大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

3 体質強化の組織改正

■―土木・建築両本部制の実施

昭和37年(1962)9月、本店機構に土木本部および建築本部を設置した。これは、政府の国民所得倍増計画や全国総合開発計画の実施と、旺盛な民間設備投資を背景とする建設需要の増大に対処して、本店の強力な統括機能のもとに全社一体となって受注量の増大を図り、同時に、工事原価の低減、技術の改善を推進し、業績の一段の向上を期したものである。このころ、岩戸景気後の景気調整期は終期に向かい、代わってオリンピック景気が胎動し始めていた。

土木本部では、営業部、技術部、工事部の3部制とし、営業部および技術部は、総本店的業務担任機関として情報収集・工事獲得方策の立案、施工技術の改善、技術職員の配置等に関する統括的業務を担任し、また工事部は、本店が所管する土木工事に関する業務を担任することとした。なお、営業部および技術部は、大規模土木工事の主要発注機関が東京に集中していることに鑑み、東京において執務することとし、あわせて従来東京支店にあった海外工事部を本店機構に移し、同様に東京執務とした。

建築本部は、営業部、技術部、設計部、直轄工事部の4部制とし、営業部、技術部および設計部は、総本店的業務担任機関として各部門の統括業務を、また直轄工事部は、本店所管の建築工事に関する業務を担任することとした。

これに伴い、東京支店の土木部門は従来の3部制を1部制とし、これを土木本部工事部に準じて同支店の所管する土木工事に関する業務を担任することとなったが、同様に建築部門も建築本部の直轄工事部に準じて組織を改正した。また、東京支店業務部は営業部と改称し、建築工事に関する営業業務を担任することとなった。

本部制実施当時の土木本部長には専務取締役江口 馨が、建築本部長には専務取締役宮原 渉が当たり、それぞれ次長を置いた。39年12月さらに本部制を強化して、副社長徳永豊次が土木本部長に、建築本部長には副社長五十嵐芳雄がそれぞれ就任し、同時に次長を副本部長に改め、土木本部副本部長の東京駐在に常務取締役高畠嘉雄、大阪駐在に同近藤市三郎が、建築副本部長の大阪駐在に専務取締役荒川初雄、東京駐在に同山田直枝が就任した。

このように本部制は、土木・建築のそれぞれの本部長を部門の最高責任者として、建設工事の受注から施工、アフターサービスに至る全店的な権限機能と責任体制を明確にしたものであり、以後この体制は当社の二本の柱として長く機能していくことになった。

なお、営業力強化のため、38年3月、名古屋支店および横浜支店に営業部を設置したほか、本店と東京支店に営業不動産部を新設した。営業不動産部は、さきの浪速土地(現・大林不動産)とともに、当社が直接に得意先への不動産の仲介斡旋を行い、営業活動の支援を図ったものであった。

業務機構図 ●昭和37年9月1日現在
業務機構図 ●昭和37年9月1日現在

■―機械部・機械工場の組織を整備

高度成長期を迎え、工事の増加は土木、建築ともに飛躍的なものがあり、同時に施工の機械化もいよいよ本格的となってきた。そのため、昭和35年(1960)9月決算における工事機械保有高は、取得価格で50億円を超え、5年前の約5倍に達し、新鋭工事機械が続々と購入されている。

この増勢はその後も続き、40年3月決算における機械保有高は、取得価格で99億円に達し、35年の購入額に比べてほぼ倍増した。

これら機械類の購入および保守、管理は、それまで本店工務部と本店および東京支店の工作所が分掌していたが、機械化時代の到来とともに組織を強化し、34年7月、本店に機械部を設置して業務を統一した。さらに38年1月には工作所を大阪機械工場、東京機械工場と改め、本店機械部の管轄下に置き、同時に大阪機械工場の所管する分工場として名古屋、広島、高松、福岡に、また東京機械工場の所管する分工場として仙台、札幌にそれぞれ機械分工場を置いた。

工事現場の機械化が進む(神戸製鋼所灘浜工場第3分塊工場の現場にて昭和36年ごろ撮影)
工事現場の機械化が進む(神戸製鋼所灘浜工場第3分塊工場の現場にて昭和36年ごろ撮影)
シールド実験用マシン(枚方大阪機械工場敷地内)
シールド実験用マシン(枚方大阪機械工場敷地内)

