大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

この時代の工事 昭和62年~平成2年ころ

豊かな水を求めて

生活水準の向上や経済・社会の高度化に伴ってわが国の水需要は増大を続けた。これに対応すべく、昭和63年(1988)1月、「21世紀に向けての水資源開発計画」が策定され、西暦2000年までに約4,900万㎥/日の水資源開発を行うことを目標として、全国で多目的ダムの建設が推進された。この時期、当社JVの手によって完成をみた木曽川水域の阿木川ダムはこうした大型水資源開発プロジェクトの代表例であった。

以下は当社の手になる60年代以降竣工の代表的なダムである。

しかし、離島や山間部、景観保全が重視される風致地区など立地条件によってはダム建設が困難な場所が多く、また、海水の浸透により塩水化に悩む海岸部など恒常的に水不足に悩まされる場所が依然として多い。

当社はこうしたニーズに対し、57年、地下ダム建設に関する基本計画から調査、設計、施工、管理までのトータルエンジニアリングを開発し、日本の地下ダムとしては3番目、壁体式地中連続壁によるものとしては日本初の地下ダムを福井県三方町常神地区に完成させた。以降、福岡県宇美町の天ケ熊地下ダム、鹿児島県喜界島の湾頭原地下ダム、沖縄県宮古島の元宮古島砂川地下ダム(JV)(世界最大規模)、愛媛県中島地下ダムなど壁体式以外の連壁工法でも相次いで工事を行い、最近施工した長崎県対馬の和板地下ダムではSG工法が用いられた。こうした地下ダム技術は砂漠化など水に悩む諸外国からも大いに注目されている。

一方、60年代以降建設された上水道施設としては、兵庫県西野浄水場(現・三田浄水場)、生駒市真弓浄水場、埼玉県南部幹線彦成送水管、東京都三郷浄水場(増設)(JV)、奈良県導水隧道第1工区(JV)、大阪市豊野浄水場(増設)(JV)(平成4年竣工)などがその代表的なものである。

60年5月、土木公共工事では珍しい設計コンペで、スウェトー工法の特性を生かした箕面市小野原配水池の高架水槽(62年度日本コンクリート工学協会賞受賞)を受注することに成功し、東京・日本テレビ放送網北本館(JV)で採用された水の再利用システムが第23回空気調和・衛生工学会賞を受賞、さらに元宮古島砂川地下ダム(JV)も農水省構造改善局長から表彰されるなど、豊かな水を求める当社の技術が、この時期、いくつか花開いたのであった。

温海川治水ダム
<山形県>昭和61年2月竣工
発注 山形県
設計 山形県
温海川治水ダム
<山形県>昭和61年2月竣工
発注 山形県
設計 山形県
奈良県導水隧道第1工区(JV)
<奈良県>平成元年3月竣工
発注 奈良県
設計 奈良県
奈良県導水隧道第1工区(JV)
<奈良県>平成元年3月竣工
発注 奈良県
設計 奈良県
大川ダム(JV)
<福島県>昭和62年10月竣工
発注 建設省
設計 建設省
大川ダム(JV)
<福島県>昭和62年10月竣工
発注 建設省
設計 建設省
元宮古島砂川地下ダム(JV)
<沖縄県>平成6年1月竣工(予定)
発注 沖縄開発庁、農用地整備公団
設計 沖縄開発庁、農用地整備公団
元宮古島砂川地下ダム(JV)
<沖縄県>平成6年1月竣工(予定)
発注 沖縄開発庁、農用地整備公団
設計 沖縄開発庁、農用地整備公団

阿木川ダム(JV)

当ダムは、木曽川の合流点より約7㎞上流に位置し、恵那市の中心地から約3㎞の地点にある全国でも数少ない市街地から堤体が眺望できる里ダムである。

洪水調節、新規利水などを目的とする多目的ダムであり、堤高102m、堤頂長460m、堤体積490万㎥、総貯水容量4,800万㎥の大型ロックフィルダムである。発注者は水資源開発公団で、施工は当社(幹事会社)、青木建設、大日本土木の3社JVが当たり、昭和56年(1981)8月着工した。

ダムサイトは急峻な崖部にあり、とくに左岸線法面と右岸の洪水吐法面は地山があまり良くなく、当初から掘削は難工事が予測された。掘削が進むうち予想よりさらに地山は悪く、基礎岩盤を予定地盤より数m下まで掘り下げることとなった。また、58年9月、堤体敷掘削中に台風により阿木川は過去最大の900㎥/秒の流量を記録し一次締切りを越流、約4万㎥にものぼる流入土砂が掘削中の河床部を埋めた。しかし、一次締切りをコンクリートダム(高さ16m、堤体積3,000㎥)に設計変更していたため締切りの崩壊は免れた。

60年3月には本体敷の掘削も完了し、河床部へのグラウト注入、監査廊の施工、続いて61年3月から堤体の盛立を開始し、また監査廊内より地下100mに及ぶカーテングラウトの注入も行った。このグラウト注入のボーリング総延長は約18万mにも及び、また盛立は86t級ブルドーザ、45tダンプトラックなど重機械を駆使して昼夜兼行で施工し、63年2月完成した。この間、盛立量は月間最大55万㎥、日最大2万3,400㎥を記録した。

こうして、平成元年10月試験湛水を開始し、2年11月に満々と水をたたえた湖畔で竣工式が挙行された。総事業費1,066億円、10年余の歳月を費やした大事業はここに完了した。

なお、湛水に先立ち、ダムによる新しい環境に対応した個性と活気ある地域づくりを目指して、湖底コンサート(3万人参加)、湖底ハイキング(6,000人参加)などの各種イベントを催し、大きな反響を呼んだ。請負金は185億4,000万円、所長は米林隆から中川武志に引き継がれた。

阿木川ダム(JV)
<岐阜県>平成2年11月竣工
発注 水資源開発公団
設計 水資源開発公団
工事概要 中央土質遮水壁型ロックフィルダム、堤高102m、堤頂長460m、堤体積490万㎥、総貯水容量4,800万㎥
阿木川ダム(JV)
<岐阜県>平成2年11月竣工
発注 水資源開発公団
設計 水資源開発公団
工事概要 中央土質遮水壁型ロックフィルダム、堤高102m、堤頂長460m、堤体積490万㎥、総貯水容量4,800万㎥

三方町常神地下ダム

当地は若狭湾常神半島の最北端に位置した小漁村であるが、生活水準の向上、水産加工の増加に加え、夏場の海水浴客を迎えることで水需要が高まり、その結果、海水が地下水へ浸透し塩水化も進行していた。

そこで計画された地下ダムは、当社のOWS工法による地中連続壁で延長203.8m、深さ約20m、壁厚50㎝の遮水壁を造ろうというものであった。

工事は昭和57年(1982)8月にスタートしたが、当地までのケリー掘削機ほか資機材の搬入には、切り立った曲がりくねった道を約25㎞運ばねばならず、思いのほか苦労を伴った。また、連壁施工中に逸泥が起こったが、ただちに掘削孔を埋め戻し、SG(自硬性安定液)による地盤改良で対処するなどして連壁工事は58年5月完了した。その後、水道施設、配水施設の工事を行うとともに、地下ダム最終工事の涵養池築造工事で沢を掘り割り、約8,080㎥の掘削と約2,810㎥の砕石置換えを行い、こうして夏のシーズン中でも真水が最大430t/日給水できるようになった。当工事を通じ集積された数多くのデータは総合的に解析・研究され、その後の同様な地下ダムの建設に大いに役立っている。

なお、当地下ダムは60年全建賞を受け、また国内はじめ諸外国からの問合せや来訪客も多く、各方面から大いに注目された。請負金は4億2,700万円、所長は野村弘明であった。

地下ダム周辺平面図
地下ダム周辺平面図
地下ダム概念図
地下ダム概念図
三方町常神地下ダム
<福井県>昭和59年11月竣工
発注 三方町
設計 三方町
工事概要 地下連続止水壁工、延長203.8m、深さ約20m、壁厚50㎝、取水・浄水・配水施設工事一式
(写真は工事中)
三方町常神地下ダム
<福井県>昭和59年11月竣工
発注 三方町
設計 三方町
工事概要 地下連続止水壁工、延長203.8m、深さ約20m、壁厚50㎝、取水・浄水・配水施設工事一式
(写真は工事中)

21世紀を目指す道路網の整備

わが国の道路整備は、昭和29年度(1954年度)に始まる第1次道路整備5カ年計画以来、9次にわたる5カ年計画を経て着実な進展をみてきた。しかし道路整備を上回る交通量の増大のため、まだ質・量ともに十分な状況ではなかった。63年度にスタートした第10次道路整備5カ年計画ではこうした状況を踏まえ、1万4,000㎞の高規格幹線道路網{}の建設など21世紀初頭を目指す道路整備の長期的展望に基づいて、総投資53兆円をもって推進されることとなった。これによって、多極分散型国土の形成および地域社会の活性化を促すとともに、内需主導型の産業構造への転換に資するための幹線道路ネットワークの整備、地域振興プロジェクトを支援する道路の整備、さらに都市における慢性的な交通渋滞の解消などの要請に応えることとなった。

平成4年度までのこの第10次道路整備5カ年計画は現時点でまだ継続中であるが、右表は昭和62年から平成3年までに完成した当社の代表的な高速道路工事および一般道路の改良工事やバイパス工事などである。

ちなみに、2年度末でわが国の高規格幹線道路の供用延長は5,064㎞、一般国道・都道府県道の総延長は17万5,719㎞、市町村道が93万4,322㎞となっている。

注 高規格幹線道路網:国土開発幹線自動車道等、本州四国連絡道路および一般国道の自動車専用道路から構成される道路網。

山陽自動車道関戸トンネル東工区(JV)
<山口県>昭和62年2月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
山陽自動車道関戸トンネル東工区(JV)
<山口県>昭和62年2月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
道央自動車道納内西工区(JV)
<北海道>平成2年10月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
道央自動車道納内西工区(JV)
<北海道>平成2年10月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
四国横断自動車道いよ西条インターチェンジ(JV)
<愛媛県>平成3年4月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
四国横断自動車道いよ西条インターチェンジ(JV)
<愛媛県>平成3年4月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
近畿自動車道馬場工区(JV)
<大阪府>平成2年1月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
近畿自動車道馬場工区(JV)
<大阪府>平成2年1月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団

京滋バイパス宇治トンネル西(JV)

京滋バイパスは名神高速道路の滋賀県大津市瀬田と京都府南部の国道1号線を4車線道路でつなぐもので、宇治トンネルは、このバイパスにある多くのトンネル群の南端に位置し、近畿の道路トンネルでは当時2番目の4,313mという長さを誇った。当社(幹事会社)と飛島建設のJVはこのうち西側半分を担当し、当社は下り線約1,900mを施工した。工期は昭和59年(1984)3月から4年を要した。

同トンネルは坑口より約50m地点の直上に河川があり、河床下70㎝を掘削しなければならない所もあった。しかも地盤は水を含む不良土が主である。そこで、掘進前に問題区間の表層3mをすき取り、良質土に地盤改良材・急結材を混合した改良土で置き換えた後、NATMで工事を進め、先進上半部にはリングカット工法{注1}を採用し、ツインヘッダで慎重に掘削した。また300m以奥での発破工法では、消音器型防音扉{注2}を考案・設置して夜間も発破をかけながら工期短縮を図った。さらに大断面(120㎡)の地下換気所掘削の際の一次覆工の変状や、1,650m地点から70m区間においての吸水性粘土の膨圧による一次覆工の変状等にも対処しながらの工事であった。

請負金は49億1,120万円、所長は沢井 昭である。

注1 リングカット工法:上部半断面の核の部分を残し、アーチ部分だけをリング状に掘削する工法。上半切羽が自立しえないほど地質条件が悪い場合に最も効果的な掘削工法である。

注2 消音器型防音扉:車の消音マフラーと同じ原理で、トンネル内に防音扉を幾つか設け、その防音扉には通風口を設けて、爆風圧を逃がしながら消音を図る。トンネルの大断面から通気口の小断面、そしてまたトンネルの大断面、この繰返しが消音効果を生む。

京滋バイパス宇治トンネル西(JV)
<京都府>昭和63年3月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
工事概要 NATM(上半先進)、道路延長2,020m(トンネル部1,868m、明かり部152m)、トンネル掘削断面75~80㎡、掘削土量17万2,000㎥
京滋バイパス宇治トンネル西(JV)
<京都府>昭和63年3月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
工事概要 NATM(上半先進)、道路延長2,020m(トンネル部1,868m、明かり部152m)、トンネル掘削断面75~80㎡、掘削土量17万2,000㎥

四国横断自動車道新宮インターチェンジ(JV)

四国横断自動車道は、四国の東端に位置する阿南市を起点として高松から四国北部を西進し、中央で南下して高知、須崎を経て、さらに四国西端を宇和島より大洲へ北上する、ちょうどS字を寝せた形で四国を横断する463㎞の高速道路である。

新宮インターチェンジは、そのほぼ中央、四国山地を南北に貫く路線の愛媛県宇摩郡新宮村に位置し、当社(幹事会社)と大旺建設のJVは、その下り線暫定2車線延長937m(土工延長318m、橋梁3カ所619m)とランプ1,800mを含むインターチェンジ1カ所の工区を担当した。施工場所は法皇山脈と四国中央山脈に囲まれ、いずれも急峻な斜面で一部はオーバーハングした崖をなして谷底に迫り、地すべり地域も数多く存在していた。ここに工事用道路の取付けや高い切土の施工、構造物の工事を行うのはなかなかに困難なものであった。インターチェンジ部の77mに及ぶ高い切土部では法面崩壊の防止策に万全を期するなど、入念な掘削・切土を続けた。また、ランプ橋は、多数の高橋脚と急曲線の平面線形にひねりが加わった複雑な形状の上部工を急傾斜地において施工するという難工事であった。

工事にはこのインターチェンジの工事とともに、1㎞離れた所にある他工区との共用土捨場(107万㎥分)の運営管理も含まれており、1日延900台を数えるダンプの交通対策も重要な業務であった。完成は平成4年(1992)1月、請負金は24億5,838万円、所長は遠藤 隆である。

四国横断自動車道新宮インターチェンジ(JV)
<愛媛県>平成4年1月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
工事概要 総延長937m(土工延長318m、橋梁3カ所延長619m)、インターチェンジ1カ所、切盛土量63万5,000㎥
四国横断自動車道新宮インターチェンジ(JV)
<愛媛県>平成4年1月竣工
発注 日本道路公団
設計 日本道路公団
工事概要 総延長937m(土工延長318m、橋梁3カ所延長619m)、インターチェンジ1カ所、切盛土量63万5,000㎥

都市交通の多様化

私鉄・新生JR・新交通システムetc.

