英雄から遠藤 博(土木工事)に引き継がれ、その後も工事は継続し、平成4年10月現在、4代目(土木)、5代目(建築)の所長のもと工事が続いている。

住友金属工業鹿島製鉄所
<茨城県>昭和49年6月竣工(第2製鋼工場第1期)
昭和52年5月竣工(原料岸壁第2期)
発注 住友金属工業
設計 日建設計
工事概要<建築>第1製鋼工場/S造、11F、延5万2,547㎡ 第2製鋼工場/RC造、7F、延3万3,134㎡ 圧延工場/S造、平家、3万866㎡ 厚板工場/S造、平家一部2F、延4万6,875㎡ほか
<土木>中央航路岸壁/製品岸壁・原料岸壁・重油バース、水深-6~-19m、総延長1,819.4m
北航路岸壁/製品岸壁、水深-12m、総延長689m
各種基礎/製鋼工場転炉基礎、圧延・厚板各種機械基礎ほか
(写真は昭和49年8月撮影)
住友金属工業鹿島製鉄所
<茨城県>昭和49年6月竣工(第2製鋼工場第1期)
昭和52年5月竣工(原料岸壁第2期)
発注 住友金属工業
設計 日建設計
工事概要<建築>第1製鋼工場/S造、11F、延5万2,547㎡ 第2製鋼工場/RC造、7F、延3万3,134㎡ 圧延工場/S造、平家、3万866㎡ 厚板工場/S造、平家一部2F、延4万6,875㎡ほか
<土木>中央航路岸壁/製品岸壁・原料岸壁・重油バース、水深-6~-19m、総延長1,819.4m
北航路岸壁/製品岸壁、水深-12m、総延長689m
各種基礎/製鋼工場転炉基礎、圧延・厚板各種機械基礎ほか
(写真は昭和49年8月撮影)

日本鋼管京浜製鉄所扇島地区

京浜製鉄所は日本鋼管発祥の地であるが、川崎・鶴見・水江の3製鉄所を統合して誕生したものであったため、横浜市と川崎市に10ブロックに分かれて工場が散在し、そのうえ一部既存設備の老朽化が激しく設備更新の必要性が増していた。

扇島計画は、従来の臨海製鉄所とは発想を変え、近接する都市域との分離を図るため、京浜扇島原料センター地先の海中に人工島の新扇島(約550万㎡)を新たに造成して、大型高炉2基およびこれに対応する原料ヤード、コークス、焼結、製鋼、連続鋳造、分塊、厚板その他の一貫生産設備を新設し、既存設備を集約再編成するものであった。

昭和49年(1974)11月、人工島と陸上を結ぶアクセス海底トンネルの開通とともに工場建設の第1期工事を開始し、当社はコークス工場第1期と厚板工場第2工区を担当した。コークス炉は、基本設計がカールスチール社(西独)、詳細設計が日建設計で、年産350万tの能力をもつ日本最大のコークス工場であった。その第1期工事は、掘削土量約20万㎥、コンクリート量約7万㎥、鉄筋7,000t、長さ60mの長尺鋼管杭約2,800本という大規模なもので、技術的にも埋立て後間もない軟弱地盤で基礎杭に作用するネガティブフリクション{}を大幅に低減できるスリップ・レイヤー杭(鋼管杭を特殊なアスファルトで被覆)を初めて本格的に採用し注目を浴びた。土木工事に続いて、石炭塔と炉端作業床などの建築工事を行い、51年8月、コークス工場第1期工事は完了した。

厚板工場は、50年1月~51年8月に施工した。この厚板工場は5,500㎜のロール幅をもつ世界最大級の圧延設備を備え、コンピュータにより全工程の大幅な自動化を実現した高能率・最新鋭の工場であった。工事は4工区に分割して行われ、当社はこのうちいちばん大きな第2工区を担当した。土木工事は、掘削土量約25万㎥、コンクリート量約8万㎥、鉄筋4,650t、鋼管杭約1,400本に及び、最盛期には月間コンクリート打設量2万㎥という全島一の工事記録を立てる大規模突貫工事を行った。建築工事では、外壁を無足場式パネル型式で施工、当社はこの試験工事も担当し、その成果は扇島全工場の標準工法となった。

土木・建築第1期工事の総請負金は101億3,962万円、所長は花嶋晴道(土木工事)と吉澤一虎(建築工事)であった。この第1期工事に引き続き、第2高炉関連工事を行う第2期工事が52年4月に開始され、当社はコークス工場増設工事ほかを担当した。さらに第3期工事として56年まで継続工事が続いた。なお、当製鉄所建設に関する土木工事に対し、50年度土木学会技術賞が授与された。

注 ネガティブフリクション:基礎杭の周辺地盤が沈下すると、杭周面に下向きの摩擦力(負の摩擦力、ネガティブフリクションという)が働き、予想以上に大きい力が杭に伝わり、杭が破壊したり沈下して上部構造に被害を生じる。

日本鋼管京浜製鉄所扇島地区
<神奈川県>昭和51年8月竣工(第1期)、昭和54年5月竣工(第2期)、昭和56年11月竣工(第3期)
発注 日本鋼管
設計 カールスチール社、日建設計
工事概要 コークス工場(第1期)/掘削土量20万㎥、コンクリート量7万㎥、鉄筋7,000t、石炭塔(SRC造一部RC造、B2、6F、延5,010㎡)、コークス炉用煙突(高さ130m、1基)、コークス乾式消化設備管理室、コークス節分室ほか
厚板工場(第1期)/掘削土量25万㎥、コンクリート量8万㎥、鉄筋4,650t、第2工区(S造、平家、4万6,000㎡)
コークス工場(第2期)/石炭塔(SRC造、B1、6F、延4,850㎡)、コークス炉用煙突(高さ130m、1基)、コークス乾式消化設備ほか
厚板工場(第3期)/B工区(S造、平家、1万㎡)
(写真点線部が当社担当工区)
日本鋼管京浜製鉄所扇島地区
<神奈川県>昭和51年8月竣工(第1期)、昭和54年5月竣工(第2期)、昭和56年11月竣工(第3期)
発注 日本鋼管
設計 カールスチール社、日建設計
工事概要 コークス工場(第1期)/掘削土量20万㎥、コンクリート量7万㎥、鉄筋7,000t、石炭塔(SRC造一部RC造、B2、6F、延5,010㎡)、コークス炉用煙突(高さ130m、1基)、コークス乾式消化設備管理室、コークス節分室ほか
厚板工場(第1期)/掘削土量25万㎥、コンクリート量8万㎥、鉄筋4,650t、第2工区(S造、平家、4万6,000㎡)
コークス工場(第2期)/石炭塔(SRC造、B1、6F、延4,850㎡)、コークス炉用煙突(高さ130m、1基)、コークス乾式消化設備ほか
厚板工場(第3期)/B工区(S造、平家、1万㎡)
(写真点線部が当社担当工区)

車社会と流通基地の整備

昭和44年(1969)に日本の自動車保有台数は1,650万台を超え、世界第2位の自動車保有国となった。そして46年には早くも2,000万台を超えたのである。こうしたなかで、わが国のトラック台数は、44年に500万台、その5年後の49年には700万台を超え、これは全車両の25~35%を占めていた。

輸送機関別の国内貨物輸送量をみると、自動車の分担率は38年以降8割を超え、ジリジリとその比率を上げていく。このように貨物輸送の主役が鉄道からトラックへ交代したことや、都市内交通の混雑緩和および輸送の円滑化を図るために、東京や大阪などでこの時期、大規模なトラックターミナルの建設が続いた。また、立ち遅れた都市の流通機構の整備を目的に流通センターの建設も相次いだ。

40年代後半に当社が施工したこの種の施設としては、板橋トラックターミナル荷扱場(1~8号棟)(JV)、京浜トラックターミナル保管庫および保管庫付荷扱場(11~13号棟)(JV)、東京流通センター・センタービルA棟(JV)、青森市中央卸売市場、東京団地倉庫板橋倉庫、横浜総合卸センター第2工区、北大阪トラックターミナル第1期(第2工区)(JV)、松山市中央卸売市場(第1期)などが代表的なものである。さらに50年に北九州市中央卸売市場青果棟、会津若松市公設地方卸売市場、51年に東京団地倉庫足立倉庫・同南棟(JV)、大阪府中央卸売市場北部市場第1工区(JV)などが完成した。

一方、狭隘な国土の中での爆発的な自動車の増加は、とくに都心部での地下駐車場という新しい建設需要を生み出し、また地方都市ではそれまで市民の足であった路面電車がバスへ切り替わり、郊外へと宅地が広がるにしたがってバスへの需要は増加していった。札幌の大通バスターミナルビル(地下1階と1階がバスセンターで、広さ6,551㎡は全国最大の地下バスターミナル)や後述する熊本交通センターのような大きなバスセンターの建設もみられた。

東京流通センター・センタービルA棟(JV)
<東京都>昭和46年10月竣工
発注 東京流通センター
設計 三菱地所
東京流通センター・センタービルA棟(JV)
<東京都>昭和46年10月竣工
発注 東京流通センター
設計 三菱地所
東京団地倉庫板橋倉庫
<東京都>昭和48年7月竣工
発注 東京団地倉庫
設計 日建設計
東京団地倉庫板橋倉庫
<東京都>昭和48年7月竣工
発注 東京団地倉庫
設計 日建設計
青森市中央卸売市場
<青森県>昭和47年9月竣工
発注 青森市
設計 岡建築設計事務所
青森市中央卸売市場
<青森県>昭和47年9月竣工
発注 青森市
設計 岡建築設計事務所
大阪府中央卸売市場北部市場第1工区(JV)
<大阪府>昭和51年12月竣工
発注 大阪府
設計 大阪府、日建設計
大阪府中央卸売市場北部市場第1工区(JV)
<大阪府>昭和51年12月竣工
発注 大阪府
設計 大阪府、日建設計

京浜トラックターミナル(JV)

東京都大田区にある埋立地、平和島は物流の一大基地となっているが、ここにある京浜トラックターミナルはわが国最大の公共トラックターミナルである。

発注者の日本自動車ターミナルは、政府、東京都、民間企業の出資によって設立され、当社も参加していた特殊法人である。昭和43年(1968)、まず自動車施設(駐車場等)と荷扱場(1~10号棟)を当社の手で施工し、次いで46年、12号棟(賃貸用の保管庫)、11号棟(配送センター)を当社(幹事会社)、鹿島建設、大成建設、フジタ工業の4社JVで施工した。その後も追加工事を受注したが、これらは49年4月末にすべて完成した。さらに13号棟(配送センター)が12号棟と同様の4社JVで50年11月完成し、こうして、当トラックターミナルの荷扱場は総延3万6,245㎡(1~11号棟)、配送センターは総延5万363㎡(11~13号棟)となり、ここに日本屈指の大トラックターミナルが完成した。46年から51年までの請負金は総額39億3,000万円で、所長は日下部博であった。

15年を経て平成2年5月、従来駐車場となっていた所に新たに14号棟(総合物流センター)の新築工事を3社JV(当社が幹事会社)で再び開始している。14号棟は当トラックターミナルとしては初の地下階をもつ建物である。

京浜トラックターミナル(JV)
<東京都>昭和50年11月竣工(13号棟)
発注 日本自動車ターミナル
設計 梓設計
工事概要 11号棟/SRC造、4F、PH付、延2万1,125㎡
12号棟/RC造、4F、延1万8,161㎡
13号棟/RC造一部SRC造、5F、PH付、延1万6,557㎡
京浜トラックターミナル(JV)
<東京都>昭和50年11月竣工(13号棟)
発注 日本自動車ターミナル
設計 梓設計
工事概要 11号棟/SRC造、4F、PH付、延2万1,125㎡
12号棟/RC造、4F、延1万8,161㎡
13号棟/RC造一部SRC造、5F、PH付、延1万6,557㎡