■―教育制度の確立

経営規模の拡大に伴い、従業員の増加も急であった。とりわけ新規定時採用者数(男子)は、昭和35年度の162人が36年度は268人に、さらに37年度には334人と大幅に増え、40年度に至るまで毎年300人台の採用が続いた。

組織の拡大、工事現場の増大などによって、それぞれの部署に多くの人材を必要とした。人材の育成は、早急にしかも一貫した方針のもとに計画的、継続 的に実施される必要がある。このため、37年(1962)9月、人事部に教育課を新設し、従業員の教育に関する事項を担任させることとした。

まず、教育訓練計画が策定された。大きくは、新入職員教育・中堅職員教育・中間管理者研修・上級管理者研修の階層別教育、事務・土木・建築・機械等 それぞれの分野における職能別専門教育に分け、教育研修の方法は、職場内での業務を通じて行う啓発訓練方式OJT(On the Job Training)を基本として、集合教育や社外研修はOJTを補完し、あるいは個人の向上心を動機づけさせるものと位置づけた。

当面は、新入職員・中堅職員教育が優先して実施されていったが、OJTを委ねる各部署の管理職者層の研修会も随時実施し、教育に関する意識の向上、 指導力の強化を図った。また、職能別専門教育についても、技術部門では各分野ごとに工夫を凝らしたテキスト等の制作を進めるとともに、経験年数に応じた階 層別の集合教育を実施していった。このようにして、当社の教育制度はその骨格が形づくられ、39年7月には社費による海外留学が制度化されるなど、その後 補足修正されながら拡充されていったのである。

教育課が設置された当時、力を注いだ一つに新入職員教育体系の整備があったが、発足初年度の試行を経て、2年目の39年度には完成した。その目的 は、新入職員に対し会社生活に対する適応力を与え、職員として必要な基礎知識、技能、態度を教えることにより、良い組織人、社会人としての基礎をつくるこ とにあった。教育の具体的な内容は、初めに全新入職員に対し会社の概要、労働条件、服務規律等を教えるオリエンテーションを行い、続いて各職能ごとに専門 基礎講習・現場実習を実施した。さらに、技術系の者に対しては事務・営業部門の、また事務系の者に対しては技術・営業部門の初歩的な知識を習得させる専門 外初歩講習を行い、互いの職能に対する理解と協調を深める基礎をつくることとした。これらの全カリキュラムは、2カ月~3カ月の日程で終了するものであっ た。

■―広報活動

昭和36年(1961)3月、本店に企画室を設けると同時に、本店総務部に総務課と弘報課を設置した。総務課はそれまで庶務課が担当した請負契約や法務、株式関係等の業務を引き継ぎ、分離独立したものであるが、弘報課の新設にはより積極的な意味があった。

広報活動としての社業の対外宣伝は、すでに昭和6年から行われていた。毎年1回主な竣工工事の写真と概要を掲載した『工事画報』を刊行し関係方面に 広く配布しており、14年から26年までの間は写真撮影の規制や用紙事情等のためにやむなく休刊していたが、27年復刊して今日に至っている。29年から 45年までの間、『大林グラフ』(41年以後『グラフ大林』と改題)を季刊または隔月刊として発行した。これは写真を主とし当社の活動を得意先および一般 関係先にタイムリーに伝えることを目的としたものである。一方、38年1月には社内報『マンスリー大林』を創刊し、社内の動向や業界の情勢を従業員に伝え るとともに、社内の連帯感を強めることを目指した。

また、OWS工法やパイルコラム工法など、当社が開発した技術を紹介するパンフレットを随時刊行したが、これらの一つである『超高層建築シリーズ』6編は一部の学校で教材に使用された。

このほか、弘報課では映画製作、新聞雑誌広告、放送宣伝等も担当、映画は工事記録や技術紹介を主とし、主要作品に『四天王寺五重塔』、『日生日比谷 ビル』、『帝国劇場・国際ビルヂング』をはじめ、海外の工事や万国博工事に関するものもある。万博工事のドキュメンタリーとして制作した『お祭り広場建設 工事記録』は、46年度の産業映画コンクールの奨励賞を受賞している。

『工事画報』創刊号(昭和6年1月)『大林グラフ』創刊号(昭和29年8月)『マンスリー大林』創刊号(昭和38年1月)
『工事画報』創刊号(昭和6年1月)『大林グラフ』創刊号(昭和29年8月)『マンスリー大林』創刊号(昭和38年1月)
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