人口の集中する大都市ならびにその周辺において、国鉄や地下鉄とともに輸送の重要な役割を分担しているのは大手私鉄{}である。大手私鉄は昭和36年度(1961年度)から61年度までに6次にわたる輸送力増強計画を実施し、施設の近代化を図ってきた。こうして36年度以降60年度までの投資実績は総額2兆8,750億円にのぼったが、それでもなお、ピーク時の混雑率が200%前後の区間を抱える私鉄もあった。

47年度からは緊急に必要な私鉄の鉄道施設の建設、大改良等を促進するため、それまで国鉄新線の建設を専門にしていた日本鉄道建設公団が政府資金を利用してその建設等を行い、完成後は低利長期で私鉄各社に譲渡する方式が採り入れられた。また、各私鉄が行うサービス改善工事についても膨大な投資が必要とされたため、その財源確保のために「特定都市鉄道整備促進特別措置法」も61年7月施行されることになった。

その翌年62年4月、国鉄は旅客6社、貨物1社など11法人に分割・民営化され、民間企業・JRグループが発足した。

この時期の大手私鉄における輸送力増強工事および施設改良工事のうち当社施工の代表的なものは、関西では東大阪生駒電鉄東大阪線第3工区(荒本駅)(JV)、近鉄上本町ターミナル整備(JV)、同・阿倍野橋ターミナル整備(JV)、阪急神戸線西宮北口駅改築(JV)、南海天下茶屋高架化(JV)、京阪東福寺~三条間地下化(三条駅)(JV)、鴨川電気鉄道鴨東線第1工区(JV)、京阪枚方市駅付近高架化(JV)、またこのころ着手した工事としては近鉄京都線三山木車庫(JV)、阪神尼崎市内・大阪市内の各連続立体化または地下化(JV)などがあった。関東では、京急湘南線京浜富岡駅改良(JV)、東武伊勢崎線谷塚駅高架化(JV)および新田駅高架化(JV)、京王府中駅高架化および八王子駅地下化(JV)、同・井の頭線渋谷~神泉ずい道補強第1工区などがあった。

さらに、平成3年3月開通した北総開発鉄道では栗山トンネル(矢切)が、第3セクターの北近畿丹後鉄道では宮福・下天津トンネル(北)他が、新出発をしたJRではJR東日本京葉線東京地下駅(建築仕上げ工事はJV)が完成した。新システムの交通機関として、神戸新交通で55年6月竣工したポートアイランド線三宮駅に続いて六甲アイランド線魚崎駅、モノレールでは北九州都市モノレール小倉線志井停留場(59年3月竣工)に続いて大阪モノレール島熊山工区(JV)がこの時期竣工した。

なお、平成に入って完成した当社の代表的地下鉄工事には、名古屋地下鉄6号線(桜通線)久屋大通駅(土木工事はJV)のほかに、3年に部分開通した営団地下鉄7号線(南北線)で王子一工区(王子駅)、花博に向け建設されたミニ地下鉄である大阪地下鉄7号線の鶴見緑地線4工区(JV)、ファジィ理論も導入し全自動化へ大きく前進したシールドで注目された福岡地下鉄1号線榎田西工区(JV)、さらにやはりミニ地下鉄の都営地下鉄12号線の春日町第一工区(練馬春日町駅)(JV)などがあった。

注 大手私鉄:(東京周辺)東武鉄道、京成電鉄、西武鉄道、京王帝都電鉄、小田急電鉄、京浜急行電鉄、東京急行電鉄、相模鉄道、(名古屋周辺)名古屋鉄道、(大阪周辺)近畿日本鉄道、南海電気鉄道、阪神電気鉄道、京阪電気鉄道、阪急電鉄、(福岡周辺)西日本鉄道の15社をいう。

神戸新交通六甲アイランド線魚崎駅
<兵庫県>平成2年2月竣工
発注 神戸市
設計 神戸市
神戸新交通六甲アイランド線魚崎駅
<兵庫県>平成2年2月竣工
発注 神戸市
設計 神戸市
JR東日本京葉線東京地下駅(建築工事のみJV)
<東京都>平成2年4月竣工
発注 東日本旅客鉄道 設計 東日本旅客鉄道
JR東日本京葉線東京地下駅(建築工事のみJV)
<東京都>平成2年4月竣工
発注 東日本旅客鉄道 設計 東日本旅客鉄道
名古屋地下鉄6号線(桜通線)久屋大通駅(土木工事のみJV)
<愛知県>平成元年9月竣工
発注 名古屋市
設計 名古屋市
名古屋地下鉄6号線(桜通線)久屋大通駅(土木工事のみJV)
<愛知県>平成元年9月竣工
発注 名古屋市
設計 名古屋市
福岡地下鉄1号線榎田西工区(JV)
<福岡県>平成3年10月竣工
発注 福岡市
設計 復建エンジニアリング
福岡地下鉄1号線榎田西工区(JV)
<福岡県>平成3年10月竣工
発注 福岡市
設計 復建エンジニアリング

阪急電鉄神戸線西宮北口駅改築(JV)

阪急神戸線西宮北口駅は1日の乗換え客20万人という阪神間最大の中継駅である。しかし、高速鉄道では全国でただ一つのダイヤモンドクロス(2路線平面交差)が構内に残っていたため、昭和57年(1982)5月から、このお互いの列車運行を拘束するダイヤモンドクロスを廃する工事が始まった。これにより、南北に走る今津線を分断してその跡に東西に走る神戸線の特急10連化に対応できるホームを整備・延伸し、輸送力の増強を図ることとなった。また同時に橋上駅舎の新設工事も行った。

工事は当社(幹事会社)、奥村組、飛島建設の3社JVが担当し、第1次工事は神戸寄りの橋上駅舎の基礎杭・鉄骨建方工事からスタートした。基礎杭の施工に際しては、地下水が多量でかつ工事の多くがホーム下など狭隘な場所で行われたため、特殊な機械を用いて施工に当たった。鉄骨建方は平日の深夜1時から3時30分の間に行うことが多く、ホームのコンクリート打設も昼間5分間隔で発着する列車の合間をぬって乗降客をさばきながらの作業であった。そして58年3月、橋上駅舎も中央部まで進んだところで、ダイヤモンドクロスを廃し今津線を分断した。

その後、第2次、第3次工事と続いていったが、完成したところから乗降客を橋上駅に通して乗換えを図ったため、土木工事を追いかけるように建築仕上げ工事を行い、62年10月、土木工事はすべて完成した。こうした輻輳する工事ながら全工期無災害を達成し、63年労働大臣進歩賞を受賞した。橋上駅には中央部に美しいメロディーを奏でるカリオン、沿線を表す四面の壁画、空が見えるトップライトが設けられ、沿線の住環境にふさわしい仕上げになっている。請負金は土木工事が31億6,991万円、建築工事が14億3,368万円、所長は山岡禮三、福田修次(以上土木工事)と茶田進一(建築工事)であった。

阪急電鉄神戸線西宮北口駅改築(JV)
<兵庫県>昭和63年2月竣工
発注 阪急電鉄
設計 阪急エンジニアリング
工事概要 橋上駅舎/SRC造、2F、延1万4,000㎡、鉄骨3,173t、基礎杭(直径1.5m×長さ11m、50本、直径2m×長さ12m、28本)、建築仕上げ工事一式 甲風園阪急ビル/RC造、5F、延3,333㎡
阪急電鉄神戸線西宮北口駅改築(JV)
<兵庫県>昭和63年2月竣工
発注 阪急電鉄
設計 阪急エンジニアリング
工事概要 橋上駅舎/SRC造、2F、延1万4,000㎡、鉄骨3,173t、基礎杭(直径1.5m×長さ11m、50本、直径2m×長さ12m、28本)、建築仕上げ工事一式 甲風園阪急ビル/RC造、5F、延3,333㎡

京阪電気鉄道本線東福寺~三条間地下化工事(JV)

京阪電鉄本線は京都市内で鴨川の堤防上に沿って運行されており、国道1号線をはじめとする東西道路と平面交差しているため常時交通渋滞を引き起こしていた。この解消と、京都の古い伝統ある市街地の景観や鴨川を借景とした祗園町の風致を守るため、京阪本線を地下化し、その跡地に南北に走る幹線道路を新設する工事が計画された。当社(幹事会社)は鴻池組、西松建設との3社JVで、ターミナル駅である三条駅を含む延長550mの地下化工事を昭和53年(1978)9月に着手した。1日乗降客10万人以上の駅全体の施設・線路を現状のまま仮受けする工事は、大規模なパイプルーフ工法で施工したが、作業時間および作業場所に厳しい制限があった。

仮受けのパイプ(直径800㎜)は総本数185本、これを水平に押し込み、この直下高さ5mの狭い空間でも使用できる当社開発の路下式ハイドロフレーズ第1号機を用いて地中連続壁(SG-H工法)を施工した。その後、鴨川の堤防敷を掘削するにあたり、予測された大量の地下水への対策に万全を期し、地下16mまでの掘削工事を行い、コンクリート打設、仕上げ工事も順調に進捗し、軌道工事なども終え、63年5月路線切替えを完了し開業した。

当駅に付随する南・北2棟のビルも同JVで施工し、また、京阪本線を出町柳の方へ2㎞延伸(鴨東線)するため、この工区に隣接した地下化工事延長310mも当社(幹事会社)、戸田建設、白石の3社JVでほぼ同時期に施工した(請負金22億7,079万円)。

なお、当工事は60年度土木学会関西支部技術賞を受賞し、また183万時間無事故無災害記録に対し61年労働大臣優良賞も受賞した。請負金は土木工事が43億7,102万円、建築工事が18億5,155万円で、所長は角川穆史(土木工事)と安永 成(建築工事)であった。

京阪電気鉄道本線東福寺~三条間地下化工事(JV)
<京都府>昭和62年4月竣工
発注 京阪電気鉄道
設計 京阪電気鉄道(土木)、当社、京阪電気鉄道、日建設計(以上建築)
工事概要 <土木工事>工区延長550m、土留工1万8,900㎡、路面覆工1万1,800㎡、掘削土量19万5,000㎥、躯体工(コンクリート1万6,317㎥、鉄筋1,858tほか)、パイプルーフ工2,530㎡(185本)、地中連続壁(路下ソレタンシュ工法<SG-H壁>2,071㎡、路下SMW工法882㎡)
<建築工事>駅舎内装/RC造、B2、延1万6,998㎡ 三条駅北ビル・南ビル/RC造、B2、3F、PH付、総延6,382㎡
(左下写真は三条駅北ビル)
京阪電気鉄道本線東福寺~三条間地下化工事(JV)
<京都府>昭和62年4月竣工
発注 京阪電気鉄道
設計 京阪電気鉄道(土木)、当社、京阪電気鉄道、日建設計(以上建築)
工事概要 <土木工事>工区延長550m、土留工1万8,900㎡、路面覆工1万1,800㎡、掘削土量19万5,000㎥、躯体工(コンクリート1万6,317㎥、鉄筋1,858tほか)、パイプルーフ工2,530㎡(185本)、地中連続壁(路下ソレタンシュ工法<SG-H壁>2,071㎡、路下SMW工法882㎡)
<建築工事>駅舎内装/RC造、B2、延1万6,998㎡ 三条駅北ビル・南ビル/RC造、B2、3F、PH付、総延6,382㎡
(左下写真は三条駅北ビル)

海を陸地に

大規模埋立工事

高度成長時代は重化学工業の躍進とともに大規模な臨海工業地帯が生まれ、その多くが埋立地に建設されたが、埋立工事は周辺海域の環境に及ぼす影響が大きいため、施工技術面でも十分な配慮が求められた。当社は、海外でシンガポール東部海岸の大規模な埋立工事を行っているが、国内では昭和40年代以降、すでに述べた東京湾や大阪湾の廃棄物処分場による埋立地や神戸のポートアイランド、六甲アイランドなどの工事に携わっており、これらのほかにも多くの埋立工事を行った。

こうしてできた埋立地は、かつての生産・物流の産業集積立地としてばかりでなく、近年は生活、ビジネス、文化、レジャー、情報発信、国際交流などの機能を配置した利用形態で整備されるウォーターフロント開発が活発になってきている。当社も参画しているここ数年の代表的な大規模埋立工事には、東京国際空港(羽田)沖合展開事業(JV)、大阪湾南港および北港(南・北)埋立地のほか、兵庫県企業庁の阪神間各埋立地、関西国際空港(空港島)(JV)、南大阪湾岸整備事業(りんくうタウン)(JV)、和歌山下津港(毛見地区)土地造成事業南工区(和歌山マリーナ)(JV)などがある。

そのほか、長崎漁港三重地区用地造成(52年竣工)に続き、50年代後半以降には、武田薬品工業光工場南海面埋立、大竹市大竹港臨海部土地造成および広島県大竹地区廃棄物埋立護岸(JV)、相生港埋立(JV)、由良港湾神谷臨海土地造成事業、徳山市第5号海面埋立(2工区)(護岸工事)(JV)、岸和田旧港地区埋立(JV)などの工事があった。