大量消費時代と大型ショッピングセンター

再開発によって都市における土地の合理的かつ健全な高度利用と、都市機能の更新および人間環境の回復を図ることの重要性が見直され始め、昭和44年(1969)「都市再開発法」が施行された。こうして40年代後半に入り、わが国はようやく本格的市街地再開発の夜明けを迎えるのである。

一方、40年代のデパート各社の売上げは伸び悩み、これに対してスーパーなどの量販店は不況知らずの成長を続け、40年代も後半に入ると、量販店の売場面積や売上高はついにデパートを追い越した。こうした状況のなかで量販店の出店の規制を盛り込んだ「百貨店法」の改正、すなわち「大店法」{注1}が49年3月施行されることになり、これをにらんで、各量販店は列島改造ブームにわくこの機に店舗の新増設を急ぎ図っていった。対抗してデパートも既存店舗の増改築を進めるとともに、大都市郊外や地方有力都市において店舗の新設に積極的に取り組んでいった。

こうした動きと相まって、市街地再開発事業での保留床{注2}を活用して、全国の再開発事業に多くの大型店舗が進出することになった。このほかにも、斜陽化したボウリング場を転用したり、工場跡地にショッピングセンターを建設するなど巨大な設備投資が行われた。

大型店舗の増強工事は、流通センターやパーキングなどの関連施設の需要を呼び起こすとともに、47年5月の大阪千日デパート、48年11月の熊本大洋デパートなどの火災の教訓から既存店舗の防災工事も増加した。

この時期、大型店舗の工事は目白押しで、46年に完成したものでは岡崎ショッピングセンタービル(レオビル)、多治見駅前ビル(名鉄ストア)、池袋東武会館新館(東武百貨店)、大丸神戸店(増築)、ルックスビル(パルコ心斎橋)、新相鉄ビル第1期第1次(横浜髙島屋)、47年に完成したものでは、藤崎百貨店(増改築)、髙島屋東京店東別館、大阪神ビル(阪神百貨店)(改造)、48年には豊橋西武南館、近鉄上本町ターミナルビル・近鉄百貨店(第2期)(JV)、日本年命岡山駅前ビル(髙島屋岡山店)、広島福屋(増改築)、熊本交通センター(岩田屋伊勢丹ショッピングセンター)、新相鉄ビル第1期第2次(相鉄ジョイナス)(横浜髙島屋増築および専門店街)、岩崎学園ビル・三越横浜支店(JV)、49年はTBS東郷文化会館(パレ・フランス)、神戸デパート(再開復旧)、丸井清水店などが完成した。

注1 大店法:大規模小売店舗における小売業の事業活動の調整に関する法律。

注2 保留床:市街地再開発事業により新たにビルが建設された場合、事業施行前の土地所有者等の各種権利者には、そのビルの一部床が分与され、残りの床に関する権利が事業の施行者に帰属する。その残りの床部分をいう。

新相鉄ビル第1期第2次(相鉄ジョイナス)
<神奈川県>昭和48年11月竣工
発注 相模鉄道
設計 松田平田坂本設計事務所
新相鉄ビル第1期第2次(相鉄ジョイナス)
<神奈川県>昭和48年11月竣工
発注 相模鉄道
設計 松田平田坂本設計事務所
TBS東郷文化会館(パレ・フランス)
<東京都>昭和49年7月竣工
発注 ティ・ビー・エス興発
設計 柳建築設計事務所、織本匠構造設計研究所
TBS東郷文化会館(パレ・フランス)
<東京都>昭和49年7月竣工
発注 ティ・ビー・エス興発
設計 柳建築設計事務所、織本匠構造設計研究所

岡崎市本町康生西第1、第2市街地再開発事業

この事業は、岡崎市の中心地にあった法務局跡地(西側)と東側に隣接する低層木造建築の密集地を合わせた面積7万3,142㎡を再開発するもので、昭和44年(1969)施行の「都市再開発法」が適用された全国初の事業として大いに注目を集めた。

第1期事業は、45年4月に発足した。工事は多岐にわたり、施工も数業者が分担していたが、当社が受注したのは、第1組合発注(当初はオリエンタルデベロッパーほかの発注であった)による岡崎ショッピングセンタービル(レオビル)、岡崎セントラルパークビル、康生ビルそして岡崎エネルギー供給公社発注のエネルギープラントおよび熱供給配管工事、岡崎市の発注による地下駐車場、周辺道路および下水道工事などであった。

次いで、49年10月に第2組合による第2期事業が始まり、ここでは当社は、同組合発注の中央ビル・岡崎相互ビル、エネルギープラント増設工事及び地域熱供給配管工事を受注し、いくつかの周辺ビルも同時に施工した。

この工事で最も特筆すべきは、岡崎セントラルパークビルの地下2階に設けられた民間初の地域冷暖房プラントであった。岡崎市では、同地区の再開発計画を策定するにあたり、公害や都市災害の防止とエネルギーの有効利用に重点をおき、第一弾の岡崎ショッピングセンタービルが竣工したあと、地域冷暖房を事業計画に織り込むこととなった。

これに応えて東京本社設備部では、当社の十数年にわたるこの方面の研究成果をもとに民間による初の地域冷暖房事業を実現すべく英知を結集した。こうして、日本初の2槽2階式蓄熱槽をもち、また機器類および蓄熱制御などをコンピュータでワンマンコントロールできる、これも日本初のシステムをもつ地域冷暖房システムを提案、46年10月、当社も出資した岡崎エネルギー供給公社が、その計画の実施機関として設立された。

当時まだ「熱供給事業法」がないころで(施行は47年12月)、地域冷暖房システムは東京新宿副都心や大阪千里中央で稼働しているにすぎなかった。そうしたころに当社が前述のようなさまざまな新しい試みを提案して実施したことに、当時の技術者の先見性と心意気が感じられる。また当システムは、熱源として電気、都市ガス、灯油の3種を組み合わせる方式をとっており、都市エネルギーの効果的利用、エネルギー需給事情への多面的配慮、無公害、経済性ならびに省エネ効果など、20年を経て設備更新時期を迎えた現在も環境に配慮したものと高く評価されている。

建築工事も、工事件数が多く、規模も巨大であったところから7年余の長い歳月を費やし、全工事が完成したのは52年6月であった。請負金は1期、2期事業合わせて100億3,300万円、所長は田島義徳である。なお、地域冷暖房プラントの設計は中原信生であった。

岡崎市本町康生西第1、第2市街地再開発事業
<愛知県>昭和48年3月竣工(第1組合)
昭和52年6月竣工(第2組合)
・岡崎ショッピングセンタービル
発注 オリエンタルデベロッパー、岡崎ショッピングセンター
設計 オリエンタルデベロッパー、鷹羽建築事務所
工事概要 SRC造、B1、7F、PH付、延2万8,104㎡
・岡崎セントラルパークビル
発注 セントラルパークビル
設計 鷹羽建築事務所
工事概要 SRC造、B2、5F、PH2F、延2万4,583㎡
・康生ビル
発注 康生ビル
設計 鷹羽建築事務所
工事概要 RC造、B1、5F、PH付、延5,360㎡
・中央ビル・岡崎相互ビル
発注 岡崎市本町廉生西第2市街地再開発組合
設計 鷹羽建築事務所
工事概要 SRC造およびRC造、B2一部B3、6F、PH2F、延3万5,615㎡
(左下写真は地域冷暖房プラント)
岡崎市本町康生西第1、第2市街地再開発事業
<愛知県>昭和48年3月竣工(第1組合)
昭和52年6月竣工(第2組合)
・岡崎ショッピングセンタービル
発注 オリエンタルデベロッパー、岡崎ショッピングセンター
設計 オリエンタルデベロッパー、鷹羽建築事務所
工事概要 SRC造、B1、7F、PH付、延2万8,104㎡
・岡崎セントラルパークビル
発注 セントラルパークビル
設計 鷹羽建築事務所
工事概要 SRC造、B2、5F、PH2F、延2万4,583㎡
・康生ビル
発注 康生ビル
設計 鷹羽建築事務所
工事概要 RC造、B1、5F、PH付、延5,360㎡
・中央ビル・岡崎相互ビル
発注 岡崎市本町廉生西第2市街地再開発組合
設計 鷹羽建築事務所
工事概要 SRC造およびRC造、B2一部B3、6F、PH2F、延3万5,615㎡
(左下写真は地域冷暖房プラント)

熊本交通センター(岩田屋伊勢丹ショッピングセンター)

昭和47年(1972)4月に開始した当工事は、熊本市周辺の交通が集中する市内随一の場所に、一大ショッピングセンターを建設し、これと複合して既存のバスセンターも再整備するという、支店始まって以来の大工事であった。

その特徴はなんといっても、SRC造、地下2階、地上10階、延5万8,076㎡のショッピングセンターと1万7,478㎡のバスセンターの工事を、10枚ほどの基本設計図だけでスタートし、18カ月で完成させるという極端に短い工期にあった。

そのため、地下ではOWS工法に九州で初のケリー掘削機を緊急導入し、またランプウェイでOWS壁を本体利用するなど、阿蘇の伏流水と戦いながら工夫を重ね、地上ではRCの小梁を現場プレハブ化しクレーンで鉄骨大梁に取り付けるという、当時としては斬新な工法を編み出すなど、省力化と工期短縮に最大限の力を尽くした。こうして48年10月竣工、九州初進出の伊勢丹と博多の老舗・岩田屋が共同して入ったショッピングセンターの歳末商戦に間に合わせることができた。請負金は61億6,343万円、所長は林 慶一郎である。

熊本交通センター(岩田屋伊勢丹ショッピングセンター)
<熊本県>昭和48年10月竣工
発注 熊本交通センター
設計 三橋建築設計事務所、石本建築事務所
工事概要 SRC造、B2、10F、PH2F、延5万8,076㎡
熊本交通センター(岩田屋伊勢丹ショッピングセンター)
<熊本県>昭和48年10月竣工
発注 熊本交通センター
設計 三橋建築設計事務所、石本建築事務所
工事概要 SRC造、B2、10F、PH2F、延5万8,076㎡

データ通信の拡大と電話の急増

昭和39年(1964)に開始された日本航空の座席予約システム、40年に始まった国鉄(現・JR)の座席予約システムをはじめとする日本電信電話公社(現・NTT)のデータ通信{}サービスは、47年のデータ通信回線の民間への開放を経て、48年の銀行オンライン化、49年の気象データ通信からDIPS(国内最大のコンピュータによるデータ通信サービス)や高速データ通信などに拡大していった。そのため、日本電信電話公社は40年代後半に通信部門に集中的に投資を行っており、42~47年には約1,800億円であった投資額は、48~52年には約5,000億円と急増した。当社はこの時期、九州電気通信局庁舎、東京データ通信局(JV)、大阪データ通信局舎(JV)、横浜データ通信局(50年12月竣工)を施工した。

また、電話需要も増える一方で、増設が需要に追いつかない状況(積滞)が45年にはピークに達した。こうした背景のなかで、このころ各地に大規模な電話局舎も建設された。当社施工の代表的なものは湊川市外電話局(JV)で、50年代に入り高松電話局三条局(51年5月竣工)、札幌第二電電ビル(JV)(52年8月竣工)や尼崎電報電話局金楽寺別館(JV)(54年9月竣工)も施工した。

