大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

8 広報活動の充実

■―広報活動の推移と広告

昭和45年(1970)12月、本社機構の東京移転に伴い、本店総務部にあった弘報課も東京に移った。これを機会に、パブリシティの充実、広告、各種刊行物の戦略的制作など、広報に関する諸業務の一層の拡充を目指した。

49年2月には、東京本社に広報室、本店総務部に広報課がそれぞれ設置されたが、それは企業のイメージアップ、企業の社会的役割についての理解の促進等を、社内外でより本格的、積極的に進めることを目的としたものであった。

その後、昭和51年版カレンダー「彫む」が日本印刷工業会会長賞を受賞し、51年5月には、前年逝去した白杉相談役の追想録『白杉嘉明三翁をしのぶ』を発刊、さらに53年6月にはPR誌『季刊大林』を創刊するなどがあったが、56年4月に策定された長期経営計画では八つの基本方針の一つに「広報活動の充実」が取り上げられることとなった。これは企業と社会のかかわり合いが増大し、企業広報の重要性が認識されてきたからであった。

当社の最初の本格的広告は、55年9月の日本経済新聞1ページ広告「なるほど、東京駅は建設技術の博物館だ」であったが、翌56年からは毎日新聞に年3回程度、日本経済新聞でも同様に59年から63年にかけて1ページ広告の掲載を定例化した。この間、57年に『週刊東洋経済』に掲載された広告「いま、巨大石炭サイロ時代へ」が第12回東洋経済広告賞優良賞を、61年10月2日発行の『日経ビジネス』に掲載された広告「ゴムをはいたビルです―免震ビルが完成しました」が、同誌読者が選ぶアド・インパクト賞を受賞している。

さらに63年度からは『日経ビジネス』『週刊ダイヤモンド』『週刊東洋経済』『エコノミスト』の経済4誌に対しても技術広告を年間数回掲載している。

一方、本格的なコマーシャル・フィルム(CF)を制作したのは57年からで、61年5月からTBS系で放映(毎日曜10時~10時30分)された『世界めぐり愛』の定例スポンサーとなってからは、「新世界」編、続いて62年10月に「やさしいかたち」編、平成元年には「メビウスの輪」編、2年には大林グループ26社を紹介する「多面体」編および「ヴィゴローソ」編、3年には「人の知恵」編と、おおむね1年に1、2本ずつ制作し、さまざまな番組に提供している。

また、PR映画も数多く製作しており、シンガポール東部海岸埋立工事に採用した連続埋立土工システムを紹介した映画『海を大地に』(57年)は、第20回日本産業映画コンクールにおいて経済団体連合会会長賞を受賞、『関西国際空港建設記録・連絡橋第2工区下部工』は、平成2年第14回土木学会賞映画コンクール凖優勝を得ている。

このほか、近年では展示会活動も盛んとなり、出展回数も62年11件、63年14件、平成元年20件、2年31件と年々増加し、出展内容も一段と充実していった。社内でも本格的な技術展示会として元年11月東京本社で「OTF'89」(大林テクノフェア)を開催、続いて2年5月本店で「OTF'90」が開催されたのも特徴的であった。

昭和51年版カレンダー「彫む」
昭和51年版カレンダー「彫む」

■―海外への紹介

昭和54年(1979)、米国最大の建設技術専門誌『ENR』(エンジニアリング・ニュース・レコード)が当社を紹介した。表紙に大林社長の写真を掲載し、サンフランシスコ市下水道工事の施工に当社が採用した「土圧バランス式シールド工法」を詳しく紹介している。その後55年にも同誌は再び当社を取り上げ、軟弱地盤対策の技術力を高く評価した。