東京国際空港(羽田)沖合展開および関西国際空港については現在盛んに工事が行われており、その全体については他ページにゆずり(707~708、712~714、893~898および901~905ページ参照)、ここでは、東京国際空港(羽田)沖合展開事業のうち護岸・埋立・造成工事(JV)のみについて、また関西国際空港関連工事では阪南丘陵土砂採取工事(JV)を中心に述べる。

・大竹市大竹港臨海部土地造成
<広島県>昭和58年9月竣工(第1期)
昭和60年4月竣工(第2期)
発注 大竹市
設計 中電技術コンサルタント
・広島県大竹地区廃棄物埋立護岸(JV)
<広島県>昭和62年3月竣工
発注 広島県
設計 広島県、復建調査設計
・大竹市大竹港臨海部土地造成
<広島県>昭和58年9月竣工(第1期)
昭和60年4月竣工(第2期)
発注 大竹市
設計 中電技術コンサルタント
・広島県大竹地区廃棄物埋立護岸(JV)
<広島県>昭和62年3月竣工
発注 広島県
設計 広島県、復建調査設計
由良港湾神谷臨海土地造成事業
<和歌山県>昭和60年3月竣工
発注 由良町
設計 日本港湾コンサルタント
(埋立地に建つ工場は春本鐵工所和歌山工場・JV)
由良港湾神谷臨海土地造成事業
<和歌山県>昭和60年3月竣工
発注 由良町
設計 日本港湾コンサルタント
(埋立地に建つ工場は春本鐵工所和歌山工場・JV)
徳山市第5号海面埋立(2工区)(護岸工事)(JV)
<山口県>昭和61年5月竣工
発注 徳山市
設計 徳山市
徳山市第5号海面埋立(2工区)(護岸工事)(JV)
<山口県>昭和61年5月竣工
発注 徳山市
設計 徳山市

東京国際空港(羽田)沖合展開事業のうち護岸・埋立・造成(JV)

昭和59年(1984)1月より着手された「東京国際空港(羽田)沖合展開事業」は、現空港の東側沖合を341㏊埋め立て、すでに廃棄物処理場として埋め立てられている468㏊の部分と合わせて現空港408㏊の3倍弱の1,100㏊の面積をもつ空港に拡張かつ沖合に移転させる事業である。

埋立工事に先立ち、沖合に約7.6㎞の外周護岸を築造することから工事はスタートした。当社は、これら護岸工事のうち地盤改良工事とマウンド工事を60年12月から平成2年9月まで施工した(合わせて総額約75億円)。なお、この護岸工事の発注は東京都であった。施工にあたっては、海上交通事故防止はもちろんのこと海洋汚染防止にはとくに注意を払った。

護岸工事に引き続きポンプ船による護岸内の干潟づくり、表層固化処理、工事用道路造成のあと、主として都内の工事現場の残土で5.5mの高さまで埋め立てる工事を行った。当工事の発注は東京港埠頭公社、請負金は、57年6月から始まっていた廃棄物処分場としての埋立工事も含め平成4年3月までで総額30億9,245万円にのぼり、単独およびさまざまなJVを組んで施工した。

こうして埋め立てたところから順次空港施設用の地盤づくりを現在まで3期に分けて行っている。発注は運輸省第二港湾建設局で、第1期工事は63年7月の新滑走路供用開始までであり、平成4年現在、第2期、第3期工事を並行して行っている。地盤改良工事には、深層混合処理および各種ドレーン工法を場所により使い分け、埋立地820万㎡全域にわたって当社は単独あるいはJVで4年1月までに地盤改良工事ほか49億5,516万円の工事を行った。地盤改良工事では、航空高度制限地点内で、高さ30~40mの地盤改良機を使用するため夜間工事が多かった。

なお、当社は東京国際空港(羽田)沖合展開プロジェクトにおいて、このほかに、運輸省東京航空局、建設省、日本鉄道建設公団、首都高速道路公団、京浜急行電鉄等の発注の空港施設、道路、鉄道、モノレールの建設など関連事業を含めて4年1月末まで約421億円(土木工事のみ)を受注し、各工事をさまざまなJVを組んで鋭意施工中である(次章参照)。

東京国際空港(羽田)沖合展開事業(JV)
<東京都>継続工事
発注 東京都(護岸工事)、東京港埠頭公社(埋立・造成工事)、運輸省第二港湾建設局(地盤改良工事)
(写真は昭和63年12月撮影)
東京国際空港(羽田)沖合展開事業(JV)
<東京都>継続工事
発注 東京都(護岸工事)、東京港埠頭公社(埋立・造成工事)、運輸省第二港湾建設局(地盤改良工事)
(写真は昭和63年12月撮影)

阪南丘陵開発事業土砂採取(JV)

当工事は、大阪府が関西国際空港(空港島)建設および南大阪湾岸整備(りんくうタウン)事業に埋立用土砂5,900万㎥を供給する工事である。

大阪湾泉州沖に空港島護岸の一部が見え隠れし始めた昭和62年(1987)6月、10社JV(当社が幹事会社)で工事を受注し、入念な計画を経て、破砕、搬送、設備などの機器の製作・据付けに取りかかった。主なものは世界最大級のジャイレトリークラッシャ(5,700t/h、自重600t)3基、メインコンベア(1万4,000t/h、幅2,300㎜、延長2,200m)、土砂船積用シップローダ(1万4,000t/h、自重550t)などで、場内に火薬庫(40t庫)も設置した。これら設備の完成を待って、平成元年6月、土砂の搬出を開始した。

土砂採取は、ベンチカット工法で場内171㏊に22カ所の切羽を設け、大型クローラドリルを使用し、最盛期には1日18tの火薬を用いた。土砂の集積、積込みには、ブルドーザ(90t級)22台、ホイールローダ(10㎥)14台、ローディングショベル(9.5㎥)9台を駆使し、運搬は重ダンプトラック(45t、80t積)55台で、破砕プラントに土砂を運んだ。工事最盛期には1日12万㎥、1カ月288万㎥を船積みし、3年12月、空港島への土砂の供給は完了した。

工事にあたり、このように多数の重機械を用いるとともに、各設備には総合監視制御システムを適用して、全工程の効率運転を図った。

請負金は196億7,620万円(平成3年12月現在)で、所長は吉竹伸治である。

今後、りんくうタウンへの土砂の供給、各設備の解体など、工事は平成5年まで続く予定である。

阪南丘陵開発事業土砂採取(JV)
<大阪府>継続工事(平成5年完成予定)
発注 大阪府
設計 大阪府
工事概要 用地面積約171㏊、総搬出土量5,900万㎥ (左下写真は土砂の採取から船積みまでの全工程をコンピュータ制御する中央監視室、左写真は平成3年10月撮影)
阪南丘陵開発事業土砂採取(JV)
<大阪府>継続工事(平成5年完成予定)
発注 大阪府
設計 大阪府
工事概要 用地面積約171㏊、総搬出土量5,900万㎥ (左下写真は土砂の採取から船積みまでの全工程をコンピュータ制御する中央監視室、左写真は平成3年10月撮影)

石油備蓄基地の建設

石油危機の教訓から、わが国では石油不足が再び起きた場合の国内需給の安定を図るため、昭和51年(1976)「石油備蓄法」が施行され、これに基づいて55年までに石油業者に対し90日分の石油備蓄達成を義務づけた。この目標は56年末には達成され、加えて56年度からは3,000万㎘の国家備蓄が「石油公団法」の改正により法制化し、この目標は63年末に達成された。

こうした情勢のなか、国家備蓄基地10カ所の計画のうち、当社は苫小牧東部、むつ小川原(青森)、秋田、福井、白島(福岡)、串木野(鹿児島)、志布志(鹿児島)の各備蓄基地の建設に携わった。石油の備蓄方法としては、陸上、洋上、地中、岩盤の四つの方式があるが、苫小牧東部、むつ小川原、福井、志布志は陸上、白島は洋上、秋田は地中、串木野は岩盤の方式である。平成3年現在、秋田、白島、志布志は工事中で、ほかにこれらに先立って民間の備蓄基地として、沖縄石油基地(沖縄CTS)の建設も行った。

沖縄石油基地(沖縄CTS)第1工区
<沖縄県>昭和55年12月竣工(第1期) 昭和58年8月竣工(第2期)
発注 千代田化工建設
設計 千代田化工建設
沖縄石油基地(沖縄CTS)第1工区
<沖縄県>昭和55年12月竣工(第1期) 昭和58年8月竣工(第2期)
発注 千代田化工建設
設計 千代田化工建設
秋田石油備蓄西基地2工区(JV)
<秋田県>平成元年9月竣工
発注 秋田石油備蓄
設計 日鉱エンジニアリング (点線部分が当社JV工区)
秋田石油備蓄西基地2工区(JV)
<秋田県>平成元年9月竣工
発注 秋田石油備蓄
設計 日鉱エンジニアリング (点線部分が当社JV工区)

むつ小川原石油国家備蓄基地(JV)

青森県下北半島のつけ根、上北郡六ケ所村にわが国第1号のむつ小川原石油国家備蓄基地が建設され、ここに総容量約570万㎘の石油が備蓄されることとなった。その設備を大別すると、受払い設備として10万~30万tクラスのタンカーを繋留できる一点繋留ブイ、約13㏊の敷地に3万7,500㎘タンク4基などを備えた中継ポンプ場、そして11万㎘のタンク51基が配列されている約240㏊の備蓄基地、さらにこれら主要な施設を結ぶ海底配管と移送配管で構成されている。

工事は昭和55年(1980)9月から開始され、主要な工事は大手ゼネコン5グループ(大林、鹿島、大成、清水、西松の各グループ)に分割発注された。当社グループの工事としては、備蓄基地でタンク基礎6基、中継基地でタンク基礎4基などの工事をむつ小川原石油備蓄から4社JV(当社・幹事会社、前田建設工業、奥村組、青木建設)に、中継基地の造成工事をむつ小川原開発から3社JV(当社・幹事会社、国土総合建設、三菱建設)に発注された。さらに、備蓄基地や中継基地の移送配管工事および機械設備、土木、建築工事を当社単独で施工した。

工事に使用した主な材料は、山砂が1,400万㎥、砕石が120万㎥、生コンクリートが2万1,000㎥、アスファルト合材が4万t等と大量にのぼったため、これらの材料を運搬するのにおびただしいダンプトラックを運行し、そのため運転手の教育、過積検査、近隣問題などに最大の努力を払った。

タンクの基礎形式としては、良質地盤である特徴を生かし置換え工法を採用したが、置換えの方法は1層を30㎝とし、山砂20㎝、砕石10㎝の互層で1層ずつ盛り上げていき、その各層ごとに強度確認の検査をしていく工法であった。なお、オイルインは58年9月であった。請負金は総額36億2,000万円、所長は大久保平吉である。

むつ小川原石油国家備蓄基地(JV)
<青森県>昭和58年9月竣工
発注 むつ小川原石油備蓄、むつ小川原開発、千代田化工建設、日揮
設計 むつ小川原石油備蓄、むつ小川原開発、千代田化工建設、日揮
工事概要 備蓄基地(貯蔵施設)/タンク基礎(11万2,000㎘)6基、中継ポンプ場/タンク基礎(3万7,500㎘)4基、土地造成13万2,000㎡、ほか関連工事一式
(写真は備蓄基地、点線部分が当社JV工区)
むつ小川原石油国家備蓄基地(JV)
<青森県>昭和58年9月竣工
発注 むつ小川原石油備蓄、むつ小川原開発、千代田化工建設、日揮
設計 むつ小川原石油備蓄、むつ小川原開発、千代田化工建設、日揮
工事概要 備蓄基地(貯蔵施設)/タンク基礎(11万2,000㎘)6基、中継ポンプ場/タンク基礎(3万7,500㎘)4基、土地造成13万2,000㎡、ほか関連工事一式
(写真は備蓄基地、点線部分が当社JV工区)

日本地下石油備蓄串木野基地(JV)

石油を地下の岩盤に備蓄する方式は北欧で古くから採用され、多くのノウハウが確立されてきた。このため、日本でも3,000万㎘石油国家備蓄量のうち約500万㎘を、久慈(岩手)、菊間(愛媛)、串木野(鹿児島)の3カ所の岩盤地下備蓄タンクで受けもつ計画が進められた。

昭和62年(1987)3月、日本地下石油備蓄から岩盤地下備蓄タンク建設の第1号として、串木野基地建設が、当社、清水建設、間組、三井建設、前田建設工業、鉄建建設、フジタ工業の7社JVに発注された。

基地は鹿児島市の北西、東シナ海に面した串木野市に位置し、タンク建設地は安山岩帯で割れ目が少なく良好な岩盤のもとにあった。ここでの貯油量は約175万㎘で、オイルタンク頂部は海水面レベルから20m下方に設けられ、地下水圧を原油および蒸気ガスの圧力より高く保持することによって漏油、漏気を防止する自然水封式システムが採用された。岩盤タンクの形状は幅18m、高さ22mの半円形で延長は555m、貯油槽はこうしたトンネル10本からなっている。このほか、作業トンネル延長783m、分岐作業トンネル延長121m、サービストンネル延長1,636m、タンク連絡トンネル延長1,065mがあり、岩盤掘削は約200万㎥、吹付けコンクリートは9万㎥にのぼった。

削孔に3ブーム、2ブームのホイールジャンボ、そして吹付けには吹付けロボットが活躍し、工事は予定どおり進捗、平成3年5月には所定のトンネル工事が終了した。請負金は39億9,400万円、所長は梶原俊昭であった。

本プロジェクトは、わが国におけるエネルギー分野での地下空間利用に新たな1ページを加えたものであり、当社の岩盤備蓄技術に関するジオストック社(仏)との技術提携によって得た技術がここでは大きく貢献した。