国際電話の発着信もこの時期急増しており、46年度は対前年度比30%増、48年度は同54%増となり、また国際データ通信システムの利用も増加していった。このため、国際電信電話会社(KDD)は、46年11月から東京・新宿の副都心に国際通信センターKDDビルを建設、最新の電子交換機やデータ通信設備を導入して、東京・大手町の局舎と並行して運用しながら順次移行していった。当社は、この国際通信センターKDDビル(JV)(49年6月竣工)の建設にも携わり、また近畿以西の国際電話の中央局である国際電信電話谷町局舎(50年10月竣工)の施工にも携わった。

注 データ通信:電話回線とコンピュータを結び、時間と距離の制約を越えて、大量の情報処理を即時に行うシステム。

九州電気通信局庁舎
<熊本県>昭和46年7月竣工
発注 日本電信電話公社
設計 日本電信電話公社
九州電気通信局庁舎
<熊本県>昭和46年7月竣工
発注 日本電信電話公社
設計 日本電信電話公社
国際通信センターKDDビル(JV)
<東京都>昭和49年6月竣工
発注 国際電信電話
設計 日本総合建築事務所、丸ノ内建築事務所、武藤構造力学研究所
国際通信センターKDDビル(JV)
<東京都>昭和49年6月竣工
発注 国際電信電話
設計 日本総合建築事務所、丸ノ内建築事務所、武藤構造力学研究所
東京データ通信局(JV)
<東京都>昭和48年11月竣工
発注 日本電信電話公社
設計 日本電信電話公社
東京データ通信局(JV)
<東京都>昭和48年11月竣工
発注 日本電信電話公社
設計 日本電信電話公社
国際電信電話谷町局舎
<大阪府>昭和50年10月竣工
発注 国際電信電話
設計 日本総合建築事務所
国際電信電話谷町局舎
<大阪府>昭和50年10月竣工
発注 国際電信電話
設計 日本総合建築事務所

大阪データ通信局舎(JV)

同局舎は、大阪地区のデータ通信サービスを行うために建設され、当時、日本電信電話公社の施設中最大級のものといわれた。

電電公社の局舎は、電話回線網の中心に位置するよう都心部の人口密集地帯に置かれる。しかも階高は一般ビルの1.5倍以上が求められ、とくに当データ通信局舎は収容する機器の量が一般局舎に比べてはるかに多く、大きな床面積を必要とした。そのため特定街区として第六種容積地区の指定を受け、25階建の超高層建築となった。また、局舎の周囲には緑の広場を設け噴水を設置するなど、都市美に対する配慮もなされた。

施工は当社、竹中工務店、錢高組、間組の4社JVが担当、46年(1971)6月に着手し、業界初の試みとして、施工部門と別個に品質管理、工程管理、資料管理のために総合品質管理委員会を組織し、自主管理を行った。とくに設置した電電公社のデータ通信装置DEMOS-200B端末機を使って、資料の分析や統計的手法の導入によるフィードバック、工程のフォローアップを実施した。

この建物には、デリケートな機器を多数収容する関係からさまざまな計測器が装置されていたのも特徴で、強震計5台、風圧計13台、地下30mの地中には起動感震計などもあり、それぞれ自動的に記録するようになっている。請負金は設備工事が別途で42億648万円、所長は満田 裕であった。

大阪データ通信局舎(JV)
<大阪府>昭和49年10月竣工
発注 日本電信電話公社
設計 日本電信電話公社
工事概要 S造およびSRC造、B3一部B5、25F、PH付、延11万9,871㎡
大阪データ通信局舎(JV)
<大阪府>昭和49年10月竣工
発注 日本電信電話公社
設計 日本電信電話公社
工事概要 S造およびSRC造、B3一部B5、25F、PH付、延11万9,871㎡

マンションブーム

首都圏のマンション販売戸数は、昭和46年度(1971年度)は前年度より17%減となったものの、47年度は対前年度比40%近く増え3万戸を超えた。いわゆるマンションブームである。このブームの原因は、景気回復と金融緩和で一気に需要が増加したためであったが、とくに、これまでマンションには不向きとされていた東京都江東区、墨田区、荒川区など下町で急増したことや、郊外マンションが増えたこと、また不動産業者が保有している土地で将来高度制限地区に指定されるおそれがあるということから建設を急いだものも多かった。

京阪神地区でも前年の2倍以上、また広島、宇都宮、熱海、水戸などの地方都市にも、このマンションブームは広がっていった。48年を中心に当社施工のマンションの竣工も急増している。こうしたなかで、マンションは量より質の時代に向かい、さらに企業が社宅として集合住宅を建設する例も多くなってきた。

公営の集合住宅

千島市街地住宅(第1期)は、都市の再開発の一ケースで、大阪市大正区千島町に日本住宅公団と大阪市がタイアップして進めた公園住区「千島市街地住宅建設工事」のうち高層住宅ビルの最初の工事であった。深い軟弱地盤で、石や煉瓦が混在していたため杭打ち工事には苦労した。また、建物を3ブロックに分け、型枠、配筋、コンクリート打設を1ブロック1システムで順次後を追うかたちで進め、省力化、工期短縮、コスト軽減を果たした。請負金は16億7,414万円で、所長は森本厚三郎である。

鹿児島県住宅供給公社ビル(第1期、第2期)は、A、C棟が公営住宅として九州一の高層ビルであった。1期工事でA棟(6~16階が住宅110戸)とB棟(3~9階が住宅42戸)を、2期工事でC棟(6~16階が住宅99戸)を建設したが、シラス層での基礎杭の構築や、省力化工法であるHPC工法の導入が特徴の工事であった。請負金は第1期、第2期合計で24億円、所長は永崎重徳である。

名古屋市住宅供給公社発注の高層分譲住宅・中富積立分譲住宅は、延4万8,187㎡、住宅574戸というわが国屈指の規模であった。請負金20億1,164万円、所長は石井 明である。

公営の集合住宅としては、当社はこの時期、横浜市戸塚区で横浜市住宅供給公社発注のドリームハイツA棟、神奈川県住宅供給公社発注の同6・7号棟を、大阪で大阪市住宅供給公社発注の新北野分譲住宅、泉北ニュータウンで大阪府住宅供給公社発注の泉北F-A団地積立分譲高層住宅、広島市基町長寿園で大規模な市街化計画のうち日本住宅公団発注の白島北町市街地住宅および店舗付き住宅を、そして川崎市河原町の大規模団地内で神奈川県と川崎市両住宅供給公社発注の川崎河原町分譲共同ビル(13・14・15号棟)(JV)(50年9月竣工)、3棟、延6万㎡を超える集合住宅を相前後して施工している。

鹿児島県住宅供給公社ビル(第1期、第2期)
<鹿児島県>昭和47年11月竣工(第1期)
昭和49年4月竣工(第2期)
発注 鹿児島県住宅供給公社
設計 久米建築事務所
(写真は第1期)
鹿児島県住宅供給公社ビル(第1期、第2期)
<鹿児島県>昭和47年11月竣工(第1期)
昭和49年4月竣工(第2期)
発注 鹿児島県住宅供給公社
設計 久米建築事務所
(写真は第1期)
日本住宅公団千島市街地住宅(第1期)
<大阪府>昭和47年9月竣工
発注 日本住宅公団
設計 日本住宅公団、双星社竹腰建築事務所
日本住宅公団千島市街地住宅(第1期)
<大阪府>昭和47年9月竣工
発注 日本住宅公団
設計 日本住宅公団、双星社竹腰建築事務所
名古屋市中富積立分譲住宅
<愛知県>昭和48年4月竣工
発注 名古屋市住宅供給公社
設計 名古屋市住宅供給公社、安井建築設計事務所
名古屋市中富積立分譲住宅
<愛知県>昭和48年4月竣工
発注 名古屋市住宅供給公社
設計 名古屋市住宅供給公社、安井建築設計事務所

民間分譲マンション

民間の分譲マンションにも都心型、郊外型それぞれ個性的なマンションが各地に出現した。都心型マンションとしては、東京では若者の街原宿の神宮前コーポラス、当社の分譲マンション第1号で練馬区に完成した富士見台マンション、また北区に当社設計・施工で49年11月完成した大林不動産発注の大林フローラ上中里などがある。さらに、いままでマンション地区とは考えられていなかった隅田川沿いに49年1月完成した築地永谷コーポラスも大規模なものであった。このころの代表的なハイグレードマンションとしては、住友不動産発注の三田ハウス(JV)があげられる。

郊外型のマンションとして代表的なものは、住友商事発注の千葉県・西船橋ハイムがあり、3棟合計で延3万4,537㎡、総戸数386戸、請負金は23億2,208万円、所長は島崎昌英であった。また、新大阪駅前に49年3月完成したステュディオ新大阪は、洋服ダンス、ベッド、机、テレビ、冷蔵庫、ミニクッキング台などを備え、単身赴任者や自由業の人の仕事場としてすぐに生活できる設備が整ったビジネス専用マンションのはしりとして注目された。請負金は14億3,418万円、所長は中村 進である。

住友商事西船橋ハイム
<千葉県>昭和47年5月竣工
発注 住友商事
設計 日建設計
住友商事西船橋ハイム
<千葉県>昭和47年5月竣工
発注 住友商事
設計 日建設計
ステュディオ新大阪
<大阪府>昭和49年3月竣工
発注 丸紅不動産
設計 当社
ステュディオ新大阪
<大阪府>昭和49年3月竣工
発注 丸紅不動産
設計 当社
住友不動産三田ハウス(JV)
<東京都>昭和47年3月竣工
発注 住友不動産
設計 住友不動産
住友不動産三田ハウス(JV)
<東京都>昭和47年3月竣工
発注 住友不動産
設計 住友不動産
大林フローラ上中里
<東京都>昭和49年11月竣工
発注 大林不動産
設計 当社
大林フローラ上中里
<東京都>昭和49年11月竣工
発注 大林不動産
設計 当社

民衆駅から多角化するターミナルビルへ

駅機能と商業機能をあわせもつ駅舎としては、戦後の国鉄駅の改築の際導入された「民衆駅」が、昭和45年(1970)までに42カ所建設されたが、この代表的なものが、東京駅八重洲本屋・鉄道会館や横浜駅(横浜ステーションビル)、広島駅であった。ちなみに東京駅八重洲本屋・鉄道会館と横浜ステーションビルは当社の手で施工したもので、前者は29年10月に、後者は37年11月に竣工している。そして46年10月、国鉄池袋西口民衆駅・池袋東武会館新館(平成3年現在拡張工事中)がこうした民衆駅の一つとして竣工した。

46年に旅客ターミナル事業会社への国鉄(旧)の出資が認められたため、それ以降、全国主要都市で駅、ショッピングセンター、ホテル、駐車場など複合化した総合的旅客ターミナルビルが多数誕生することになり、また高層でかつ大規模なターミナルビルが増加していった。平成元年には、全国でその数91駅にのぼった。このうち、当社が施工した代表的なものは50年代に数多く、新宿ターミナルビル・新宿ルミネ(JV)、仙台ターミナルビル・エスパル(JV)、三ノ宮ターミナルビル・国鉄三ノ宮駅ビル(JV)、大阪ターミナルビル「アクティ大阪」(JV)などがあった。

一方、関西の私鉄では、このころ近畿日本鉄道の上本町ターミナルビル・近鉄百貨店(第2期)(JV)や京阪電気鉄道のくずは駅ビルなどの工事を行い、その後50年代には南海難波駅の大規模な改造整備事業(JV)などを行った。

国鉄池袋西口民衆駅・池袋東武会館新館

東京池袋駅周辺の開発に最初に当社が着手したのは昭和31年(1956)で、東京丸物百貨店・国鉄池袋駅東口本屋工事からであった。その後、地下鉄工事や駅東西を結ぶ構内旅客連絡地下道、西口での池袋東武会館本館、池袋西口協同ビルなど、30年代後半から40年代にかけて当地で当社は次々と大工事を手がけていった。