こうした海外での活動に伴って当社は、英文事業報告書『Annual Report』を55年に創刊し、その56年版は国際アニュアルレポートコンテスト4位を獲得、また国際化の進むなか、当初発行部数3,500部だったものが現在5,000部に増えている。58年12月には英文会社案内『The World of Ohbayashi』も創刊、これは翌年の経済広報センター主催第4回英文広報刊行物コンクールで優秀賞を受賞した。61年、63年、平成3年にも続刊するなど、2~3年ペースで刊行している。

米国での日本企業初の公共事業を伝える『ENR』の表紙と記事
米国での日本企業初の公共事業を伝える『ENR』の表紙と記事

■―『マンスリー大林』

社内報『マンスリー大林』は昭和38年(1963)1月に創刊、当初1年間は隔月刊、翌年から文字どおりマンスリーとして、社員全員にもれなく配布している。創刊の趣旨は、『社報{注1}』を補い、業界、技術その他社内の動きを知らせて会社の動向の概要をよりよく理解してもらい、社員間の親睦、連帯感を深めようとするものである。

石油危機後、51年1月号から隔月刊となり、平成元年4月号からまた月刊にもどった。この間、54年からPR研究会{注2}主催の全国社内報コンクールで9回の入賞実績を誇っている。

注1 社報は、主な社内行事、組織の変更、諸規程の制定・改廃、人事異動、工事の決定、関係会社に関する事項などを通知するもので、昭和20年11月から発行されている。それ以前は『彙報』の名称で、大正元年10月~昭和18年9月まで発刊されていた。

注2 PR研究会:池田喜作氏が代表を務める社内報・PR誌・パブリシティ・PR戦略の民間指導機関で、わが国で初めて社内報、PR誌などの全国コンクールを主催した。

■―『季刊大林』

PR誌『季刊大林』の発行部数は当初1万2,000部、配布対象は得意先、設計事務所、大学および各界のオピニオンリーダーとし、加藤秀俊(当時学習院大学教授)、川添 登(建築評論家)、小松左京(作家)の3氏を編集顧問に迎え、テーマとして建設と文明とのかかわり合いをさまざまな角度から追求し、建設物およびそれを創る行為のすばらしさを広く知ってもらうことを基本方針とした。編集方針の斬新さ、商業誌にない独創性、さらに社内技術スタッフによる本格的な技術的裏付けなどが高く評価され、マスコミ等の反響は大きかった。

第1号「ピラミッド」に続き、第2号「門」、第3号「橋」など「未来」編と「復元」編がほぼ交互に発刊され、54年(1979)、55年、58年、59年、平成2年、3年と通算6回、PR研究会主催の全国PR誌コンクール社外報部門で最優秀賞を受賞したほか、59年第4回緑の都市賞・読売新聞社賞や62年第1回日本建築協会賞を受賞し、建設業界ばかりでなく、広くわが国PR誌を代表するものとの評価も定着した。また、発行のつど広くマスコミに取り上げられるなど、その高い発信力の波及効果も大きく、当社のイメージアップに大いに寄与している。

第3号「橋」において新しいコンセプトで提案された“公園橋”は、これを契機として59年竣工した台東区発注の隅田川・桜橋として実現したとされる。また、第8号「寺」で誌上復元した遠江国分寺は、後に磐田市教育委員会発注として、次いで播磨、上野の国分寺も各々に大型模型が当社スタッフの指導で実現化している。

平成2年まで33号を数え、発行部数は毎号2万5,000部を超えており、その名はすっかり定着し、教科書や辞典類、専門書への転載や図版収録も多くの例を数え、専門分野での高い信頼を得るまでになっている。

創刊から8年を経た61年5月、22号までを新視点を加えて集大成した『復元と構想』が東京書籍から発刊されたが、これも大好評で売行きは好調であった。次いで、63年3月の第27号「出雲」も、後に大幅に補筆修正して、単行本『古代出雲大社の復元』として、同年11月学生社から出版され好評を得た。

「季刊大林」と「復元と構想」
「季刊大林」と「復元と構想」
『古代出雲大社の復元』
『古代出雲大社の復元』
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