石油の岩盤地下備蓄建設技術は、その後、LPガスの国家地下備蓄プロジェクトへ引き継がれ、より深い岩盤での備蓄へ展開されようとしている。

日本地下石油備蓄串木野基地(JV)
<鹿児島県>平成3年5月竣工
発注 日本地下石油備蓄
設計 日本地下石油備蓄
工事概要 岩盤タンク(幅18.0m×高さ22.0m×延長555m)10本、トンネル総延長9,155m、備蓄容量約175万㎘
日本地下石油備蓄串木野基地(JV)
<鹿児島県>平成3年5月竣工
発注 日本地下石油備蓄
設計 日本地下石油備蓄
工事概要 岩盤タンク(幅18.0m×高さ22.0m×延長555m)10本、トンネル総延長9,155m、備蓄容量約175万㎘

新時代に対応した下水処理・廃棄物処理施設

昭和61年度(1986年度)から第6次下水道整備計画がスタートし、計画総額12兆2,000億円が下水道事業に投資されることとなったが、これは前5カ年計画の計画達成率が70%余(計画総額11兆8,000億円)と低かったことを受けてのことであった。

同計画においては、とくに公害防止計画、閉鎖性水域における総量削減計画や湖沼水質保全計画に対応するための下水道事業が推進されることとなり、雨水排除、汚水処理、水洗化など生活環境の改善からさらに一歩進んで、清らかな水環境の復活やアメニティライフ時代、リサイクル時代など新時代に対応した下水道整備が目指された。このころ、既設の処理場の増築も相次いだ。

62年から平成3年(工事中も含む)までの当社施工の代表的な処理場および下水管渠工事は下記のとおりである。

●下水処理場

<東京>

新河岸東処理場右岸ポンプ棟(JV)、清瀬処理場(JV)、蔵前処理場主ポンプ室(JV)

<大阪>

猪名川流域下水道原田終末処理場第3系列水処理施設、大阪府川俣処理場(増設)、大阪府大和川下流東部流域大井処理場水処理施設

<神奈川>

戸塚第一下水処理場(第2期)(JV)、川崎市麻生環境センターその3ほか

<その他>

京都市鳥羽処理場(拡張)、神戸市玉津下水処理場第3期水処理施設、日本下水道事業団阿武隈川上流流域下水道県中浄化センター(JV)(宮城)、長崎市クリーンセンター(JV)、埼玉県荒川左岸南部流域下水道荒川終末処理場5号水処理施設

●ポンプ場

<東京>

東京都汐留第二ポンプ所、日本下水道事業団東京都森ケ崎処理場併設東糀谷ポンプ所(JV)

<大阪>

守口市大枝第2ポンプ場(JV)

●下水管渠

<関東>

東京都芝浦幹線(JV)、横浜市港北処理区小机・千若雨水幹線(JV)、東京都第二低段幹線(その3)(JV)

<近畿>

神戸市有馬汚水幹線、日本下水道事業団堺市鳳浜寺北雨水幹線(JV)、和歌山市公共下水道小雑賀幹線、滋賀県琵琶湖流域下水道彦根長浜第一幹線磯松原工区および磯工区管渠、京都市西羽束師川第1排水区西羽束師川第1-1号幹線(雨水)公共下水道、神戸市有野汚水幹線(その4)ほか、大阪府茨木摂津雨水汚水幹線(JV)、神戸市苅藻島連絡管廊、堺市鳳浜寺中央雨水1号線(JV)、大阪府西除川右岸幹線及び右岸雨水幹線下水管渠(第1工区)(JV)、大阪市土佐堀~津守幹線下水管渠(その2)(JV)

<その他>

北九州市五反田川雨水幹線(その3)

遅れる下水処理整備の一層の推進とともに、ふくれる一方の廃棄物処理も、とくに経済が急成長を続けた60年代から平成にかけて大都市圏では深刻な問題となっていった。

一般廃棄物の最終処分場は全国で総面積6,093㏊、容量4億1,000万t(60年度)、産業廃棄物のそれは総面積2,647㏊、容量1億5,780万t(58年度)で、これに対し、最終的な廃棄物は60年度は年間1億6,000万tも排出された。一方、廃棄物最終処分場を施設として明確に位置づけ、その構造基準・維持管理基準が法的に定められたのはようやく52年のことであった。これにより従来の海上埋立型に加えて内陸型最終処分場が50年代後半から多く見られるようになり、2次公害対策などに対する要素技術やさらには処分場システム、跡地利用に関しても、当社はさまざまな技術開発を進めてきた。

50年代後半以降に完成した当社施工の代表的な廃棄物最終処分場(内陸型)は下記のとおりである。

●廃棄物最終処分場(内陸型)

東京都三多摩地域廃棄物広域処分組合谷戸沢廃棄物処分場(JV)、長崎市北部粗大ごみ埋立処分地(三京クリーンランド)調整池(JV)、静岡市沼上最終処分場(JV)、熱海市一般廃棄物最終処分場(JV)

猪名川流域下水道原田終末処理場第3系列水処理施設
<大阪府>昭和56年3月竣工(1/8水処理施設)、昭和60年9月竣工(2/8水処理施設)、平成2年3月竣工(3/8水処理施設)
発注 豊中市
設計 豊中市
(写真は平成2年撮影)
猪名川流域下水道原田終末処理場第3系列水処理施設
<大阪府>昭和56年3月竣工(1/8水処理施設)、昭和60年9月竣工(2/8水処理施設)、平成2年3月竣工(3/8水処理施設)
発注 豊中市
設計 豊中市
(写真は平成2年撮影)

戸塚第一下水処理場(JV)

当処理場は横浜市が計画した11処理場のうち最後のものである。処理対象地域は横浜市戸塚区南部2,000㏊、計画処理人口は23万8,000人で、敷地面積約3㏊に分流式下水処理場を建設するものであった。

第1期工事では、上下2段、地下5階式の沈砂池・電気機械棟と最初沈澱池・エアレーションタンク・最終沈澱池の全4レーンのうち2レーン(地下2階式)、自家発電棟(地下3階式)、その他付属物および外構造園工事を施工した。

当処理場は二方向から流入する下水幹線の高低差が12.3mもあるため、沈砂池とポンプ井が上下2段になった珍しい構造で、その分だけ施設は深くなっており、また周辺住宅地に臭気を出さないよう覆蓋で完全密閉構造であった。また、その上部には公園をつくり、下水道施設の展示場として市民に開放された。

工事に際しては、土留めにOWS工法による地中連続壁とアースアンカーを用い、処理場全体を地中連続壁で囲むかたちで掘削が行われたが、連壁は1万8,661㎡、アースアンカーは1,445本に及び、掘削土量も28万2,000㎥と大規模なものであった。工事は当初3社JV(当社・幹事会社、前田建設工業、鴻池組)でスタートしたが、その後17件の工事が分割して発注され、日産建設、大日本土木、花崎産業を加え6社で4JV(いずれも当社が幹事会社)を組み、各工事を施工した。

続いて、管理棟、自家発電棟、電気室棟、要員宿舎を4社3JV(いずれも当社が幹事会社)で施工し、地中にすっぽり埋まった処理場の上の人工地盤上にこれらを建設した。その後、第2期工事として処理場の拡張工事も行い、これらすべてが完了したのは昭和62年(1987)12月のことであった。請負金は第1期、第2期合わせて土木工事が65億238万円、建築工事が29億372万円で、所長は土木工事が池田三利、中村敞一、土田秀穂と引き継がれ、建築工事は板倉一雄であった。

戸塚第一下水処理場(JV)
<神奈川県>昭和59年3月竣工(第1期) 昭和62年12月竣工(第2期)
発注 横浜市
設計 横浜市
工事概要 標準活性汚泥法水処理施設、処理水量12万4,000㎥/日
<土木工事>地中連続壁1万8,661㎡、コンクリート工8万200㎥、掘削土量28万2,000㎥
<建築工事>管理棟/SRC造およびRC造、B5、3F、PH付、全4棟、総延3万6,149㎡
(写真は昭和59年7月撮影)
戸塚第一下水処理場(JV)
<神奈川県>昭和59年3月竣工(第1期) 昭和62年12月竣工(第2期)
発注 横浜市
設計 横浜市
工事概要 標準活性汚泥法水処理施設、処理水量12万4,000㎥/日
<土木工事>地中連続壁1万8,661㎡、コンクリート工8万200㎥、掘削土量28万2,000㎥
<建築工事>管理棟/SRC造およびRC造、B5、3F、PH付、全4棟、総延3万6,149㎡
(写真は昭和59年7月撮影)

長崎市クリーンセンター(JV)

従来、長崎市は、排出されるし尿の6割がくみ取り式で、陸上処理と海上投棄によってその処分を行っていた。そこで処理能力350t/日、延1万9,600㎡(地下2階、地上6階)のし尿処理施設を計画、工事は当社と三菱重工業のJVが分担施工によって行った。しかし、受注時には基本計画図と発注仕様のみが示されただけで、受注者の実施設計が条件であった。そこで半年間の設計作業を進め、一方、現場サイドは地下の掘削を先行した。

建物のうち処理棟はすべて地下で、しかも地下水位が高い所のため躯体重量よりも大きい浮力を受けることが予想され、この浮き上がり防止対策にVSL永久アンカー工法を日本で初めて採用し、削孔長11mのアンカー168本を施工した。構造物は、地下がRC造と現場打ちPC造、地上がSRC造と一部PC造と変化に富んだ建物であったが、平成2年(1990)9月工期どおり無事完成した。処理棟の地上部分は付近の環境に配慮して、植栽を施し、ゲートボール場などもある多目的広場を設け、市民の憩いの場となっている。請負金は土木、建築工事合わせて40億5,920万円、所長は井上 健であった。

長崎市クリーンセンター(JV)
<長崎県>平成2年9月竣工
発注 長崎市
設計 当社
工事概要 RC造およびSRC造一部PC造、B2、6F、延1万9,625㎡
長崎市クリーンセンター(JV)
<長崎県>平成2年9月竣工
発注 長崎市
設計 当社
工事概要 RC造およびSRC造一部PC造、B2、6F、延1万9,625㎡

静岡市沼上最終処分場(JV)

当処分場は、近隣の清掃工場から排出される焼却炉灰および不燃物等を埋め立てて処分する最終処分場で、埋立容量75万㎥、埋立面積は3.6㏊であった。しかし、平地部は軟弱地盤、斜面部は地すべりの多い地形であり、また浸出液による地下水汚染を防止するため、工事にあたっては当社が保有する最新工法を数多く活用した。

勾配の急な凹凸の激しい法面部には2万2,410㎡にわたって現場吹付け遮水シート(ゴムアスシート)を用い、埋立地内の亀裂の多い風化岩盤層の法面安定にはアースネイリング工法を採用し、補強鋼棒約3,200本と吹付けモルタルで防護した。また、軟弱地盤上の高さ28mの貯留堤などの安定には基礎地盤改良に粉体噴射撹拌(DJM)工法をとるなどした。さらには、工業用水管が埋設されている管理用道路の沈下を防ぐために発泡スチロールを積み重ねるEPS工法や、急勾配の盛土法面の安定対策としてジオテキスタイル補強土工法(盛土に高強度プラスチック網を層状に敷設する工法)なども採用した。

施工は当社(幹事会社)、平井工業、倉和建設の3社JVが担当し、平成2年(1990)2月完成、請負金は17億4,242万円、所長は佐々隆史であった。

静岡市沼上最終処分場(JV)
<静岡県>平成2年2月竣工
発注 静岡市
設計 環境アセスメントセンター
工事概要 埋立面積3.6㏊、埋立容量75万㎥
静岡市沼上最終処分場(JV)
<静岡県>平成2年2月竣工
発注 静岡市
設計 環境アセスメントセンター
工事概要 埋立面積3.6㏊、埋立容量75万㎥

港湾整備の新展開と航空ネットワークの充実

わが国の港湾整備は、昭和36年度(1961年度)以来平成2年度まで、7次にわたる港湾整備5カ年計画によって、拡大する物流を円滑にするとともに地域振興の一翼を担う農林水産の加工基地として、あるいは臨海工業地帯の主要施設として計画的に進められてきた。そして現在、その機能の充実に加え、使いやすさや美しさも考慮し、また輸入促進、さらに旅客船時代に備えた整備を一段と進めていこうとしている。

当社施工の代表的な港湾として十勝港があるが、同港は40年代から現在までずっと工事が続いている商港である。また、やはり当社が東防波堤(JV)を施工している苫小牧東港は、地方の臨海工業地帯のための埋立地が相次いで他の用途への転用を図るなかで、わが国の将来の貴重な工業基地として、むつ小川原とともにその用途が変更されない港湾として工事が行われた。

一方、航空輸送は、高速交通ニーズの高まり等を背景として旅客、貨物ともに急速な発展を遂げており、42年度以来実施されている空港整備5カ年計画は平成3年度から第6次計画に入った。この計画では、国内・国際ネットワークが集中する東京と大阪で、成田空港第二期工事の実施、東京国際空港(羽田)沖合展開事業の完成および関西国際空港の開港を最優先として展開することとなっているが、このいずれをも当社は鋭意施工中である(707~708、712~714、893~898、901~905ページ参照)。

その他の空港の整備も着々と進み、42年に空港数52のうちジェット化空港6であったものが、現在空港数83、うちジェット化空港は49港、大型ジェット機の就航可能な空港は22空港となっている。50年代後半から当社が工事に携わった代表的な一般空港には新岡山空港(JV)、新高松空港(JV)があり、この2空港ともすでに開港、プライベート空港のダイコロ愛別飛行場も63年に完成した。現在、新千歳空港ターミナルビル(JV)、新広島空港(JV)、福島空港(JV)、新南紀空港(JV)が建設中で、また遊水池の上に人工地盤を造って公共のヘリポートにするという静岡ヘリポート(JV)の建設工事も進んでいる。

新岡山空港用地造成(JV)
<岡山県>昭和62年3月竣工
発注 岡山県
設計 日本空港コンサルタンツ
新岡山空港用地造成(JV)
<岡山県>昭和62年3月竣工
発注 岡山県
設計 日本空港コンサルタンツ

十勝港(JV)