そして44年3月、池袋東武会館新館工事に着手し、当社が東口本屋を手がけてからの13年間に約7倍、220万人にふくれあがった乗降客をさばく池袋駅の西口にマンモスターミナルビルを出現させた。

工事は、東武東上線の電車の運行を止めずに、さらに地下鉄丸ノ内線や国鉄の乗降客を通しながら、その直上・直下に地下4階、地上15階、延7万㎡近い巨大な多目的ビルを構築するものであった。そのため、在来ホームや軌道等に制約される柱の位置やスパン割りおよび工事中の旅客動線の問題、駅施設や運行中の電車の仮受け支保工など設計・施工の両面から種々の工夫を行った。

着工後まず東上線の上下に床版を構築し、これで営業線をサンドウィッチのように防護し、地下は逆打ち工法を、そして地上は鉄骨建方を同時に進めた。1本が10tを超す大型鉄骨柱を使用していたため、吊上げ荷重16tという大型タワークレーン2基をこの工事のために特注して、その鉄骨建方を行った。また、全20層の高層建物でありながら周辺に工事用空地や低層部をもたないという施工上大変苦しい状況にあったが、工程計画、資材の搬出入計画で数次にわたる発注者、設計者、施工者一体となっての設計変更協議によってこの苦境を切り抜けた。こうして46年10月、9~15階に文化施設および飲食街をもつ当時都内最高層を誇るデパートがオープンした。

所長であった工藤専務は「鉄道施設は土木・建築・鉄道技術者が入り混じっての工事となるが、当社は池袋駅とともに東京駅、大阪駅、横浜駅など日本屈指のマンモス駅舎で、営業線を通したまま、この種の混然一体となった工事をとどこおりなく遂行してきた。ここで培われたノウハウは大変貴重なもので、平成3年末現在、池袋駅で行っている大規模な拡張工事に確実にこれらは引き継がれて生きている」と語っている。請負金は65億円、所長は工藤立治である。

国鉄池袋西口民衆駅・池袋東武会館新館
<東京都>昭和46年10月竣工
発注 日本国有鉄道、日本停車場、東武鉄道
設計 日本国有鉄道、鉄道会館
工事概要 SRC造一部S造、B4、15F、PH3F、延6万8,673㎡
国鉄池袋西口民衆駅・池袋東武会館新館
<東京都>昭和46年10月竣工
発注 日本国有鉄道、日本停車場、東武鉄道
設計 日本国有鉄道、鉄道会館
工事概要 SRC造一部S造、B4、15F、PH3F、延6万8,673㎡

近鉄上本町ターミナルビル・近鉄百貨店(第2期)(JV)

大阪市天王寺区上本町の近鉄百貨店は大正15年(1926)当社が施工したものであったが、昭和40年代に入って上本町地区の副都心化を図るため、近鉄のターミナル整備計画の一環として建て替えられることになった。その建替工事の第1期工事はすでに45年2月に完成し、第2期工事は、第1期工事でできたデパートの売場を約2倍にする百貨店ビルの建設であり、46年2月、当社(幹事会社)と大日本土木のJVで着手した。

工事は、1階に隣接して入線している近鉄大阪線の駅舎と、前面道路下地下2階に入線している同奈良線の駅舎と接続するため、その乗降客や乗換え客、デパートの買物客の通路を安全に確保しながらの難工事であった。まず、旧百貨店の2階までを解体し、1階に仮床版を設けて、35基の深礎杭を構築するとともに、OWS工法で土留壁を施工した。とくに1階の仮床版と2階の床版コンクリート打設までが、乗降客など第三者傷害の最も心配された時期であり、工事は電車の止まる深夜3時間が勝負であった。その後も乗客の流れを変える仮囲いの移動や危険と思われる工事、鉄道との取合い工事はほとんど終電後の作業となり、地下は逆打ち工法で、地上は鉄骨建方が進んだ。

こうしたなか、追加工事として、大阪線ホームの上に2層の駐車場と、さらに隣接して54レーンのボウリング場の工事を単独受注した。駐車場工事においても、鉄骨柱の建込みは線路を切り替えながらの深夜工事となった。

1日25万人といわれた乗降客の流れや、営業中の鉄道を抱え込んでの複雑な工事は現場員に一時も気の休まる時を与えなかったが、さらに、ボーナス商戦に向け契約工期より3カ月早い工期短縮が要請され、もともと大半が24時間作業で進められていた工事に、より一層の超突貫を強いることとなった。

請負金は最終的には駐車場工事(8億4,434万円)を含め63億円近くにのぼった。所長は黒川正三郎である。この工事から十数年を経た60年9月、ボウリング場のあった場所に都ホテル大阪(JV)が完成したが、この近鉄ターミナルビルと同じ村野藤吾氏の設計で、氏の遺作となった建築の一つであった。

近鉄上本町ターミナルビル・近鉄百貨店(第2期)(JV)
<大阪府>昭和48年9月竣工
発注 近畿日本鉄道
設計 村野・森建築事務所
工事概要 SRC造、B4、12F、PH4F、延3万6,200㎡
近鉄上本町ターミナルビル・近鉄百貨店(第2期)(JV)
<大阪府>昭和48年9月竣工
発注 近畿日本鉄道
設計 村野・森建築事務所
工事概要 SRC造、B4、12F、PH4F、延3万6,200㎡

変化する電源構成と大規模火力発電所の建設

わが国の電源構成が水主火従から火主水従に転じたのは昭和36年(1961)ころといわれる。その後の火力発電所は、電力需要増大と相まって火力発電の経済性の向上、とくにそれを支える発電技術の飛躍的進歩とともに大規模化していった。そして45年を過ぎるころには、もはや大都市周辺での大規模発電所の立地は困難になり、外洋に面して埋立、造成した臨海工業地帯に大規模火力発電所が計画され始めた。その代表例が、東京電力が鹿島臨海工業地帯に建設した鹿島火力発電所である。この工事を受注した当社は43年に1~4号機をほぼ同時に着手し、46、47年に相次いで運転を開始、続いて49年に5・6号機が完成し、当発電所は最終総出力440万㎾というわが国最大の火力発電所となった。

他の多くの火力発電所もこの時期増強を重ねるが、48年をピークにこれらも次々完成していった。また当社は、関西電力美浜発電所1号機本館を45年7月に竣工させている。ちなみに、原子力発電所が日本に初めて登場したのは40年代に入ってからで、日本最初の商業用原子力発電所である日本原子力発電東海1号機(41年、他社施工)に続いて、東京電力福島原子力発電所1号機(46年、他社施工)がこの時期完成している。(原子力発電所については章を改めて記述する。)

当社がこのころ増設工事に携わった大型火力発電所では、先述の東京電力鹿島火力発電所5・6号機、中部電力武豊火力発電所第2・第3・第4号機があげられる。30年代から一貫してその建設に携わり、東北地方で戦後初、東北最大の火力発電所であった東北電力八戸火力発電所でも、この時期、4号機を増設した。

また、40年代後半から50年代初めにかけて施工した代表的な火力発電所としては、関西電力高砂火力発電所1・2号機(土木工事)、東北電力新仙台火力発電所1・2号機本館、中国電力玉島発電所1・2・3号機本館があり、電力を大量に使用する鉄鋼業で始まった「共同火力会社方式」の火力発電所として住友共同電力壬生川火力発電所1号機本館他や鹿島共同火力発電所(当社は導水路を施工)のほか、酒田共同火力発電所では建家以外のほとんどの土木工事(第2工区)を行い、その請負金は77億円にのぼった。

東北電力八戸火力発電所4号機

当発電所の1・2・3号機はいずれも、昭和30年代から40年代前半にかけ当社が土木、建築工事とも一貫施工していたが、45年(1970)6月着工した当工事でも、放水路工事を除きすべて当社の施工となった。

建家は当社設計であったが、タービン架台は西独のジーメンス社設計となっており、一層ラーメン構造の設計であった。この設計には構造設計上、施工上の問題があったため、当社技術研究所で検討し、耐震性を考慮した設計に変更、また施工法でも柱鉄筋に先組み鉄筋工法を採用するなどして発注者にも大いに喜ばれた。4号機の出力は25万㎾である。請負金は土木、建築工事合わせて8億3,472万円、鉄骨は支給であった。所長は大脇賢一郎(土木工事)、菅井茂夫(建築工事)である。

東北電力八戸火力発電所4号機
<青森県>昭和47年4月竣工
発注 東北電力
設計 東北電力、当社
工事概要 土木工事/タービン基礎(39m×57m×6m)、ボイラー基礎(30m×33m×6m)、煙突基礎(38m×38m×5.5m)、掘削土量3万㎥、コンクリート量2万㎥
建築工事/本館(S造、4F、延6,005㎡)
東北電力八戸火力発電所4号機
<青森県>昭和47年4月竣工
発注 東北電力
設計 東北電力、当社
工事概要 土木工事/タービン基礎(39m×57m×6m)、ボイラー基礎(30m×33m×6m)、煙突基礎(38m×38m×5.5m)、掘削土量3万㎥、コンクリート量2万㎥
建築工事/本館(S造、4F、延6,005㎡)

東京電力鹿島火力発電所(1~6号機)

鹿島火力発電所は東京電力初の湾外遠隔立地で、1~4号機を第1、2、3期工事として、5・6号機を第4期工事として、当社が単独で本館建物をはじめとする建築工事のすべてを施工した。

最終総出力は先に述べたとおりわが国最大、とくに5・6号機は世界でも最大級の出力100万㎾を誇っていたため、工事はこれら“巨大さ”との戦いの日々となった。

乗込み当時は、まだ鹿島臨海工業地帯が建設途中でインフラが未整備なため、広大な砂丘の上をスクレーパなど重機が走り回り、現場への道が毎日変わってしまう状況であった。

工事は、まず約50万㎥にのぼる掘削工事、そして膨大な数の鋼管杭の打込みから始まった。長さ17~21mの2本継ぎ鋼管(直径660㎜)を8,209本、まさに来る日も来る日もドッカンドッカンと砂に打ち込む作業が続いた。

また、1・3・4号機で、ボイラー大梁の建方に「エレクションガーダー」と名付けた仮設揚重機を考案して使用した。これは特殊な天井走行クレーン形式の揚重機で、1枚60t以上の大梁を在来の工法よりはるかに安定した状態で所定の位置に収めることができた。こうして、昭和49年(1974)6月、6年弱をかけた工事が完了した。

請負金は、1~4期合わせて84億235万円にのぼり、ほかに32億5,550万円の支給材(主に鋼管、鉄骨など)があった。所長は1~4期を通じて吉沢一虎である。

東京電力鹿島火力発電所(1~6号機)
<茨城県>昭和49年6月竣工(第4期)
発注 東京電力
設計 東電設計
工事概要 本館(1~6号機)/S造およびRC造、3F一部4F、延7万802㎡
ボイラーフレーム鉄骨建方(1・3・4号機)/S造、高さ52~57m、計5,390t
付属建物ほか、総延7万9,874㎡
東京電力鹿島火力発電所(1~6号機)
<茨城県>昭和49年6月竣工(第4期)
発注 東京電力
設計 東電設計
工事概要 本館(1~6号機)/S造およびRC造、3F一部4F、延7万802㎡
ボイラーフレーム鉄骨建方(1・3・4号機)/S造、高さ52~57m、計5,390t
付属建物ほか、総延7万9,874㎡

