豊かな水を求めて
生活水準の向上や経済・社会の高度化に伴ってわが国の水需要は増大を続けた。これに対応すべく、昭和63年(1988)1月、「21世紀に向けての水資源開発計画」が策定され、西暦2000年までに約4,900万㎥/日の水資源開発を行うことを目標として、全国で多目的ダムの建設が推進された。この時期、当社JVの手によって完成をみた木曽川水域の阿木川ダムはこうした大型水資源開発プロジェクトの代表例であった。
以下は当社の手になる60年代以降竣工の代表的なダムである。
しかし、離島や山間部、景観保全が重視される風致地区など立地条件によってはダム建設が困難な場所が多く、また、海水の浸透により塩水化に悩む海岸部など恒常的に水不足に悩まされる場所が依然として多い。
当社はこうしたニーズに対し、57年、地下ダム建設に関する基本計画から調査、設計、施工、管理までのトータルエンジニアリングを開発し、日本の地下ダムとしては3番目、壁体式地中連続壁によるものとしては日本初の地下ダムを福井県三方町常神地区に完成させた。以降、福岡県宇美町の天ケ熊地下ダム、鹿児島県喜界島の湾頭原地下ダム、沖縄県宮古島の元宮古島砂川地下ダム(JV)(世界最大規模)、愛媛県中島地下ダムなど壁体式以外の連壁工法でも相次いで工事を行い、最近施工した長崎県対馬の和板地下ダムではSG工法が用いられた。こうした地下ダム技術は砂漠化など水に悩む諸外国からも大いに注目されている。
一方、60年代以降建設された上水道施設としては、兵庫県西野浄水場(現・三田浄水場)、生駒市真弓浄水場、埼玉県南部幹線彦成送水管、東京都三郷浄水場(増設)(JV)、奈良県導水隧道第1工区(JV)、大阪市豊野浄水場(増設)(JV)(平成4年竣工)などがその代表的なものである。
60年5月、土木公共工事では珍しい設計コンペで、スウェトー工法の特性を生かした箕面市小野原配水池の高架水槽(62年度日本コンクリート工学協会賞受賞)を受注することに成功し、東京・日本テレビ放送網北本館(JV)で採用された水の再利用システムが第23回空気調和・衛生工学会賞を受賞、さらに元宮古島砂川地下ダム(JV)も農水省構造改善局長から表彰されるなど、豊かな水を求める当社の技術が、この時期、いくつか花開いたのであった。
阿木川ダム(JV)
当ダムは、木曽川の合流点より約7㎞上流に位置し、恵那市の中心地から約3㎞の地点にある全国でも数少ない市街地から堤体が眺望できる里ダムである。
洪水調節、新規利水などを目的とする多目的ダムであり、堤高102m、堤頂長460m、堤体積490万㎥、総貯水容量4,800万㎥の大型ロックフィルダムである。発注者は水資源開発公団で、施工は当社(幹事会社)、青木建設、大日本土木の3社JVが当たり、昭和56年(1981)8月着工した。
ダムサイトは急峻な崖部にあり、とくに左岸線法面と右岸の洪水吐法面は地山があまり良くなく、当初から掘削は難工事が予測された。掘削が進むうち予想よりさらに地山は悪く、基礎岩盤を予定地盤より数m下まで掘り下げることとなった。また、58年9月、堤体敷掘削中に台風により阿木川は過去最大の900㎥/秒の流量を記録し一次締切りを越流、約4万㎥にものぼる流入土砂が掘削中の河床部を埋めた。しかし、一次締切りをコンクリートダム(高さ16m、堤体積3,000㎥)に設計変更していたため締切りの崩壊は免れた。
60年3月には本体敷の掘削も完了し、河床部へのグラウト注入、監査廊の施工、続いて61年3月から堤体の盛立を開始し、また監査廊内より地下100mに及ぶカーテングラウトの注入も行った。このグラウト注入のボーリング総延長は約18万mにも及び、また盛立は86t級ブルドーザ、45tダンプトラックなど重機械を駆使して昼夜兼行で施工し、63年2月完成した。この間、盛立量は月間最大55万㎥、日最大2万3,400㎥を記録した。
こうして、平成元年10月試験湛水を開始し、2年11月に満々と水をたたえた湖畔で竣工式が挙行された。総事業費1,066億円、10年余の歳月を費やした大事業はここに完了した。
なお、湛水に先立ち、ダムによる新しい環境に対応した個性と活気ある地域づくりを目指して、湖底コンサート(3万人参加)、湖底ハイキング(6,000人参加)などの各種イベントを催し、大きな反響を呼んだ。請負金は185億4,000万円、所長は米林隆から中川武志に引き継がれた。
三方町常神地下ダム
当地は若狭湾常神半島の最北端に位置した小漁村であるが、生活水準の向上、水産加工の増加に加え、夏場の海水浴客を迎えることで水需要が高まり、その結果、海水が地下水へ浸透し塩水化も進行していた。
そこで計画された地下ダムは、当社のOWS工法による地中連続壁で延長203.8m、深さ約20m、壁厚50㎝の遮水壁を造ろうというものであった。
工事は昭和57年(1982)8月にスタートしたが、当地までのケリー掘削機ほか資機材の搬入には、切り立った曲がりくねった道を約25㎞運ばねばならず、思いのほか苦労を伴った。また、連壁施工中に逸泥が起こったが、ただちに掘削孔を埋め戻し、SG(自硬性安定液)による地盤改良で対処するなどして連壁工事は58年5月完了した。その後、水道施設、配水施設の工事を行うとともに、地下ダム最終工事の涵養池築造工事で沢を掘り割り、約8,080㎥の掘削と約2,810㎥の砕石置換えを行い、こうして夏のシーズン中でも真水が最大430t/日給水できるようになった。当工事を通じ集積された数多くのデータは総合的に解析・研究され、その後の同様な地下ダムの建設に大いに役立っている。
なお、当地下ダムは60年全建賞を受け、また国内はじめ諸外国からの問合せや来訪客も多く、各方面から大いに注目された。請負金は4億2,700万円、所長は野村弘明であった。