十勝港は、昭和45年(1970)、全国で38番目の重要港湾に指定され、当社が工事に参加したのも同年スタートした同港第3次整備計画からであった。

当初は港湾工事に必要な船舶も自社で保有しておらず、また全国的にも有数の激しい海象変化に悩まされたが、46年度以降、起重機船「柏洋丸」「柏進丸」「柏豊丸」「柏東号」、浮きドック「柏龍号」など、大林船団ともいうべき新鋭作業船を相次いで整え、平成2年12月まで第7次にわたる港湾整備工事を行ってきた。その間、防波堤工事、消波工工事、岸壁工事、浚渫工事など行ってきた状況は前ページの図のとおりである。

十勝港工事は年間の海上作業可能日数は平均60日余、ほとんどの海上工事は11~12月の厳寒期に限られ、防波堤・消波工工事などでは、厳寒のなかでも3日と続かない凪の日を選び昼夜兼行でケーソンを曳航、据付け、砂充塡、蓋コンクリート、上部コンクリートの連続作業が続いた。また当地は地震多発地帯でもあり、そのたびに津波に対して港内の船団を沖合に緊急避難させる態勢をとったり、また想像を絶する大シケに対し昼夜をわかたず船団を守らなければならなかった。

こうして、47年度に北防波堤、57年度に内郭埠頭岸壁が完成し、工事着工以来10年目を迎えた54年度からは南防波堤工事に着手した。

この間、十勝港を基地として隣接する音調津漁港防波堤・消波堤、抜海漁港防波堤(JV)、宇登呂漁港分港の消波工、大樹漁港の浚渫、根室港岸壁(JV)の各工事にもこれら船団は出動していった。さらに、52年度から200海里問題のなかで見直された“獲る漁業”から“つくる漁業”への転換の一つとして、人工魚礁漁場の造成工事も行った。この工事では4年間に十勝港沖合30㎞地点に毛ガニ用の人工魚礁1,420個(1個15t)を製作、設置した。

45年5月から平成2年12月までの総請負金は158億3,224万円、人工魚礁は約7億円であり、所長は鹿野満渡から林野下貫一、川端貢一、五十嵐 勇、馬場英之と引き継がれている。

3年現在、同港は国際港に向け拡充を急いでおり、工事は第8次整備工事以降当分続く予定である。このため当社は大型浮きドック「第2柏龍号」(6,500t)を新造し、施工能力の拡充を図った。

十勝港(JV)
<北海道>継続工事
発注 北海道開発局
設計 北海道開発局
(写真は昭和59年撮影)
十勝港(JV)
<北海道>継続工事
発注 北海道開発局
設計 北海道開発局
(写真は昭和59年撮影)
十勝港施工工区図
十勝港施工工区図

全日本空輸整備本部成田工場(成田第1号格納庫)(JV)

全日空は海外路線への進出に伴い航空機の日常点検を成田で行えるよう、同空港内に格納庫を建設することとなった。この格納庫は、できるかぎり出入口開口を大きくとり、ボーイング747級が3機同時に出入りできるよう計画され、また天井を機体の最も高い尾翼部分(約19m)にあわせて水平にし、機体の向きに制限なく収容できるようになっている。

この屋根の斜格子トラスの施工にあたって最大のポイントはステージ上のジャッキダウン作業であったが、このような大規模な建物(200m×90m×高さ40m)でのジャッキダウンは日本では初めてであった。36カ所の仮設支柱(高さ26m)を建て、その上部に200tのジャッキを据え、これに支えられたステージ上で総重量5,800tの屋根トラスを組み立てる。その後、ジャッキをゆるめ、延2日間かけて荷重を本設柱に移動するジャッキダウンを完了した。

ジャッキダウン作業が終了した翌日、千葉県沖を震源とする震度5の激震が現場を襲い、大屋根も大波のように揺れたが変形損傷は全くなく、期せずして実物大実験を行ったような格好となった。工事中は成田空港第二期工事着工という時期に当たり、工事関係者の出入りや資機材の搬出入管理は厳重を極めたが、昭和63年(1988)7月工事は無事竣工した。施工は当社(幹事会社)、西松建設、住友建設、西武建設の4社JVが当たり、請負金は46億8,105万円、所長は須藤賢司であった。

全日本空輸整備本部成田工場(成田第1号格納庫)(JV)
<千葉県>昭和63年7月竣工
発注 全日本空輸
設計 梓設計、日建設計
工事概要 ハンガー棟/S造、平家、2万1,504㎡
ショップ棟/SRC造、B1、5F、延1万531㎡
全日本空輸整備本部成田工場(成田第1号格納庫)(JV)
<千葉県>昭和63年7月竣工
発注 全日本空輸
設計 梓設計、日建設計
工事概要 ハンガー棟/S造、平家、2万1,504㎡
ショップ棟/SRC造、B1、5F、延1万531㎡

第2次ゴルフブーム

第2次ゴルフブームは昭和60年代から平成3年(1991)にかけて起こり、この間に当社が施工したゴルフ場およびクラブハウスは50件近くにのぼった。その数は、50年代初めの第1次ゴルフブームのときをはるかに超えている。

いまやゴルフ人口は1,300万人を超えるといわれ、若年・女性層の増加が目立ったのがこのブームの特徴であった。しかし、ゴルフ会員権が折からの投機ブームのなかでトラブルを引き起こしたり、農薬散布が公害として取りざたされたこともこのブームのさなかであった。

次ページの表は60年以降の当社施工の代表的なゴルフコースおよびクラブハウスであるが、当社の関係会社である山陽グリーンゴルフコース(61年)、デイスターゴルフクラブ(平成2年)、そして、名取ゴルフ倶楽部(平成4年)もオープンした。また、東京湾のごみ埋立地に建設された若洲ゴルフリンクスなど話題を呼んだゴルフ場も多く、海外でもタイ、インドネシア、マレーシア、フランスでゴルフ場の建設工事が相次いだ。これら内外のゴルフ場建設需要に対応して、昭和61年12月、コンサルタント会社として設立した当社の関係会社オークエンジニアーズがゴルフ場の企画・設計などの業務を受託することも増えた。

笠間東洋ゴルフ倶楽部(JV)
<茨城県>昭和60年9月竣工
発注 東洋グリーン開発
設計 井上誠一(コース)、村野・森建築事務所(クラブハウス)
笠間東洋ゴルフ倶楽部(JV)
<茨城県>昭和60年9月竣工
発注 東洋グリーン開発
設計 井上誠一(コース)、村野・森建築事務所(クラブハウス)
デイスターゴルフクラブ
<千葉県>平成2年9月竣工
発注 睦沢グリーン開発
設計 オークエンジニアーズ(コース)、当社(クラブハウス) (左下写真は西最終コースからクラブハウスを望む)
デイスターゴルフクラブ
<千葉県>平成2年9月竣工
発注 睦沢グリーン開発
設計 オークエンジニアーズ(コース)、当社(クラブハウス) (左下写真は西最終コースからクラブハウスを望む)
ベルビーチゴルフクラブ
<沖縄県>平成3年1月竣工
発注 沖縄本部カントリークラブ
設計 相山武夫(コース)、当社(クラブハウス)
ベルビーチゴルフクラブ
<沖縄県>平成3年1月竣工
発注 沖縄本部カントリークラブ
設計 相山武夫(コース)、当社(クラブハウス)
山陽グリーンゴルフコース
<山口県>昭和61年8月竣工
発注 当社(コース)、山陽グリーン(クラブハウス)
設計 当社
山陽グリーンゴルフコース
<山口県>昭和61年8月竣工
発注 当社(コース)、山陽グリーン(クラブハウス)
設計 当社
ワイルドダックカントリークラブ
<茨城県>平成3年3月竣工
発注 グリーン・レイク
設計 当社(コースおよびクラブハウス)、陳 清波(コース監修)
ワイルドダックカントリークラブ
<茨城県>平成3年3月竣工
発注 グリーン・レイク
設計 当社(コースおよびクラブハウス)、陳 清波(コース監修)
鬼怒川森林カントリークラブ
<栃木県>平成元年9月竣工
発注 栃木開発
設計 富澤廣親、当社(以上コース)、松田平田坂本設計事務所(クラブハウス)
鬼怒川森林カントリークラブ
<栃木県>平成元年9月竣工
発注 栃木開発
設計 富澤廣親、当社(以上コース)、松田平田坂本設計事務所(クラブハウス)
若洲ゴルフリンクス(JV)
<東京都>平成2年11月竣工
発注 東京都
設計 サンコーコンサルタント 監修 岡本綾子、川田太三
若洲ゴルフリンクス(JV)
<東京都>平成2年11月竣工
発注 東京都
設計 サンコーコンサルタント 監修 岡本綾子、川田太三
キングスロード・ゴルフクラブ
<兵庫県>平成3年6月竣工
発注 三住興産
設計 鈴木正一(コース)、当社(クラブハウス)
キングスロード・ゴルフクラブ
<兵庫県>平成3年6月竣工
発注 三住興産
設計 鈴木正一(コース)、当社(クラブハウス)

リフォーム・リニューアル・リノベーション

土木工事では、駅などで、いわゆる改造工事というのは多いが、ここでは建築工事でのリフォーム工事を主に取り上げる。

当史の工事編に登場してくる建築工事は、1、2件の保存復元工事以外はすべて新築(増築・建替えを含む)工事である。このことからもわかるように、少なくとも建築工事ではリフォーム工事(ほかに呼び方はいろいろある)は、どちらかといえば地味な工事である。

リフォームの概念を示すと下図のようになるが、当社は従来からこれらすべてを含め「営繕工事」と呼んでいる。つまり、新築・増築を除くすべてがここに含まれる。「営繕工事」とは、“面積が増えない工事”ということになる。つまり“躯体に手をつけない工事”とも言い換えられる。しかし、例外があって、耐震補強工事や集合住宅の小さい2戸を1戸の大型住宅に改造する工事などは躯体に手を加えても営繕工事に入れている。

昭和58年当時、建設投資は実績38兆円、うち建築は25兆円。このときの維持補修実績(公共投資関連を含む)は4兆7,000億円であった。これは全建築投資の約19%に当たり、リフォーム市場は近い将来10兆円市場になるといわれ始め、大手建設各社も60年ころからリフォーム業務に力を入れ始めてきた。

当社のリフォーム工事は、平成3年度約1,400億円にのぼった。これは当期施工高の11%にもなる。この数字を見ても、リフォーム工事は当社の建築工事のなかで相当な割合を占めていることがわかる。

最近、東京本社で請負金5,000万円以上のリフォーム工事をみると民間オフィスビルが最も多く、過去5年では52%が民間オフィスビルのリフォーム工事であった。60年代の大規模なリフォーム工事として代表的なものは右表のとおりである。

このほか50年代以降のリフォーム工事として、農協ビル(東京)、横浜髙島屋、横浜駅西口ダイヤモンド地下街、近鉄会館および近鉄本社ビルなどが大規模なものであった。また海外では、ロイヤルホリデイインクラウンプラザ(シンガポール)の大規模なリノベーション工事が平成2年(1990)8月に竣工した。

リフォーム工事の多くは現建物を一部あるいは全部使用しながらの工事ということで多大な苦労が伴う。一部閉鎖して工事が行われるにしても、長期間閉鎖することもままならず、おのずと超突貫工事となることが多い。さらに施工法や使用機械についてもさまざまな工夫が必要で、設備診断システム(昭和58年)をはじめとして、超音波で配管劣化を診断する非破壊診断装置(配管診断ロボットと画像処理システムで構成)(1号機63年、2号機平成2年)、RC構造物の補修・保護工法であるコンパーマ工法(昭和60年)、鉄筋コンクリート造の構造物の外壁面の劣化状態を自動的に検査するための壁面検査ロボット「カベドーダ」(61年)、煙突や柱の耐震補強に炭素繊維を巻いて補強をするための自動巻付け機(62年)など、リフォーム工事の有力な武器となる機器やシステムの開発にも当社は力を注いでいる(カッコ内は開発年)。

先の耐震補強の炭素繊維もその一つであるが、建設当時にはなかった新しい素材でリフォーム工事が行われることも多い。たとえば、丸ビルの外壁全面(1万1,000㎡)改修で大規模に用いられたGRC(セメントモルタルを耐力アルカリガラス繊維で補強したもの)、沖縄那覇ビルで外壁に使用された塩害に強いチタンもその一例であった。一方、昔使用された材料が有害であると判明したアスベストの撤去改修工事が一時集中したこともあった。エネルギーコスト削減をねらいとするコージェネレーションシステム導入のための改造工事は設備機器の著しい発展に伴う工事で、最近増加のきざしをみせている。単に古くなったから改装するというばかりでなく、店舗やホテルなど常に積極的に新機軸を求めてリフォームする例、耐震補強のためのリフォーム、インテリジェント化対応のためのリフォームなど、リフォーム市場は建築、設備工事ともにさらにその裾野を広げる傾向にある。

丸ビル(改修前)
丸ビル(改修前)
(改修後)
(改修後)
内装工事中の京都南座
内装工事中の京都南座

ゆとり追求・豊かさ実感(2)

リゾート時代の萌芽と充実する文化施設等

“リゾート”という言葉が日本人になじみ始めたのは、ごく近年のことである。「休暇に保養やレクリエーションのために人々がしばしば訪れる所」といわれており、昭和60年代に入るとリゾート開発は熱気を帯び、国もいわゆる「リゾート法」を62年(1987)6月に施行して積極的にこれを進める体制をとった。当社が施工したリゾート事業の代表は、なんといってもアルファリゾート・トマム(北海道)であり、ここではホテル、ゴルフ場、テニスコート、室内スポーツ施設など一連の工事を手がけている。また、同じく北海道にある代表的なリゾート地・ルスツでも平成4年現在、ルスツリゾート(仮称)ヴィレッジを施工中である。