中部電力武豊火力発電所第2・第3・第4号機

当発電所の第1号機は石炭専焼火力(出力22万㎾)で、昭和41年(1966)4月、当社の手で完成をみていた。重油専焼の第2・3・4号機(各出力37万5,000㎾)は、45年2月にまず第2・第3号機を、8月に第4号機を着工し、当社はこの3機すべての本館、ボイラーおよび煙突基礎(ニューマチックケーソン工法)工事を単独で施工した。請負金は24億7,098万円、また鉄骨、鉄筋、コンクリートは支給で請負金のほぼ同額にのぼった。所長は山田実夫である。

中部電力武豊火力発電所第2・第3・第4号機
<愛知県>昭和47年10月竣工
発注 中部電力
設計 中部電力
工事概要 本館/S造およびRC造、半地下、4F、延1万9,813㎡
その他/ボイラー基礎、煙突基礎ほか
中部電力武豊火力発電所第2・第3・第4号機
<愛知県>昭和47年10月竣工
発注 中部電力
設計 中部電力
工事概要 本館/S造およびRC造、半地下、4F、延1万9,813㎡
その他/ボイラー基礎、煙突基礎ほか

進む庁舎建築の合同化・高層化

各地で各種庁舎が老朽化したり、経済成長と相まって手狭になったりする一方で、コンピュータの導入などによる合理的な行政機能を備える必要も生じ、このころ相次いで庁舎の建替工事が続いた。そのなかでも大阪府警曽根崎庁舎や札幌市庁舎(JV)、福岡第2地方合同庁舎、東京消防庁本部庁舎は高層ビルであった。

とくに大阪府警曽根崎庁舎は警察庁舎として東洋一の高さ(地上11階)を誇り、地下2階が梅田地下街と連絡していて、いざというときには救急車が地上からのスロープを通って地下街に出動できるというユニークな地下街警察であった。そのため都心警察のモデル庁舎として、同じような立地にある警察から大いに注目された。

福岡第2地方合同庁舎は、「人と車の動線の分離、防災避難対策および設計標準化などの面でも適切にまとめられている」として、高く評価された庁舎であった。札幌市庁舎(JV)は市庁舎としては日本一の高さ(地上19階、最高軒高85m)であり、躯体は柱・壁がSRC造、梁がS造で、床版はデッキプレート工法、外装はアルミ鋳物のカーテンウォール、内装は、乾式工法による鉄板パネルといった超高層建築の工法が多く採用された。

また、高層ではないが大規模な庁舎建替えとして注目されたものに、池田・府市合同庁舎(JV)、東京都台東区役所庁舎、滋賀県庁舎新館及び警察本部庁舎別館、山口県県議会棟などがあった。

札幌市庁舎(JV)
<北海道>昭和46年10月竣工
発注 札幌市
設計 札幌市、三菱地所
札幌市庁舎(JV)
<北海道>昭和46年10月竣工
発注 札幌市
設計 札幌市、三菱地所
大阪府警曽根崎庁舎
<大阪府>昭和48年5月竣工
発注 大阪府
設計 大阪府、浦辺建築事務所
大阪府警曽根崎庁舎
<大阪府>昭和48年5月竣工
発注 大阪府
設計 大阪府、浦辺建築事務所
池田・府市合同庁舎(JV)
<大阪府>昭和48年4月竣工
発注 大阪府、池田市
設計 安井建築設計事務所
池田・府市合同庁舎(JV)
<大阪府>昭和48年4月竣工
発注 大阪府、池田市
設計 安井建築設計事務所
東京都台東区役所庁舎
<東京都>昭和48年7月竣工
発注 台東区
設計 台東区、久米建築事務所
東京都台東区役所庁舎
<東京都>昭和48年7月竣工
発注 台東区
設計 台東区、久米建築事務所
山口県県議会棟
<山口県>昭和50年2月竣工
発注 山口県
設計 日建設計
山口県県議会棟
<山口県>昭和50年2月竣工
発注 山口県
設計 日建設計

東京消防庁本部庁舎

昭和48年(1973)12月~51年3月に施工した当庁舎は、その建物内部の防災計画がすぐれたモデルケースであるばかりでなく、大災害時にも機能しうる安全性の高い設計となっている。

防災計画の一つに、各階事務室を囲むバルコニーがある。これは基準階の床面積の約14%を占め、防災を目的としたものながら建築のデザインにも生かされ、周囲の景観にも十分マッチしたものであった。

また、中央コアをはさんで2カ所、バルコニー端部に4カ所と計6カ所の避難用タラップが設けられていることも防災に配慮をしたものであった。

一方、一般の商業ビルよりも1ランク上の耐震性能、非常時に備えた屋上ヘリコプター緊急発着場、315㎥の飲料水用水槽のほか、ろ過器、滅菌器を備えた地下3階床下の雑用水槽(1,300㎥)等の施設を備えている。

また、丸の内地域冷暖房プラント利用第1号ビルでもある当ビルは、主として東京消防庁本部が使用する15階建の高層棟と丸の内消防署が使用する2階建の低層棟から成っている。請負金は36億2,993万円、所長は村井 博である。

東京消防庁本部庁舎
<東京都>昭和51年3月竣工
発注 東京都
設計 東京消防庁
工事概要 SRC造一部RC造、B3、15F、延3万679㎡
東京消防庁本部庁舎
<東京都>昭和51年3月竣工
発注 東京都
設計 東京消防庁
工事概要 SRC造一部RC造、B3、15F、延3万679㎡

超高層時代の到来と東京のビルラッシュ

昭和40年代後半の民間建設投資は、47年(1972)、48年に急増したが、用途別着工建築物で見ると、商業用ビルの建設が47年に続いて48年も異常な伸長を示している。いわゆるビル建設ブームである。これは、「建築基準法」の改正を契機に高層化が図られたことや事業拡大に伴ってオフィスビルの建設が相次いだことなどがその大きな要因であったが、列島改造ブームもその背景にあった。

とくに48年の東京都心部の高層ビル建設ラッシュはものすごく、一時、当社の現場が林立した丸の内、大手町ビジネス街では各ビルが覇を競うがごとき様相となっていた。

40年代後半は、この地区でまず、帝国ホテル新本館(JV)や一ツ橋総合ビル(竹平加入電信局総合建物)が45年に完成、続いて46年に東京會舘・富士ビルディング(JV)が、48年には三菱ビル・三菱重工ビル(JV)と三和銀行東京ビルの両ビルが完成、49年に入って日本興業銀行本店、東京海上ビル本館(JV)、AIU東京ビル(JV)などが次々と竣工を迎えた。

なお、これに先立って日生日比谷ビル・日生劇場(38年)、国際ビル・帝国劇場(41年)、パレスサイドビル(JV)(41年)が、また、これより後には有楽町電気ビルヂング(北・南)(JV)(50年・54年)、郵船ビルディング(JV)(53年)、さらには蚕糸会館(58年)、朝日生命日比谷ビル(JV)(59年)、大和生命ビル(JV)(59年)、東京海上ビルディング新館(JV)(61年)などがお濠に面した日比谷通りや内堀通り界隈にズラリと並ぶこととなった。

一方、40年代後半に竣工したこの地区以外の東京での当社施工の代表的なオフィスビルには、コンワビル、主婦の友ビル2号館、国際赤坂ビルディング、日本銀行本店営業所(増改築第2期)(JV)、住友スリーエム新本社ビル、日本生命五反田ビル、新室町ビルなどがあった。

オンライン化が進むなかで金融機関の事務センターが相次いだことも、大規模なビル建設工事につながった。先の三和銀行東京ビルもコンピュータセンターを兼ねたビルであったが、太陽生命事務センター、日本興業銀行麴町別館、三井銀行東京事務センター別館などもその代表的なものであった。

東京會舘・富士ビルディング(JV)
<東京都>昭和46年11月竣工
発注 三菱地所、東京會舘
設計 谷口吉郎、三菱地所
東京會舘・富士ビルディング(JV)
<東京都>昭和46年11月竣工
発注 三菱地所、東京會舘
設計 谷口吉郎、三菱地所
三菱ビル・三菱重工ビル(JV)
<東京都>昭和48年3月竣工
発注 三菱ビル/三菱地所、 三菱重工ビル/三菱地所、三菱商事
設計 三菱地所
三菱ビル・三菱重工ビル(JV)
<東京都>昭和48年3月竣工
発注 三菱ビル/三菱地所、 三菱重工ビル/三菱地所、三菱商事
設計 三菱地所
主婦の友ビル2号館
<東京都>昭和47年9月竣工
発注 主婦の友不動産
設計 疋田設計事務所、平沢建築設計事務所
主婦の友ビル2号館
<東京都>昭和47年9月竣工
発注 主婦の友不動産
設計 疋田設計事務所、平沢建築設計事務所
AIU東京ビル(JV)
<東京都>昭和49年3月竣工
発注 AIU 設計 Anderson, Beekwith & Haible Architects(基本設計)
当社(設計協力)
AIU東京ビル(JV)
<東京都>昭和49年3月竣工
発注 AIU 設計 Anderson, Beekwith & Haible Architects(基本設計)
当社(設計協力)
コンワビル
<東京都>昭和46年4月竣工
発注 懇和会館
設計 日本総合建築事務所
コンワビル
<東京都>昭和46年4月竣工
発注 懇和会館
設計 日本総合建築事務所
住友スリーエム新本社ビル
<東京都>昭和49年3月竣工
発注 住友スリーエム
設計 日建設計
住友スリーエム新本社ビル
<東京都>昭和49年3月竣工
発注 住友スリーエム
設計 日建設計
三井銀行東京事務センター別館
<東京都>昭和49年8月竣工
発注 三井銀行
設計 当社
三井銀行東京事務センター別館
<東京都>昭和49年8月竣工
発注 三井銀行
設計 当社

三和銀行東京ビル

三和銀行東京ビルの25階建のカナディアンブラック外壁は“お濠に映える建築美”のなかでも一段と印象的である。

昭和46年(1971)6月、まず、深さ25mの土留め・止水用のOWS壁を構築することから本格的な工事がスタートした。しかし、地下16m以下の地盤が予想以上に硬く、急遽フランスのソレタンシュ社から新鋭ケリー機を空輸して投入、きわめて精度の高い地中連続壁を工期どおりに築造した。その後の連壁工事における当社の輝かしい実績を支えることになったOWS工法でのケリー機の活用は、当工事から始まったのであった。

地下工事では逆打ち工法を採用し、根伐り工事は同年10月から1年間かけて行い、総量17万2,000㎥に及ぶ土砂を搬出した。

約1万2,000tにのぼる地上鉄骨は、発注者の要請で外側柱・梁に防錆塗料として三和カラーのグリーンのペンキを使用したが、お濠端にそびえ立つグリーンの鉄骨が皇居の緑と相和して、仮囲いの“四葉のクローバー”のデザインとともに当時大いに人目をひいた。

ちなみに、この仮囲いには通行する人たちが工事の進行をうかがえる覗き窓を設けていた。

外装はカナダ産の花崗石をショックベトンで裏打ちしたPCカーテンウォールであったが、石の産地は冬期になるとマイナス40度となって凍結河川を砕氷船で輸送しなければならなくなるため納期遅れを懸念して当社自ら現地での石の切出しを督励し、ようやく約3万㎥の所要量を早めに手当てすることができた。最大4.5tにも及ぶ花崗石PCブロックを高層建築に使用した例はこれまでになく、この施工に際しては当社技術研究所で2階建の実物大の試験体を製作して、耐震・耐風実験を繰り返して安全性を確認した。

仕上げ工程を左右する揚重計画においては、設備工事を含む膨大な資材の揚重や従業員の昇降等に関しコンピュータ・プログラムを作成し、綿密な運行管理を実施したが、48年の石油危機は、あたかも仕上げ工事の最盛期に当たったため、内部仕上げに大幅な遅れが生じ、一時は工期の確保も危ぶまれた。しかし、三和銀行設立40年行事のため48年12月の竣工期限は厳守しなければならず、最後の3カ月は昼夜兼行で突貫工事を行い、これに応えた。請負金は156億5,612万円、所長は高屋 猛である。なお、当ビルは50年にBCS賞を受賞した。

三和銀行東京ビル
<東京都>昭和48年12月竣工
発注 三和銀行
設計 日建設計
工事概要 S造一部SRC造およびRC造、B4、25F(低層2F)、延9万4,578㎡ (左下写真は1階営業室)
三和銀行東京ビル
<東京都>昭和48年12月竣工
発注 三和銀行
設計 日建設計
工事概要 S造一部SRC造およびRC造、B4、25F(低層2F)、延9万4,578㎡ (左下写真は1階営業室)

日本興業銀行本店

大正12年(1923)6月、丸の内1丁目に当社の手で竣工した旧日本興業銀行本店ビルは、同年の関東大震災のとき、付近のビルが倒壊、大損害をこうむったなかにあっていささかの損傷もなく、当社の名声を一層高めた建物であった。新しい本店ビルは、この旧本店ビルのほか三つのビルを解体して建てられることとなった。

解体にあたっては、旧館は建設以来50年の歳月を経過しており、建築の貴重な遺産であることから技術研究所と協力して鉄筋、鉄骨、コンクリートに関するあらゆるデータを採集した。また、旧館の一部原型保存のため建物内外部の彫刻等に至るまでの石膏模型の作製も行い、特別室の木製枠扉等は現在、同行の恵比寿研修会館に保管、陳列されている。

地下工法にはウォール ファウンデーション工法を採用したが、これはOWS工法による地中連続壁を建物地下階構造体と一体化する工法である。地中連続壁工事に先立って、旧館部分に基礎フーチング突出部があったり、隣接する銀行協会ビル側に古い濠の石積みが残っていたため、トレンチの掘削には相当難渋したが、ここでも新規に導入したケリー掘削機が威力を発揮し、現場員の士気を大いに高めた。

外装の大部分は、米国産の小豆色をした花崗石の本磨きをショックベトンで裏打ちしたPC板で、本石が多量に使用されたわが国最初の建物であった。仕上げ工事では、石油危機の影響をまともに受けたが、天井材や床材等の各メーカーの製作状況を確認のため、担当主任を各所に出張させて指示連絡を徹底させるなど、あらゆる努力を尽くした。

このような予期せざる障害を乗り越え工事は予定どおり49年1月に竣工した。同ビルは、村野藤吾氏のすぐれた設計とともにその施工についても高く評価され、50年BCS賞受賞作品となった。請負金は118億7,542万円、所長は丸山俊一である。

日本興業銀行本店
<東京都>昭和49年1月竣工
発注 日本興業銀行
設計 村野・森建築事務所
工事概要 S造一部SRC造、B5、15F、PH3F、延7万6,157㎡
日本興業銀行本店
<東京都>昭和49年1月竣工
発注 日本興業銀行
設計 村野・森建築事務所
工事概要 S造一部SRC造、B5、15F、PH3F、延7万6,157㎡

東京海上ビル本館(JV)

大正7年(1918)に建設された旧東京海上ビルを解体し、新たに建設されるビルは超高層ビルで、皇居のお濠端に立地することからその美観が問題視され長期にわたる議論となった。そしてついに当初計画高さ150mを100m以下として昭和46年11月に着工、施工は当社、竹中工務店、鹿島建設、清水建設の4社JVが担当した。

外装は、壁が窯変タイル打込みのPC板、サッシュは耐候性鋼、ガラスはペアガラスを用い、1階および地下1階の壁面には特殊つつき仕上げを施したポルトガル産花崗石を貼った。この外装工事には当社関係会社のショックベトン・ジヤパン社が施工に当たり、着工前の模型製作から竣工に至るまで終始協力を惜しまなかった。東京海上火災の中枢部である役員室その他、重要な部屋が配置された23、24階の内装仕上げ工事では、壁面は春慶塗を思わせる塗装仕上げの磨き鉄板を使用したが、これらの塗装仕上げ、大板の揚重、取付け等はいずれも慎重な施工を要したものの、やはり当社の関係会社の内外木材工業が十分に設計者(前川国男氏)の要求に応えた。

なお、この東京海上ビル本館は、都市美観論争という特異な経緯を踏まえ、設計、施工とともに尋常ではない苦心をもって建設された意義が高く評価され、51年BCS賞を受賞した。設備工事は別途で、請負金は15億8,299万円、所長は太宰庵里である。

東京海上ビル本館(JV)
<東京都>昭和49年2月竣工
発注 東京海上火災
設計 前川国男建築設計事務所、東京建築研究所、横山建築構造設計事務所
工事概要 S造一部RC造、B4一部B5、25F、PH2F、延6万3,120㎡
東京海上ビル本館(JV)
<東京都>昭和49年2月竣工
発注 東京海上火災
設計 前川国男建築設計事務所、東京建築研究所、横山建築構造設計事務所
工事概要 S造一部RC造、B4一部B5、25F、PH2F、延6万3,120㎡

国際赤坂ビルディング

東京都心でのビルラッシュが始まる寸前の昭和46年(1971)2月にスタートした当工事は、労務事情はさほど困難な時期ではなかったが、東京でも有数の高級料亭が立ち並ぶ盛り場での大型工事ということもあり、このころ一段と厳しくなっていた近隣問題に一層気を配りながらの工事であった。

ビルは20階建の高層ビルで、当工事での経験を以後の相次ぐ高層ビルに生かそうと幾つかの試みを行った。その一つが鉄骨建方で、柱はSRC造、梁はS造となっていたが、この柱と梁との接合を、従来のブラケット-ボルト接合工法からブラケットなしの柱面全溶接としたことであった。このため現場の溶接管理を徹底し、その検査結果も良好で、その後の高層ビルでの現場溶接工法に大きく寄与することとなった。そのほか、タワークレーンに油圧式ベースクライミング式のものを投入するなども、その後の高層ビル工事に向けての試みの一つであった。なお、当ビルは地下階と地上19、20階を国際自動車が使用し、2~18階は日商岩井のオフィスとなっている。請負金は77億5,619万円、所長は木内司郎である。

国際赤坂ビルディング
<東京都>昭和48年2月竣工
発注 国際自動車
設計 三菱地所
工事概要 S造一部SRC造およびRC造、B4、20F、PH付、延6万3,074㎡
国際赤坂ビルディング
<東京都>昭和48年2月竣工
発注 国際自動車
設計 三菱地所
工事概要 S造一部SRC造およびRC造、B4、20F、PH付、延6万3,074㎡

日本銀行本店営業所(増改築第2期)(JV)

辰野金吾博士の設計による日本銀行本館は、明治時代の代表的石造建築として重要文化財に指定されている。また、その北に隣接した1号館は、辰野博士の高弟長野宇平治博士が設計し当社が昭和7年(1932)に施工したものであるが、この1号館と本館東北に隣接していた2号館の一部を解体し、新館を建設することとなり、41年10月、当社、鹿島建設、清水建設、大成建設、竹中工務店の5社JVが工事に着手した。

工期は2期に分けられ、第1期はまず北側半分を、続いて南側半分を第2期工事として建設して一体化することとした。第1期工事はすでに44年10月に完了している。

第2期の解体工事にあたって最大の問題は、1号館が堅牢無比の建物であり、なかでも地下12mの深さにある地下室部分は、厚さ2mの壁、底盤からなる外箱の中に1~2mの壁の中箱、さらに内箱がある三重構造で、その扉も1枚50tの重量があるという点であった。このため特殊構造部に9tの火薬を用い、解体材を搬出したトラックの数も延1万4,000台にのぼった。

こうして取りかかった新築工事では第1期工事の経験を踏まえ、随所に工夫を凝らして積極的に合理化を進めた。地下階の逆打ち工法は工程的に地上階より遅れるため、まずエレベータシャフトを含むコア周りを吊り下げ型枠で先行させ、これによってエレベータを早く使用できるようにし、パイプシャフトや便所等の設備工事の早期施工を可能にした。

また、この第2期工事において公共工事請負契約約款の物価スライド条項に基づいた請負金の増額を実現したことも特記に値することであった。

当工事では、新館工事と並行して本館の改造工事も行った。当館は明治29年に建設されたもので、辰野博士が建築監督、安田善次郎監事が建築事務主管、高橋是清氏が建築事務主任として当たり、従事した書記、技師の数は50名を超えたといわれる。建築様式はイタリア・ルネッサンス様式、規模は地下1階、地上3階、延1万2,078㎡である。建設後すでに70余年の歳月が経過していたこともあり、設備の近代化によって機能の向上を図るべく、新館第1期工事の完了とともに本格的改造工事に着手した。

新館第2期工事および本館改造工事は48年3月にすべて完了し、これによって前後7年にわたる大工事がすべて終了、49年のBCS賞を受賞した。請負金は第1期、第2期工事を通じて26億1,863万円、所長は清水光一であった。

日本銀行本店営業所(増改築第2期)(JV)
<東京都>昭和48年3月竣工
発注 日本銀行
設計 松田平田坂本設計事務所
工事概要 SRC造、B5、10F、PH2F、延3万9,971㎡ (第1期第2期計延9万2,439㎡)、1号館解体延1万7,316㎡、旧館改造延3万5,710㎡
日本銀行本店営業所(増改築第2期)(JV)
<東京都>昭和48年3月竣工
発注 日本銀行
設計 松田平田坂本設計事務所
工事概要 SRC造、B5、10F、PH2F、延3万9,971㎡ (第1期第2期計延9万2,439㎡)、1号館解体延1万7,316㎡、旧館改造延3万5,710㎡

余暇時代の幕開け

経済の急成長とともに、国民の余暇支出は昭和40年代に入り着実に増大していった。それに伴ってレクリエーション施設も増加し、多様化の様相を見せ始め、とくに都市生活者を中心とした大衆娯楽は、映画、パチンコ、競馬などの旧来タイプのものからアスレチッククラブなど新しいものも加わり花盛りとなっていった。

その一つがボウリングであった。47年(1972)のブームのピークをはさんで当社だけでも100件近いボウリング場を建設しているが、そのなかでも人気を博したのがジャンボ・ボウリングセンターで、大阪ミナミのボウル国際興業(JV)もその一つであった。計160レーンをもつこの大ボウリング場は連日満員で、ブームが去ったあとも健在で現在に至っている。また、当社の関係会社である内外木材工業では伊藤忠AMF社と提携し、ボウリングフロアの現場施工を契約、施工レーン数は4万3,592レーン(ボウリングピーク時のレーン数の約3分の1に当たる)にも及んだ。

ボウリングブームがかげりを見せ始めた48年の6月に、センター数3,770、レーン数12万3,000と最高となり、これが49、50年には急落し、50年6月に840カ所、2万3,000レーンと激減していったのである。

また、ゴルフは、一部の特定層のものから中堅サラリーマンを含む広範な大衆層、婦人層にも普及していった。(第1次ゴルフブームについては次章に述べる。)

48年はわが国の余暇時代の幕開けともいわれ、多岐にわたるレジャー施設がつくられたが、このころ施工した映画館としては、横浜駅西口の相鉄ムービル(相鉄映画館ビル)がそのユニークさで注目を浴び、銀座の新スポットとなった東劇ビル(JV)も50年6月完成に向け工事がスタートした。競馬場では京都競馬場スタンドの大増設工事(JV)があり、また串本海中公園センターも46年完成している。都心のスポーツ施設としては、東京本社近くの千代田区立総合体育館や学生街・高田馬場駅前のビッグボックス西武スポーツプラザなどがその代表的なものとしてあげられる。