しかし、わが国に本格的なリゾート時代はいまだ訪れてはいないという声もあり、手近な所で余暇を過ごす人がほとんどであることも事実である。といってもリゾート市場を含む余暇市場全体のマーケットスケールを余暇活動関連消費支出{}の推移からみると、57年度約25兆6,000億円、61年度30兆4,000億円となっており、年々拡大していることがうかがわれる。

60年代に入ってからの当社のこうした施設の建設は別荘地、リゾートホテル、リゾートマンションのほか、それこそあらゆる施設にわたっている(以下参照)。ゴルフ場はその筆頭にあげられるが(767~769ページ参照)、そのほかスキー場、キャンプ場、マリーナ、体育館、武道館、プール、アスレチッククラブ、運動場など各種スポーツ施設、競馬・競艇場、公園・広場、各種団体保養基地、そして前章に述べた見本市会場、博物館、科学館、水族館、美術館、文化センター、さらには客船(内装)に至るまで多種多様なものがあった。地方博もこうしたさなかに相次いで開催された。

<別荘地・リゾートホテル・リゾートマンション>

あかざわ温泉郷別荘地第三恒陽台(JV)(静岡)、中央アルプス高原マンション・ユニテック木曽駒、シーズ城ケ崎(JV)、プライベートリゾートエクシブ鳥羽(JV)、プライベートリゾートエクシブ鳥羽アネックス、ホテルアルファ・トマム・ザ・タワーⅠ・Ⅱ(ⅡのみJV)およびヴィラスポルトⅠ、ホテルアクシオン館山(千葉)

<スポーツ施設>

大阪府立体育会館(JV)、名古屋市総合体育館第1・第2競技場(JV)、宝塚市立スポーツセンター、越谷市立総合体育館(JV)、東京武道館(JV)、静岡県草薙総合運動場陸上競技場メインスタンド、石岡市運動公園体育館(JV)(茨城)、青野運動公苑(JV)(兵庫)、薬業鳴尾浜スポーツセンター(兵庫)、東京都江東区亀戸スポーツセンター(JV)、敦賀市総合運動公園体育館(JV)、北本市体育センター(JV)(埼玉)、ダイヤモンド・スポーツクラブ・アトラス(JV)(神奈川)、セントラルフィットネス武蔵小杉、ロイヤルフィットネス六甲、八幡高原191スキー場(広島)、デルタセンター(JV)(米国ユタ州)、和歌山マリーナ(平成4年現在工事中)

<娯楽など>

京都競馬場スタンド内装改修(JV)、宮島競艇場中央スタンド(JV)、ふじ丸(船内内装工事)、天保山ハーバービレッジ(海遊館・天保山マーケットプレース)(JV)(平成4年BCS賞受賞)(大阪)、レオマワールド(香川)、アオイア スプラッシュガーデン(兵庫)、京都南座改修、ヴィズ スパハウストマム、ホウパービラガーデン“ドラゴン・ワールド”改修(シンガポール)

<文化施設・会議場・コンベンションセンター>

岡山県立美術館(JV)、大阪府教育会館、広島国際会議場、藤沢市湘南台文化センター(平成4年BCS賞受賞)、佐賀市文化会館(JV)、日本コンベンションセンター・幕張イベントホール(JV)、仙台市青年文化センター(JV)、千葉県青葉の森公園文化ホール(JV)、新潟県聖籠町文化会館(JV)(平成3年BCS賞受賞)、神戸留学生会館、広島県民文化センターふくやま・エストパルク(JV)(広島)、大阪国際平和センター、静嘉堂文庫美術館(東京)

<公園・広場など>

函館山展望台・ロープウェイ(JV)、東京都若洲海浜公園(JV)、京橋都市センターコムズガーデン(JV)(大阪)、六甲アイランドリバーモール、名古屋市白鳥庭園(JV)、姫路城西御屋敷跡庭園・好故園(第1工区)

<各種団体保養基地>

京都厚生年金休暇センター(JV)

<その他>

創価学会関西池田記念墓地公園(兵庫)、平安祭典西神会館(JV)(兵庫)

また60年代に入ると、各企業ではこれまで手控えていた間接部門への建設投資を増加させ、社宅や研修所などの教育・厚生施設を拡充する動きをみせていった。こうしたなかで、大規模な研修センターとして、当社は、野村證券高輪研修センター、三越一の宮クラブ、ニッセイ総合研修所(JV)、いすゞフォレスト箱根、トヨタ自動車三ケ日研修所などを建設した。

注 余暇活動関連消費支出:外食、スポーツ、旅行などきわめて明確にレジャー的要素のある支出項目のうち個人の支出に係る部分に限定して算定した数字。(『国民生活白書』(平成元年版)から)

大阪府立体育会館(JV)
<大阪府>昭和62年1月竣工
発注 大阪府
設計 大阪府、日建設計
大阪府立体育会館(JV)
<大阪府>昭和62年1月竣工
発注 大阪府
設計 大阪府、日建設計
天保山ハーバービレッジ(海遊館、天保山マーケットプレース)(JV)
<大阪府>平成2年7月竣工
発注 大阪ウォーターフロント開発
設計 ケンブリッジセブン・アソシエイツ、環境開発研究所
(写真左がマーケットプレース、右が海遊館)
天保山ハーバービレッジ(海遊館、天保山マーケットプレース)(JV)
<大阪府>平成2年7月竣工
発注 大阪ウォーターフロント開発
設計 ケンブリッジセブン・アソシエイツ、環境開発研究所
(写真左がマーケットプレース、右が海遊館)
プライベートリゾートエクシブ鳥羽(JV)およびアネックス
<三重県>昭和62年3月竣工、平成3年2月竣工(アネックス)
発注 リゾートトラスト
設計 安井建築設計事務所
(写真手前がプライベートリゾートエクシブ鳥羽、奥がアネックス)
プライベートリゾートエクシブ鳥羽(JV)およびアネックス
<三重県>昭和62年3月竣工、平成3年2月竣工(アネックス)
発注 リゾートトラスト
設計 安井建築設計事務所
(写真手前がプライベートリゾートエクシブ鳥羽、奥がアネックス)
京都南座改修
<京都府>平成3年9月竣工
発注 松竹
設計 杉山隆建築設計事務所(総合監修)、当社(実施設計) 監理 杉山隆建築設計事務所
京都南座改修
<京都府>平成3年9月竣工
発注 松竹
設計 杉山隆建築設計事務所(総合監修)、当社(実施設計) 監理 杉山隆建築設計事務所
ホテルアクシオン館山
<千葉県>昭和63年5月竣工
発注 日本サン・ランド
設計 レーモンド設計事務所
ホテルアクシオン館山
<千葉県>昭和63年5月竣工
発注 日本サン・ランド
設計 レーモンド設計事務所
ホウパービラガーデン改修
<シンガポール>1990年7月竣工
発注 International Theme Parks
設計 RSP Architects Planners & Engineers
ホウパービラガーデン改修
<シンガポール>1990年7月竣工
発注 International Theme Parks
設計 RSP Architects Planners & Engineers
野村證券高輪研修センター
<東京都>昭和59年1月竣工、(増築)62年9月竣工
発注 野村土地建物
設計 野村不動産
野村證券高輪研修センター
<東京都>昭和59年1月竣工、(増築)62年9月竣工
発注 野村土地建物
設計 野村不動産
大阪府教育会館
<大阪府>平成元年2月竣工
発注 大阪府教職員互助組合
設計 ベニス・スタヂオ建築設計事務所
大阪府教育会館
<大阪府>平成元年2月竣工
発注 大阪府教職員互助組合
設計 ベニス・スタヂオ建築設計事務所
創価学会関西池田記念墓地公園
<兵庫県>平成2年4月竣工
発注 創価学会
設計 当社、創造社 (左下右写真は管理礼拝棟)
創価学会関西池田記念墓地公園
<兵庫県>平成2年4月竣工
発注 創価学会
設計 当社、創造社 (左下右写真は管理礼拝棟)
ダイヤモンド・スポーツクラブ・アトラス(JV)
<神奈川県>昭和62年5月竣工
発注 横浜地下街
設計 当社
ダイヤモンド・スポーツクラブ・アトラス(JV)
<神奈川県>昭和62年5月竣工
発注 横浜地下街
設計 当社
日本コンベンションセンター・幕張イベントホール(JV)
<千葉県>平成元年9月竣工
発注 千葉県
設計 槇総合企画事務所
日本コンベンションセンター・幕張イベントホール(JV)
<千葉県>平成元年9月竣工
発注 千葉県
設計 槇総合企画事務所
岡山県立美術館(JV)
<岡山県>昭和62年7月竣工
発注 岡山県
設計 岡田新一設計事務所
岡山県立美術館(JV)
<岡山県>昭和62年7月竣工
発注 岡山県
設計 岡田新一設計事務所
仙台市青年文化センター(JV)
<宮城県>平成元年11月竣工
発注 仙台市
設計 山下設計
仙台市青年文化センター(JV)
<宮城県>平成元年11月竣工
発注 仙台市
設計 山下設計

アルファリゾート・トマム

トマムは北海道のほぼ中央、日高・夕張の二大山系に囲まれた占冠村の北東部に位置し、札幌から1時間50分、千歳空港から1時間20分、東京・大阪からは3時間圏内のリゾートである。昭和58年(1983)にオープンした第1期エリアは1,000㏊で、現在、最終構想の5,000㏊を目指して5万ベッドの山岳通年リゾート構想が展開中である。

当社が携わった最初は、大規模レストハウス併設のリゾートコンドミニアム「ザ・ヴィレッジアルファ」の建設工事であったが、その後相次いで各施設の施工に当たってきた。63年には青木 功プロ監修のゴルフコース(18ホール)がオープン、同年9月には安藤忠雄氏設計の「水の教会」が竣工し、その人造湖を取り込んだランドスケープ的設計は大いに注目を集めた。

滞在施設としては先の「ザ・ヴィレッジアルファ」に続いて、62年12月に山岳リゾートホテルとしては世界一の超高層建築となった「ザ・タワーⅠ」が完成し、続いて平成元年11月に「ザ・タワーⅡ」が完成、ベッド数は6,300を超えた。ザ・タワーは2棟ほぼ同じ設計で、地下2階、地上36階、高さはともに121mの超高層である。超高層としたのは、緑地をできるだけ残そうとする構想から出たものであった。

とくにタワーⅠの工事は、-30℃にもなる1~3月の厳寒期は休止で、実質18カ月という厳しい工程であった。そこで外壁PC板を大型化してピース数を減らしたり、サッシュ・ガラスを先付けとし、コンクリート打設階より先行取付けをすることで工期短縮、冬季躯体工事の外壁養生など成果を収めた。また、折たたみ式クライミング架台を考案(特許出願)し、本体と架台の一体化によってタワークレーンのクライミング時間を短縮させた。

続いてレストランモールや公共のヘリポートが完成、さらに平成3年12月に竣工した「ヴィズ スパハウストマム」は山岳リゾートにおける快適な水辺づくりを目指したものであり、「ヴィラスポルトⅠ」は新しい宿泊施設である。いずれも当社の設計・施工(設計は前者が西条秀雄、後者が米山 隆)であったが、これからもショッピングモールやスキー場、テニスコート、各種宿泊施設の増設など工事はまだまだ続く予定である。平成3年度までの請負金総額は建築工事が358億5,760万円、土木工事が62億13万円にのぼっており、所長は建築工事が吉田俊征、土木工事は蛯名 泰から朝倉雅典に引き継がれている。なお、ザ・ビレッジアルファは62年、水の教会は平成2年BCS賞を受賞した。

アルファリゾート・トマム
<北海道>
発注 アルファ・コーポレーション
・ザ・ヴィレッジアルファ 昭和60年10月竣工
設計 観光企画設計社 工事概要 RC造、B2、10F、ほか総延2万7,802㎡、305戸
・ホテルアルファ・トマム・ザ・タワーI、Ⅱ(ⅡのみJV) 昭和62年12月竣工(ザ・タワーⅠ)、平成元年11月竣工(ザ・タワーⅡ)
設計 観光企画設計社
工事概要 ザ・タワーⅠ/S造一部SRC造およびRC造、B2、36F、延1万9,812㎡、客室403室
ザ・タワーⅡ/S造一部SRC造およびRC造、B2、36F、延2万738㎡、客室376室
・水の教会 昭和63年9月竣工
設計 安藤忠雄建築研究所
工事概要:RC造、B1、1F、延520㎡
・ゴルフコース 昭和63年8月竣工
設計 当社
工事概要 18ホール、パー73、6,850ヤード、延97万㎡、切盛土量27万5,000㎥
アルファリゾート・トマム
<北海道>
発注 アルファ・コーポレーション
・ザ・ヴィレッジアルファ 昭和60年10月竣工
設計 観光企画設計社 工事概要 RC造、B2、10F、ほか総延2万7,802㎡、305戸
・ホテルアルファ・トマム・ザ・タワーI、Ⅱ(ⅡのみJV) 昭和62年12月竣工(ザ・タワーⅠ)、平成元年11月竣工(ザ・タワーⅡ)
設計 観光企画設計社
工事概要 ザ・タワーⅠ/S造一部SRC造およびRC造、B2、36F、延1万9,812㎡、客室403室
ザ・タワーⅡ/S造一部SRC造およびRC造、B2、36F、延2万738㎡、客室376室
・水の教会 昭和63年9月竣工
設計 安藤忠雄建築研究所
工事概要:RC造、B1、1F、延520㎡
・ゴルフコース 昭和63年8月竣工
設計 当社
工事概要 18ホール、パー73、6,850ヤード、延97万㎡、切盛土量27万5,000㎥

藤沢市湘南台文化センター

神奈川県藤沢市は「子供」「地域」「対話」の三つの文化機能をもつ文化センターを計画し、設計コンペの結果、200点以上の応募作品のなかから建築計画工房(代表・長谷川逸子氏)の「地形としての建築」をテーマとした作品が選ばれ、昭和62年(1987)7月工事がスタートした。