さらに、このころ地方公共団体が文化施設を建設し、呼び名は公民館、文化センター、公会堂、市民会館といろいろながら、音楽、公演、映画、展示等各種のイベントに幅広く、しかも本格的に対応できる多目的ホールが各地に出現していった。

こうしたものとしては、山口市民会館、倉敷市民会館、名古屋市民会館、姫路市文化センター、全国勤労青少年会館サンプラザ(JV)、いわき市文化センター、八戸市公会堂、姫路市市民会館などがある。これらはいずれも45~51年の間に建設された代表的な建築といえるものであった。

西武高田馬場駅ビル (ビッグボックス西武スポーツプラザ)
<東京都>昭和49年7月竣工
発注 西武鉄道
設計 黒川紀章建築都市設計事務所
西武高田馬場駅ビル (ビッグボックス西武スポーツプラザ)
<東京都>昭和49年7月竣工
発注 西武鉄道
設計 黒川紀章建築都市設計事務所
京都競馬場スタンド増築(JV)
<京都府>昭和46年12月竣工
発注 日本中央競馬会
設計 日本競馬施設、安井建築設計事務所
京都競馬場スタンド増築(JV)
<京都府>昭和46年12月竣工
発注 日本中央競馬会
設計 日本競馬施設、安井建築設計事務所
東劇ビル(JV)
<東京都>昭和50年6月竣工
発注 松竹
設計 シグマ建築設計事務所
東劇ビル(JV)
<東京都>昭和50年6月竣工
発注 松竹
設計 シグマ建築設計事務所
八戸市公会堂
<青森県>昭和50年4月竣工
発注 八戸市
設計 石本建築事務所
八戸市公会堂
<青森県>昭和50年4月竣工
発注 八戸市
設計 石本建築事務所
姫路市市民会館
<兵庫県>昭和51年4月竣工
発注 姫路市
設計 昭和設計
姫路市市民会館
<兵庫県>昭和51年4月竣工
発注 姫路市
設計 昭和設計

名古屋市民会館

名古屋市は人口200万人突破記念事業の一環として、副都心として開発が進んでいた金山地区の旧金山体育館跡地に市民会館を計画し、昭和44年(1969)12月にこの建設に着手した。同会館は、収容力2,311席の大ホール、1,158席の中ホールによって構成され、完備した舞台機構とすぐれた音響効果は、当時最先端のホールといわれた東京文化会館を上回るといわれ、この種の施設としては全国一を誇った。

地下階には舞台奈落やリハーサル室、楽屋などとともに地下鉄金山駅(当社施工)、古沢公園駐車場(当社施工)への連絡通路もあり、1階は大ホールと中ホールなど、2階以上はホワイエと観客席となっていて、3階には会議室が3室設けられている。

建物の外観は、白を基調としたタイル壁面でおおわれ、その正面はアンバー色のカーテンウォールとなっている。内部の壁面は陶板(加藤唐九郎氏ほか4氏作)、大理石レリーフ(麻布秀穂氏作)、大理石モザイク(矢橋六郎氏作)で飾られ、大ホールの緞帳は東山魁夷氏のデザイン、中ホールのそれは杉戸 清名古屋市長の下絵によるつづれ織りである。

施工に際しては建物の性格上、平面的にも立体的にもきわめて複雑な設計であるため、工事用の仮設設備と安全設備にはとくに慎重な配慮をした。地下16.4mまでの掘削では、根伐底に大きな段差があるため、H鋼切梁とPSアンカーを併用、鉄骨建方では、屋根鉄骨の製作時に仮設鉄骨梁も工場で製作し、建方即仮設梁完了とし、これを足場として葡萄棚と床版型枠受けに利用するなど、工期、工費の節減に努めた。請負金は20億9,807万円(設備工事は別途)、所長は橋爪謙介である。

名古屋市民会館
<愛知県>昭和47年6月竣工
発注 名古屋市
設計 名古屋市(基本設計)、日建設計(実施設計)
工事概要 SRC造、B2、6F、PH付、延2万8,245㎡
(左写真は大ホール)
名古屋市民会館
<愛知県>昭和47年6月竣工
発注 名古屋市
設計 名古屋市(基本設計)、日建設計(実施設計)
工事概要 SRC造、B2、6F、PH付、延2万8,245㎡
(左写真は大ホール)

全国勤労青少年会館サンプラザ(JV)

“中野サンプラ”として若者に広く親しまれている当ビルは、またその三角形のユニークな姿からも全国的によく知られた建物である。

昭和42年(1967)、労働省は全国勤労 青少年の中央施設として、職業相談、娯楽、文化教養、宿泊、集会、体育等の各種複合機能をもつ青少年会館の建設を計画し、45年9月工事に着手した。施工は当社(幹事会社)、佐藤工業、フジタ工業の3社JVが当たった。

施工上の問題点は、1階から14階までの中央部に演奏会用オーディトリアム(2,648席)の大空間があったこと、工期が約28カ月にすぎなかったことであった。そこで、掘削および残土の搬出、コンクリートの打設、オーディトリアム周辺の超大型梁建方の3点を重点に効率的に施工することによって、難問を打開するよう努力を払った。

地下掘削ではタイバック山留めの採用、地上階コンクリートでは2段同時打設工法の採用、さらに大型エレベータとコンクリート打設ポンプを併用した高層部におけるコンクリートの打設を実施した。鉄骨工事における問題点は、オーディトリアムの梁高7m、1基120tに及ぶ大梁4本の架設方法であったが、タワークレーンと100tトラッククレーンを併用して、予想外の短期間に完了した。こうしたさまざまな工夫が功を奏して48年2月オープンにこぎつけた。請負金は23億8,261万円(設備工事は別途)、所長は五十嵐秀雄である。なお、当ビルは49年BCS賞を受賞した。

全国勤労青少年会館サンプラザ(JV)
<東京都>昭和48年2月竣工
発注 雇用促進事業団
設計 日建設計
工事概要 SRC造一部RC造、B2、21F、PH付、延5万1,009㎡
(左下写真は玄関ホール)
全国勤労青少年会館サンプラザ(JV)
<東京都>昭和48年2月竣工
発注 雇用促進事業団
設計 日建設計
工事概要 SRC造一部RC造、B2、21F、PH付、延5万1,009㎡
(左下写真は玄関ホール)

増大するビール需要

ビール消費は、昭和30年代に急速に伸び、40年代は30年代ほどではなかったものの、依然、他の酒類を大きく上回る伸びで成長し続けた。そして40年代後半にかけて都市部での伸びより、地方での伸びが高くなり、こうしてビールは全国的に普及していった。また、この時期、缶ビールと中ビンの消費が増加し、料飲店よりも家庭での消費の伸びが高く、ギフト券の人気などビールはより身近な飲料となっていった。

この背景には、国民の生活様式が高度成長期を経て大きく変わったことがあった。とくに缶ビールは、生活水準の向上、余暇の増大、全国的な交通網の整備やモータリゼーションの進行などに伴う旅行ブームなど戸外型のレジャーの増大がその普及を急速にし、自動販売機の登場(45年)もそれに一役かった。こうしたなか、麒麟麦酒が岡山工場と滋賀工場を、朝日麦酒が名古屋工場をそれぞれ大規模に新設、増設して、こうした需要に応えた。

また、嗜好の多様化はたばこにおいても進み、たばこ工場の建設が相次いだ。40年代から50年代初めにかけての当社施工の代表的な日本専売公社のたばこ工場には、高崎たばこ製造工場(41年3月竣工)、金沢たばこ工場(47年6月)、北関東工場(JV)(51年5月)、防府原料工場R47工場(53年1月)などがあった。

日本専売公社北関東工場(JV)
<栃木県>昭和51年5月竣工(製品工場棟)
昭和51年9月竣工(事務付属棟)
発注 日本専売公社
設計 石本建築事務所
日本専売公社北関東工場(JV)
<栃木県>昭和51年5月竣工(製品工場棟)
昭和51年9月竣工(事務付属棟)
発注 日本専売公社
設計 石本建築事務所

麒麟麦酒岡山工場製品工場

麒麟麦酒は中国・四国地区への進出工場として、同社11番目のビール工場である岡山工場を新設することとなった。この第1期工事は規模としては同社最大のもので、醸造工場と製品工場その他を2工区に分けて発注、当社は後者を担当した。施工開始の直前に大幅な設計変更が行われ、実働工程は設備工事を含め約10カ月というシビアな要求となった。そこで、職員60名(うち設計要員15名)近い陣容と作業員250名(ピーク時400名)を確保し、収容する宿舎も設置して大突貫工事を開始した。

工事そのものは鉄骨を主体とした工場建築であるため特殊な技術や工法は必要としなかったが、コンクリートは構内の一角にプラントを建設、昼夜兼行でこれを稼働させるなど工期の短縮に努めた。請負金は26億200万円、所長は寺谷 篁から飯尾万寿雄に引き継がれた。

この第1期工事は昭和47年(1972)5月に完成したが、これを待たずに第2期工事を開始し、48年3月に完了した。これは年間製造能力を2倍強にする増設工事で、請負金は約15億円であった。

また、同社の12番目のビール工場として48年1月から新設工事が始まった滋賀工場仕込醸造工場の建設にも携わり、49年5月これを完成させている。当工事の請負金は15億900万円、所長は鏡 政博であった。

麒麟麦酒岡山工場製品工場
<岡山県>昭和47年5月竣工(第1期)
昭和48年3月竣工(第2期)
発注 麒麟麦酒
設計 三菱地所
工事概要 第1期/RC造一部S造、一部B1、2F、一部PH付、延3万8,752㎡
第2期/RC造およびS造、平家一部中2F、延1万7,090㎡、全34棟ほか
麒麟麦酒岡山工場製品工場
<岡山県>昭和47年5月竣工(第1期)
昭和48年3月竣工(第2期)
発注 麒麟麦酒
設計 三菱地所
工事概要 第1期/RC造一部S造、一部B1、2F、一部PH付、延3万8,752㎡
第2期/RC造およびS造、平家一部中2F、延1万7,090㎡、全34棟ほか

朝日麦酒名古屋工場

朝日麦酒が中京地区でのシェア拡大とイメージアップを図ってこの地に長年の念願であったビール製造一貫工場を建設するという計画を耳にするや、当社は、用地の斡旋からその地域の土地区画整理組合誕生への協力、また、にわかに社会問題化しだした公害に関する各種規制についての市当局や地元住民との折衝など、多大な営業努力を行うことによって特命で受注し、昭和46年(1971)12月、工事に着手した。ちなみに当工場は、名古屋市が民間企業と締結した公害防止協定の第1号であった。

施主の当工場に対する期待は大きく、たとえば醸造工程ではすべてコンピュータによる生産管理を行うこととしたり、貯酒タンクは従来の概念を破った屋外タンク、そしてビン詰工程も自動化されているなど最新鋭の工場としてさまざまな新型機械を導入していた。また、製造工場であるとともに見せる工場として、瀬戸の陶芸家鈴木青々氏の300㎡の大型レリーフ装飾や北欧風たたずまいなど意匠にも凝った設計となっていた。当工場はビール工場としては数少ないS造建家であったが、この鉄部塗装には耐湿仕様を提案するなど、当社は施工会社としていくつかの工夫を行い、こうした努力に対し、49年BCS賞や48年中部建築賞が与えられた。請負金は20億7,279万円、所長は服部利男である。