建物は上記の三つの機能が内蔵されているため、その形状が大変複雑になっていることが特徴で、子供のための文化センターとしてはプラネタリウムや展示室があり、地域コミュニティ活動のためのワークショップ・多目的ホールや体育館があり、また観客がステージの演者と直接対話できる700席をもつ市民ホールもある。さらに設計者の「地形としての建築」というテーマにより、床面積の3分の2が地下階におさまり、地上部は直径23mの球体の地球儀と直径37mの半球ドームの宇宙儀を主体に、周辺には森をイメージした三角の小屋根を配して廻遊ギャラリーと称する散策路を設けた、きわめてユニークな設計になっている。

この難度の高い建物の施工にあたり、複雑な形状や設計のイメージを実現するため、施工図、とくに意匠詳細図を優先して設計者と検討を尽くし、さらには工程管理、安全管理、コスト面などで50件以上にものぼる重要なVE提案を行った。請負金は31億9,890万円、設備工事は別途で、所長は芦沢常男(第1期)、沢田幸男(第2期・市民ホール)であった。なお、当建物は平成4年BCS賞を受賞した。

藤沢市湘南台文化センター
<神奈川県>平成元年5月竣工(第1期)
平成2年7月竣工(第2期)
発注 藤沢市
設計 建築計画工房
工事概要 第1期/SRC造、B2、4F、延1万530㎡ 第2期/RC造およびS造、B1、3F、延3,418㎡ (左下写真は展示ホール)
藤沢市湘南台文化センター
<神奈川県>平成元年5月竣工(第1期)
平成2年7月竣工(第2期)
発注 藤沢市
設計 建築計画工房
工事概要 第1期/SRC造、B2、4F、延1万530㎡ 第2期/RC造およびS造、B1、3F、延3,418㎡ (左下写真は展示ホール)

ニッセイ総合研修所(JV)

当建物は、発展著しい千葉県浦安市に、日本生命が創業100周年記念事業として建設したもので、研修施設としては日本でも有数の規模と設備を有する。研修棟、宿泊棟、ホール棟の3棟より構成され、研修棟には中小教室群、スタジオ、コンピュータ関連諸室などがあり、宿泊棟は250室の宿泊室とともにレストラン、図書室、集会室などを収容している。

この両棟の間に最大580人収容可能な講堂、中庭、会議室などの大空間をもつホール棟が設けられ、中庭は全面開閉式トップライトで、自然採光のアトリウムとなっている。

昭和62年(1987)3月、当社(幹事会社)、東急建設、勝村建設の3社JVで工事はスタートした。外装工事では精度および耐久性向上と省力化のためタイル・サッシュ打込みPC板型枠工法を、現場手張り部分ではベースネット工法を採用した。請負金は49億7,974万円(設備工事は別途)、所長は秋田親男であった。なお、当建物は平成2年BCS賞を受賞した。

ニッセイ総合研修所(JV)
<千葉県>平成元年1月竣工
発注 日本生命
設計 久米建築事務所
工事概要 SRC造およびRC造、8F、PH付、延2万8,178㎡
(左下写真は中庭)
ニッセイ総合研修所(JV)
<千葉県>平成元年1月竣工
発注 日本生命
設計 久米建築事務所
工事概要 SRC造およびRC造、8F、PH付、延2万8,178㎡
(左下写真は中庭)

急増するオフィス需要

進む東京一極集中とインテリジェント化

昭和60年(1985)以降、東京に本社・支店等の設置を求める企業の動きがさらに活発化したことに加え、外資系企業の進出も盛んとなった。そのため東京のオフィスの空室率が極端に低下していった。商業地の地価がこのころ著しく上昇したのも、金融が緩和傾向にあったこともあるが、基本的には、こうしたオフィス床需要の増加に伴うビル用地の不足が背景にあった。

このような東京圏への集中は、国際化・情報化の進展に起因するものであり、その様相、背景ともに過去の集中とは趣を異にしていた。わが国の経済力の増大は、東京の国際的地位を飛躍的に高め、とくに金融自由化の進展のなかで、国際金融センターとしての役割が注目された。また、高度情報化の進展の一方、フェイス・ツー・フェイスの情報も逆に貴重なものとなり、政治、行政、経済、文化等あらゆる情報集積に卓越した東京の地位をさらに高める結果となった。こうして61年以降、東京は激しいビル建設ラッシュが続いた。

一方、大阪は、国際化・情報化の両面で一歩立ち遅れた感があったが、関西国際空港開港と好況を背景に、その経済力の復権を図ろうと大阪湾ベイエリア開発構想が活発化し、こちらもビル建設ラッシュとなった。

こうしたなか、高度な情報通信機能を備えたインテリジェントビルが本格化してきた。大林不動産の貸ビル、オークビルにもそうしたものが登場し、62年11月に完成したオーク江坂ビルは最先端のインテリジェントビルとして各方面から注目された。当ビルは大都市周辺や地方都市に需要が多い中規模テナントビルのインテリジェントビルのモデルとして建設されたもので、そのコンセプトは、①快適なオフィス環境の創造、②フレキシブルな建築・設備計画の構築、③効率的なオフィス運用管理システムの導入、④最新の情報通信システムの導入、⑤テナントの利便性を配慮した各種サービスの提供であった。このため、1階ファサードのポケットプラザや効果的に演出されたエントランスホール、そして4階にあるテナントが自由に利用できるロビーやラウンジなど充実したテナント共用空間が特徴で、また24時間対応の個別空調システム、余裕をもった配線システム、AIを導入したビル管理システム、東京・大阪間を結んだテレビ会議システム、専用コンピュータでのビル運用管理システムなどを装備している。

また、61年に当社が技術研究所R&Dセンターに初めて導入した免震システムがオフィスビルにも採用され、その第1号が東京・渋谷清水第1ビル(JV)であった。なお、以下は62年から平成2年にかけて竣工した当社施工の代表的なオフィスビルである。このうち、お茶の水スクエアA館(JV)(平成元年)、日本電気本社ビル(JV)(3年)、クラボウ本社ビル(JV)(3年)、アーバンネット大手町ビル(JV)(4年)はBCS賞を受賞した(カッコ内は受賞年)。

<東京>

国際日本橋ビル、主婦の友3号館(お茶の水スクエアA館)(JV)、住友芝浦ビル(JV)、東京証券取引所ビル(JV)、新日鉱ビル(JV)、赤坂1丁目センタービル(CSタワー)、興和二番町ビルディング、コリンズ23(田無)、九段センタービル(JV)、高輪コート(JV)、新宿エルタワー(JV)、大森東京海上ビルディング(JV)、YKビル、新砂ベイサイドビル(JV)、日比谷ダイビル(JV)、帝都高速度交通営団上野本社ビル(JV)、日本電気本社ビル(JV)、NTT五反田ビル(JV)、住友入船ビル、新目黒ビル・川崎邸(JV)、キヤノン下丸子本社L棟(JV)、NS高輪ビル(JV)、アーバンネット大手町ビル(JV)、中央信用金庫本社屋(JV)、品川ONビル(JV)、KDD大手町新ビル(JV)、TIS東京センタービル(増築)(JV)

<大阪>

大阪中小企業振興センター「マイドームおおさか」(JV)、太陽神戸銀行神戸本部ビル(JV)、オーク江坂ビル、クラボウ本社ビル(JV)、難波御堂筋ビルディング、備後町山口玄ビル、大阪府立労働センター南館、住友生命新大阪ビル(JV)、タナカ・イトーピア新大阪ビル、肥後橋ユニオンビル(JV)、ライカグループ本社ビル、日本火災海上大阪ビル(JV)、松下IMPビル(JV)、田村駒ビル(JV)、IBM大阪南港電算センター(JV)、小寺プラザ(JV)、毎日放送本社ビル(JV)、梅新高橋ビル(JV)、藤村大和生命ビル(JV)、大林不動産新大阪東口ビル、大阪セメント本社事務所ビル(JV)、淀屋橋高橋トッパンビル

<その他>

中電ビル本館(JV)(広島)、太陽生命岡山柳町ビル、日本銀行岡山支店営業所、元町阪神ビル(兵庫)、大同生命郡山ビル(JV)、京都野村證券ビル(JV)、第一生命日通ビル(静岡)、河北新報社本社新館(JV)(宮城)、オーク横浜ビルディング、千葉中央ツインビル(JV)、西鉄博多駅前ビル、千葉新町ビル(JV)、新潟中央銀行本店(JV)、菅井・ニッセイビル(JV)(愛媛)、横浜HSビル、日本ガイシ本社ビル(JV)(愛知)、横浜ビジネスパーク<NRIタワー、ウェストタワー、日本DEC研究開発センター、野村総合研究所横浜センター>

オーク江坂ビル
<大阪府>昭和62年11月竣工
発注 大林不動産
設計 当社
オーク江坂ビル
<大阪府>昭和62年11月竣工
発注 大林不動産
設計 当社
渋谷清水第1ビル(JV)
<東京都>昭和63年4月竣工
発注 柳水
設計 当社
渋谷清水第1ビル(JV)
<東京都>昭和63年4月竣工
発注 柳水
設計 当社
元町阪神ビル
<兵庫県>昭和62年9月竣工
発注 阪神電気鉄道、元町エステート、日本中央競馬会
設計 日本競馬施設、阪神電気鉄道
元町阪神ビル
<兵庫県>昭和62年9月竣工
発注 阪神電気鉄道、元町エステート、日本中央競馬会
設計 日本競馬施設、阪神電気鉄道
河北新報社本社新館(JV)
<宮城県>昭和63年8月竣工
発注 河北新報社
設計 日建設計
河北新報社本社新館(JV)
<宮城県>昭和63年8月竣工
発注 河北新報社
設計 日建設計
赤坂1丁目センタービル(CSタワー)
<東京都>昭和63年11月竣工
発注 森ビル
設計 入江三宅設計事務所
赤坂1丁目センタービル(CSタワー)
<東京都>昭和63年11月竣工
発注 森ビル
設計 入江三宅設計事務所
千葉中央ツインビル(JV)
<千葉県>平成元年7月竣工
発注 千葉中央地区市街地再開発組合
設計 日建設計
千葉中央ツインビル(JV)
<千葉県>平成元年7月竣工
発注 千葉中央地区市街地再開発組合
設計 日建設計
YKビル
<東京都>平成元年8月竣工
発注 山種産業、川崎不動産
設計 当社(監修:日建設計)
YKビル
<東京都>平成元年8月竣工
発注 山種産業、川崎不動産
設計 当社(監修:日建設計)
日比谷ダイビル(JV)
<東京都>平成元年9月竣工
発注 大阪建物
設計 日建設計
日比谷ダイビル(JV)
<東京都>平成元年9月竣工
発注 大阪建物
設計 日建設計
住友入船ビル
<東京都>平成2年2月竣工
発注 住友不動産
設計 当社
住友入船ビル
<東京都>平成2年2月竣工
発注 住友不動産
設計 当社
アーバンネット大手町ビル(JV)
<東京都>平成2年6月竣工
発注 エヌ・ティ・ティ都市開発
設計 エヌ・ティ・ティ都市開発
アーバンネット大手町ビル(JV)
<東京都>平成2年6月竣工
発注 エヌ・ティ・ティ都市開発
設計 エヌ・ティ・ティ都市開発
TIS東京センタービル(増築)(JV)
<東京都>平成2年12月竣工
発注 東信地所、東洋情報システム
設計 当社
TIS東京センタービル(増築)(JV)
<東京都>平成2年12月竣工
発注 東信地所、東洋情報システム
設計 当社

日本電気本社ビル(JV)

日本電気発祥の地、東京都港区三田に創業90周年の記念事業として本社ビルが建て替えられることとなり、昭和61年(1986)7月、旧社屋の解体工事に着手、11月新本社建設工事がスタートした。施工は当社と鹿島建設のJVである。

建物は高さ180m、延14万5,100㎡の超高層ビルながら、従来の箱型ビルと異なり、上にいくにしたがって3段階で細くなるスペースシャトル形のシルエットをもち、いかにも技術の最先端をいく企業の本社ビル、21世紀を指向する企業にふさわしいものとなっている。この形は、地上50mの高さに設けられた風抜き穴との相乗効果により、周辺地域のビル風の影響を最小限にとどめる役目を果たしている。

低層部では30m四方、高さ50mのアトリウムを12層のオフィスフロアが囲んでおり、このアトリウムは巨大な玄関ホールを形成すると同時に、外部の展望が得られない低層オフィス階の視覚的アメニティを高めている。

施工にあたり、地下掘削では130m四方を九つの工区に分け、高層直下部の掘削をアースアンカー支保工で先行し、外周地下部は高層部の地下躯体が完成後それに反力をとった切梁支保工を採用して掘削した。これは工程上の問題、さらには周辺道路へのアンカー設置不可能という条件を考慮してのことであった。

また、当建物は地上階荷重を16本の柱で支える構造となっているため、鉄骨柱の断面は1m×1mのH型で、板厚10㎝と日本では最大級のものとなり、1/2模型の破壊実験を行って慎重に強度確認したうえで施工した。請負金は169億123万円、所長は大川輝夫であった。なお、当ビルは平成3年BCS賞を受賞した。

日本電気本社ビル(JV)
<東京都>平成2年1月竣工
発注 日本電気
設計 日建設計
工事概要 S造一部SRC造およびRC造、B4、43F、延14万5,100㎡
日本電気本社ビル(JV)
<東京都>平成2年1月竣工
発注 日本電気
設計 日建設計
工事概要 S造一部SRC造およびRC造、B4、43F、延14万5,100㎡

住友生命新大阪ビル(JV)

新大阪駅前に建つ当ビルは、高さ88m、延6万1,707㎡で、高層部には客室数491室の新大阪ワシントンホテルがキーテナントとして入居している。テナントはほかにプールやゴルフ練習場をもつフィットネスクラブ、教育産業、JR東海、半導体産業など30数社に及び、いわば複合ビルとなっている。

高層部は平面菱形で、1階から最上階まで中央に吹抜けと光庭をもち、低層部は敷地形状にあわせて将棋の駒のような変形五角形となっている。このため施工に際しては、通り芯が輻輳して墨出しが困難を極め、さらに鉄骨・鉄筋工事も大変複雑なものとなった。