朝日麦酒名古屋工場
<愛知県>昭和48年4月竣工
発注 朝日麦酒
設計 伊藤建築設計事務所、双星社竹腰建築事務所
工事概要 S造およびRC造、2F一部4F、延3万745㎡
朝日麦酒名古屋工場
<愛知県>昭和48年4月竣工
発注 朝日麦酒
設計 伊藤建築設計事務所、双星社竹腰建築事務所
工事概要 S造およびRC造、2F一部4F、延3万745㎡

昭和49年BCS賞の半数を1社で

昭和49年(1974)でBCS賞は第15回を迎えた。このとき当社の受賞作品は8点であり、応募作品64点のうち受賞作品が16点であったから、その半数を占めることとなり、これはまさに注目すべきことであった。

BCS賞とは、Building Constructors Society Prize Works(日本建築業協会・優良建築賞)の略で、わが国建築界で施工者も顕彰されるものとしては最大でかつ最も権威のある顕彰制度である。選考基準は「確実に手なれた技術を駆使して、施主の期待する条件に、専門家として対応したすぐれた設計がなされ、さらに施工者が、高度な技術によって入念な工事を完成させたものがその対象とされる」となっており、その評価にあたっては、作品完成後1年間以上の経過をみてから選考される。賞は建築主、設計者、施工者にそれぞれ与えられる。

この時期に完成した建物でBCS賞を受賞した作品については、文中すでに詳細記述があるものや後述するもののほかに、以下に述べるNHK放送センター本館・ホール(JV)(49年)、東京都美術館(51年)があり、このほかに九州電気通信局庁舎(48年)、東京會舘・富士ビルディング(JV)(48年)、名古屋観光ホテル(JV)(49年)、三菱ビル・三菱重工ビル(JV)(49年)、同志社大学図書館(50年)、山口県立図書館(50年)、国際通信センターKDDビル(JV)(51年)がある(カッコ内は受賞年)。

ちなみに、第1回(35年)から第32回(平成3年)まで当社は89作品でBCS賞を受賞している。

山口県立図書館
<山口県>昭和48年5月竣工
発注 山口県
設計 鬼頭梓建築設計事務所
山口県立図書館
<山口県>昭和48年5月竣工
発注 山口県
設計 鬼頭梓建築設計事務所
同志社大学図書館
<京都府>昭和48年12月竣工
発注 同志社
設計 栗原研究室、富家建築事務所
同志社大学図書館
<京都府>昭和48年12月竣工
発注 同志社
設計 栗原研究室、富家建築事務所

NHK放送センター本館・ホール(JV)

当工事は、第1期、第2期工事に引き続いた第3期工事で、内幸町の放送会館などに分散している業務の合理的一元化を図るための総合整備計画であった。この計画の中心は、高層本館の増築とNHKホールの新築であった。

第1~第3期を合計すると延床面積は約21万8,500㎡にのぼり、ここにラジオ・テレビ放送に必要なすべての機能を収容、さらに4,000人収容のNHKホールが接続し、職員・出演関係者など1万人以上が出入りする巨大な建物群である。

第3期工事のうち、放送センターは低層部と高層部より構成され、低層部は地下1階、地上8階、高層部は地下1階、地上23階で最高軒高は113.3mである。一方、NHKホールは延2万1,000㎡、地下2階、地上5階で、多目的ホールとして設計されており、公開番組の制作のために必要な設備はもとより、コンサートからドラマ、講演会に至るまでいずれにも使用できるようになっている。

施工にあたってとくに技術的配慮が必要であったのは、高層部の鉄骨工事の現場溶接および外装の全面総ガラスのカーテンウォール工事での水仕舞いであった。このほかに、客席大屋根の立体トラス(パイプトラス)のスライディング工法による架設工事、また、ホールの複雑な形をなす音響壁のコンクリート打設・モルタル仕上げなど数々の難しい施工技術を必要とする工事であった。

日本を代表する六つの設計事務所と七つの建設会社(当社・幹事会社、鹿島建設、清水建設、大成建設、竹中工務店、戸田建設、間組の7社JV)が10年の歳月をかけたこの大プロジェクトは、昭和48年(1973)3月の第3期工事終了によって完了した。

所長は、1~3期を通じ石田慶一が当たり、第3期工事の請負金は18億5,271万円であった。

NHK放送センター本館・ホール(JV)
<東京都>昭和48年3月竣工
発注 日本放送協会
設計 山下寿郎設計事務所、武藤構造力学研究所、日建設計ほか
工事概要 本館/S造一部SRC造およびRC造、B1、23F(低層部8F)、PH3F、延6万4,900㎡
NHKホール/RC造一部SRC造、B2、5F、PH付、延2万1,000㎡
(左下写真はホール内部)
NHK放送センター本館・ホール(JV)
<東京都>昭和48年3月竣工
発注 日本放送協会
設計 山下寿郎設計事務所、武藤構造力学研究所、日建設計ほか
工事概要 本館/S造一部SRC造およびRC造、B1、23F(低層部8F)、PH3F、延6万4,900㎡
NHKホール/RC造一部SRC造、B2、5F、PH付、延2万1,000㎡
(左下写真はホール内部)

東京都美術館

旧東京都美術館は岡田信一郎氏設計になる名建築で、大正15年(1926)に開館し、その後3回にわたって増改築されている(いずれも当社施工)。

新館は上野公園内の旧館の隣接地に建設され、旧館より小さな敷地に旧館より大きな美術館を、軒高15.6mの制限の中で1本の木も切ることなく収めるという難しい条件もあって、建物の約半分を地下とした。設計は前川国男氏である。

建物は、常設展示部門、公募部門そして美術文化活動の場の3棟に分散配置され、それに管理棟を加え、それらに囲まれた谷間にプロムナードおよび広場を設けて公園の延長の雰囲気をもつよう設計されている。

地下部分に収蔵庫や展示室があるため、その漏水や湿気防止には細心の注意を払い、コンクリートの打継ぎに特殊非加硫ゴムシートを使用し、外防水工事も慎重の上にも慎重に施工した。

当建物を大きく印象づける1万㎡に及ぶ外壁炻器質タイルは、先付け型枠工法で施工し、また広場周りのゆるい弧状がつらなるアーケードの3次曲面の打放しコンクリート斫り仕上げ部分では、その型枠にガラスバルーンという微小中空球体を骨材にした加工自在な特殊材料を使用した。これは当現場で特許をとったものであった。こうして47年12月着工以来、数々の施工上の難問をすぐれた創意工夫で乗り切り、当美術館は50年9月開館、51年にはBCS賞を受賞した。請負金は29億5,942万円(設備工事は別途)、所長は財津吉宗である。

東京都美術館
<東京都>昭和50年3月竣工
発注 東京都
設計 前川国男建築設計事務所、横山建築構造設計事務所
工事概要 RC造一部SRC造、B3、2F、PH付、延3万1,943㎡
(左下写真はエントランスホール)
東京都美術館
<東京都>昭和50年3月竣工
発注 東京都
設計 前川国男建築設計事務所、横山建築構造設計事務所
工事概要 RC造一部SRC造、B3、2F、PH付、延3万1,943㎡
(左下写真はエントランスホール)

海外進出が本格化

建設業は、国民総生産(GNP)の20%を占める重要産業であるが、海外活動への進出は他産業に比べやや遅れ、1970年(昭和45)ころからようやく活発化してきた。

1974年、国内の不況、長期的には日本経済の成長の鈍化の予測を背景に建設業の海外活動が目立ち始め、海外建設業協会によれば、この年、加盟54社の本社契約分だけで1,600億円を超え、現地法人分を含めた年間の海外受注総額が初めて2,000億円台に乗った。とくに1974年は大型の受注が相次ぎ、スエズ運河の拡張工事、クエート・ドーハ火力発電所、台湾高雄ドック、マレーシア・テメンゴールダムなどの大型工事(いずれも他社施工)を日本のゼネコンが受注した。こうしたなかで、当社がこの時期に海外で完成させた代表的工事はタイに多く集中しており、タニヤビル、ナムプロム水力発電所チュラボーンダム(JV)、バンコック・ロイヤル・スポーツクラブ(競馬場スタンド)、エッソビル、ソムデッ・プラ・ピンカオ橋、アルン・アマリット橋(トンブリ橋、ノイ橋)(JV)、在タイ西独大使館、AITセンターのほか、日本企業の各工場などがある。

シンガポールでは、1970年代後半から1980年代にかけてのビルラッシュ初期の代表的工事である超高層ビル、シンガポール開発銀行(DBS)本社ビルが着工する一方、1975年までに東部海岸埋立工事を第3期まで終了しているが、これらについては後章で記述する。

ソムデッ・プラ・ピンカオ橋、アルン・アマリット橋(JV)
<タイ・バンコック市>1973年9月竣工
発注 タイ政府内務省公共土木局
設計 SEP Swiss International Consultants
(写真は手前がソムデッ・プラ・ピンカオ橋、後方がアルン・アマリット橋)
ソムデッ・プラ・ピンカオ橋、アルン・アマリット橋(JV)
<タイ・バンコック市>1973年9月竣工
発注 タイ政府内務省公共土木局
設計 SEP Swiss International Consultants
(写真は手前がソムデッ・プラ・ピンカオ橋、後方がアルン・アマリット橋)

ナムプロム水力発電所チュラボーンダム(JV)

バンコックの北方約600㎞、標高約800mの山中、チャイプーン県コンサン村に造られたこのダムは、ナムプロム川の水をナムスタ川(落差約350m)に流して発電し、その水はさらに下流のナムポンダムに再貯水され、発電と農業用水に利用されるというタイ国東北部開発計画の一環で、同地方最大の電力供給源をなす大事業であった。しかも、工事は、ダム本体(ロックフィルダム)から仮排水路、取水口、圧力導水路、水圧管路、調圧水槽から発電所そして放水路等等、全土木・建築工事を行うというものであった。

ダム本体は、堤高73m、堤頂長670m、堤体積166万㎥のセンターコア型ロックフィルダムで規模は中位のダムであるが、圧力導水路は延長3,200mもあり、トンネルとしてはタイで最も長いものである。また、圧力トンネル工事もタイでは初めてであった。

1970年(昭和45)1月に現地に乗り込んだときは、慣れない異国の山奥での工事でもあり多くの困難が予想された。しかし仮排水路施工中の洪水も、2度のストライキも大事に至らず、これらを無事乗り越えて1972年1月湛水を迎えた。

技術的には日本国内のダム工事とさして変わりがなかったものの、当地は土木工事の下請業者が皆無で作業員は全員直傭であったこと、日本ではもっと大きな重機を用いるであろう場面でも汎用性という点に見合った機械を使ったこと、オペレータが機械のメンテナンスの知識があまりなく機械を使いつぶしてしまうことなどが国内工事と多少勝手の違った点で、日本人20名、台湾人60名、タイ人900名の編成で工事は進められた。

発注はタイ政府電力庁、設計は電源開発、施工はタイ進出8年の経験をもつ台湾のBES(中華工程公司)とのJV(当社が幹事会社)で行われた。請負金は25億7,634万円、所長は石原 毅である。

ナムプロム水力発電所チュラボーンダム(JV)
<タイ・チャイプーン県>1972年10月竣工
発注 タイ政府電力庁
設計 電源開発
工事概要 ロックフィルダム、堤頂長670m、堤高73m、堤体積166万㎥、圧力導水路トンネル延長3,200m
ナムプロム水力発電所チュラボーンダム(JV)
<タイ・チャイプーン県>1972年10月竣工
発注 タイ政府電力庁
設計 電源開発
工事概要 ロックフィルダム、堤頂長670m、堤高73m、堤体積166万㎥、圧力導水路トンネル延長3,200m
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