当ビルはインテリジェントビルとして計画されたが、テナント各社とも予想以上にコンピュータ使用台数が多く、内装工事段階で電気容量や回線が不足することが判明し、大幅な設計変更を実施した。施工は当社(幹事会社)と鴻池組のJVであり、請負金は103億7,235万円、所長は浅田忠雄であった。

住友生命新大阪ビル(JV)
<大阪府>平成元年6月竣工
発注 住友生命
設計 日建設計
工事概要 SRC造、B1、23F、PH付、延6万1,707㎡
住友生命新大阪ビル(JV)
<大阪府>平成元年6月竣工
発注 住友生命
設計 日建設計
工事概要 SRC造、B1、23F、PH付、延6万1,707㎡

キヤノン下丸子本社L棟(JV)

同社は、カメラを主体とした事業領域からOA機器に主力を移し、いまや事務機器の分野でも世界のトップ企業となった。その成長を支えてきたのが下丸子本社の技術開発部門である。こうした発展に伴い古い各棟を解体し、相次いで新棟に建て替えてきたが、当社はそのほとんどを担当、昭和57年(1982)~60年にD・E・C棟を設計・施工で受注し、さらに平成元年4月、L棟を当社(幹事会社)とフジタ工業のJVで着手した。

L棟はS造、5階建で、70m四方の真四角なビルである。工期が1年と短かったが、平面プランがシンプルなため躯体工事は順調に進んだ。しかし仕上げ工事では、入居部門、入居人員、各室仕様・設備など当初計画が大幅に変わり、厳しい工程となった。それは技術の著しい進歩によるもので、研究テーマは日進月歩であり、技術開発部門は各分野ごとに特殊な装置をもち、使い勝手もそれぞれに異なり、さらには着工時に下丸子本社には約3,000名といわれた研究開発スタッフが竣工時には約4,000名に増えたためであった。こうした竣工直前のあわただしさも無事乗り越え、工事は平成2年4月完了した。L棟の請負金は52億8,427万円、所長は長澤吉男であった。

なお、平成4年現在、このL棟にちょうど倍する延5万㎡のA棟を、同JV(当社が幹事会社)で施工中(請負金157億5,308万円)である。

キヤノン下丸子本社L棟(JV)
<東京都>平成2年4月竣工
発注 キヤノン
設計 日建設計
工事概要 S造、5F、PH2F、延2万4,833㎡
キヤノン下丸子本社L棟(JV)
<東京都>平成2年4月竣工
発注 キヤノン
設計 日建設計
工事概要 S造、5F、PH2F、延2万4,833㎡

品川ONビル(JV)

当ビルは、小野田セメント生コン工場跡地の再開発ビルとして計画され、閑静な住宅地の南側に高さ93mの超高層ビルを建設するものであった。当社設計で、施工は当社(幹事会社)と三井建設、西松建設、佐藤工業、日本国土開発の5社JVが当たった。

外観は、設計テーマ「クリスタルカットの煌き」を表現して反射率の異なる2種の高性能熱線反射ガラスを使用しており、オフィスフロアは各種OA、BAを導入したインテリジェントビルを実現している。さらに、1日約100tの水を再利用する中水処理施設を完備し、わが国ではまだ珍しい特別避難階段付室加圧防排煙システムも導入している。

施工にあたっては、地下掘削の土留め・止水にOWS工法によるSG-H工法を使用し、作業員不足の折、工事の省力化を図るため大型型枠パネルの採用や高所作業車の積極的導入を行った。

また、加圧防排煙システムの導入は防災上の安全性を高めるとともに、原設計における耐圧盤下の給気トレンチを不要とし、工期の短縮にもつながった。

平成2年(1990)11月予定どおり竣工し、全館ソニーがテナントとして入居した。請負金は75億4,544万円、所長は佐々木良治、設計は小林照雄であった。

品川ONビル(JV)
<東京都>平成2年11月竣工
発注 小野田セメント
設計 当社
工事概要 S造およびSRC造、B2、22F、PH付、延3万3,846㎡
品川ONビル(JV)
<東京都>平成2年11月竣工
発注 小野田セメント
設計 当社
工事概要 S造およびSRC造、B2、22F、PH付、延3万3,846㎡

日本火災海上大阪ビル(JV)

大阪地下鉄肥後橋駅に隣接する旧ビルは、当社が大正11年(1922)、同社の本社ビルとして建設したものであった。以来60有余年、そのネオルネサンス様式の堂々たる姿は大阪市民に長く親しまれてきたが、同社創業100周年を迎えるにあたり建て替えられることとなった。

同敷地内にはこの旧本社ビルのほかに数棟の事務所、商店があり、これらを敷地一部に建設した別館に移転後解体、昭和62年7月新築工事はスタートした。施工は、当社(幹事会社)、熊谷組、清水建設、前田建設工業、東急建設、フジタ工業の6社JVが当たった。地下工事では、軟弱地盤のうえ地下水位が高いため深さ40mまでOWS壁を構築し、逆打ち工法を採用した。当ビルは地下3階、地上19階のインテリジェントビルで、うち日本火災海上が2~7階に入居し、ほかは店舗、大会議室、貸オフィスとなっている。請負金は57億8,726万円、ほかに解体工事や別館工事など当社単独分が11億9,456万円で、所長は西川弘美であった。

日本火災海上大阪ビル(JV)
<大阪府>平成2年2月竣工
発注 日本火災海上
設計 日建設計
工事概要 SRC造およびS造、B3、19F、PH付、延3万4,521㎡
日本火災海上大阪ビル(JV)
<大阪府>平成2年2月竣工
発注 日本火災海上
設計 日建設計
工事概要 SRC造およびS造、B3、19F、PH付、延3万4,521㎡

ポストモダンの流れと海外アーキテクトの作品群

ポストモダンとは一般的には脱「近代」的な動向を指すが、建築においては「近代建築」を乗り越えようとする新しい傾向をいう。1970年代半ばに英国の建築評論家チャールズ・ジェンクス氏が論じ始めたもので、モダニズムの機能本位の合理性を否定し、感性の自由な表現や遊びをもちこみ、過去の建築様式を折衷したり、通俗的な要素や商業的なスタイルを取り入れた混成的な傾向が強いといわれている。素材と色彩の思い切った活用やユーモラスな比喩的表現が目立つのも特徴である。

日本でのその旗手といわれたのが磯崎 新氏であるが、氏は国内外にその作品を精力的に残しており、当社の施工作品のなかにもこのころ西脇市岡之山美術館や主婦の友3号館(お茶の水スクエアA館)(JV)など氏の設計したものがいくつかある。また、創造集団スタジオ企画、若林広幸氏設計のシルバーマンション、ライフ・イン京都(JV)、原 広司氏のヤマトインターナショナル東京支店(JV)にもそうした傾向を読みとることができる。昭和60年代になると、モダニズムへの批判を真摯に受け止めた独自の活動として、篠原一男氏の東京工業大学百年記念館(JV)、安藤忠雄氏の六甲オリエンタルホテル・チャペル、アルファリゾート・トマム水の教会(平成2年BCS賞受賞)、COLLEZIONE、ライカグループ本社ビル、長谷川逸子氏の藤沢市湘南台文化センター、六角鬼丈氏の東京武道館(JV)等の“ポストモダン以降”を目指した新たな潮流の作品群が生まれ、建築デザイン界はますます多様な様相をみせている。

一方では、いわゆる建築ラッシュのわが国で、日本人とは異なる独自の感性を求められて海外アーキテクトが建築・内装の設計で活躍し始めた。巨大な火の玉を屋上に置いて驚かせたフィリップ・スタルク氏(仏)のスーパードライホール(アサヒビール吾妻橋ホール)(JV)やノーマン・フォスター氏(英)の設計で当社の設計本部ほかが現在入居しているセンチュリータワー、マリオ・ベリーニ氏(伊)が設計に参加した横浜ビジネスパーク、同氏設計の東京デザインセンター(平成4年2月竣工)がその代表であり、さらにレンゾ・ピアノ氏(伊)設計で現在施工中の関西国際空港旅客ターミナルビル(当社JVは北工区)などがある。

東京工業大学百年記念館(JV)
<東京都>昭和62年9月竣工
発注 東京工業大学創立百年記念事業資金募金会
設計 篠原一男(意匠設計)、木村俊彦構造設計事務所、東京工業大学和田章研究室(以上構造設計)、環境エンジニアリング(設備設計)
東京工業大学百年記念館(JV)
<東京都>昭和62年9月竣工
発注 東京工業大学創立百年記念事業資金募金会
設計 篠原一男(意匠設計)、木村俊彦構造設計事務所、東京工業大学和田章研究室(以上構造設計)、環境エンジニアリング(設備設計)
COLLEZIONE
<東京都>平成元年9月竣工
発注 富士プロジェクト
設計 安藤忠雄建築研究所
COLLEZIONE
<東京都>平成元年9月竣工
発注 富士プロジェクト
設計 安藤忠雄建築研究所
東京武道館(JV)
<東京都>平成元年12月竣工
発注 東京都
設計 東京都、六角鬼丈計画工房
東京武道館(JV)
<東京都>平成元年12月竣工
発注 東京都
設計 東京都、六角鬼丈計画工房

ヤマトインターナショナル東京支店(JV)

東京湾岸埋立地・平和島の倉庫街にこの建物が出現したときには、建築関係者ばかりか世間も驚嘆したほどそのインパクトは大きかった。関西のアパレルメーカー・ヤマトインターナショナルのねらいである東京市場への浸透と知名度アップの願いが建物にも込められている。多様な形、輻輳した輪郭、さまざまに輝きを変える外観、ちょっと言葉で言い表せないほど変わった建物である。

外装材の多彩さは目を見張るものがあり、アルミパネル、タイル、石、打放しコンクリートとさまざまな材料を微妙に異なる色で使い分け、また壁の凹凸も不定形で、統一されたパターンがない。この複雑さと変則性は建物内部にまで及び、スチールやガラスが不定形にちりばめられ、一つとして同じものがないインテリア空間となってる。

設計はポストモダンの旗手の一人とされる原 広司氏で、不思議なこのカタチについて、「問うな、あるがままを見よ」との答えがあったというが、その設計は複雑かつ変則的なうえに、途中、氏によって自由奔放に展開されるため、現場は常に時間がない状況下で施工を行った。エッチングガラス、手摺、天井などすみずみまで施された氏のデザインはすべて原寸図を起こしては確認するため、通常の3~5倍の手間がかかっている。

いわゆる施工者泣かせの建物であったが、「施工者はこうした複雑さを迎え撃った感があり、その実力には敬意を払うばかりだ」との氏の言葉が伝えられているように、現場は設計意図に十分応えて、昭和62年(1987)1月工事は完成した。

施工は当社(幹事会社)、清水建設、野村建設工業の3社JVで、請負金は22億7,500万円、所長は釜洞正宏であった。なお、当建物は63年BCS賞を受賞した。

ヤマトインターナショナル東京支店(JV)
<東京都>昭和62年1月竣工
発注 ヤマトインターナショナル
設計 原 広司、アトリエ・ファイ建築研究所
工事概要 SRC造一部RC造、9F、PH付、延1万2,074㎡ (左下写真は6階ショールーム)
ヤマトインターナショナル東京支店(JV)
<東京都>昭和62年1月竣工
発注 ヤマトインターナショナル
設計 原 広司、アトリエ・ファイ建築研究所
工事概要 SRC造一部RC造、9F、PH付、延1万2,074㎡ (左下写真は6階ショールーム)

主婦の友3号館(お茶の水スクエアA舘)(JV)

旧主婦の友社ビルは、内庭を囲み、二つの建物がコの字形につながっており、その南側A棟はW.M.ヴォーリズ氏の設計で大正14年(1925)に当社施工、北側B棟は昭和13年にヴォーリズの設計にならって当社の設計によって増築したものであった。ともに外壁の腰回りには日華石、上部はスタッコ調仕上げで大正モダニズムの香りを漂わせた建物であった。当初この建替計画で、設計者の磯崎新氏は既存建物の外壁一部を保存する計画であったが、建物解体中に耐力不足が判明し、急遽外壁保存から外壁復元へと方針が変更となった。

こうして駿河台の坂道に面して立つ2棟の低層部の外壁には、旧建物の正面柱飾りと窓上の彫刻をテラコッタで、その他のパラペットや帯状の壁模様はGRCを用いて復元した。これらレリーフの復元では、正面の柱飾りとパラペットの型取りにシリコンゴムを用い、それ以外はスケッチと実測によって起こすという手間をかけた。

評判となった外壁復元とともに、当工事では、施工中、自動昇降足場と内部吊り足場で工夫が行われたのも注目された。自動昇降足場は、高層ビルの施工時に、2層分の足場を型枠とともに上昇させながら躯体工事を行い、躯体完了後下降させながら仕上げを行うもので、装置が小さく経済性と安全性をねらったものであった。

62年9月、復元保存の旧社屋の上層に大きくセットバックして13階のオフィス棟が建ち上がり、その後方にカザルスホールを配した「お茶の水スクエアA館」が完成した。ちなみにカザルスホールはシューボックスタイプの室内楽専用のホールで、主席427、バルコニー席84を有し、意匠と音響が合致した密度の高い繊細な空間と評判が高い。このほか、イベント用マルチスペースを意図したエントランスホール「アートプラザ」、旧社屋のレクチャールームをそのまま転用した音楽会・講演会用スペース「ヴォーリズホール」、会議・パーティスペースや商業施設などもあり、情報と文化のキーステーションを目指した新しい機能を盛り込んでいる。請負金は61億8,254万円、施工は当社(幹事会社)と日本国土開発のJVで、所長は佐々木良治であった。なお、当ビルは平成元年BCS賞を受賞した。

主婦の友3号館(お茶の水スクエアA館)(JV)
<東京都>昭和62年9月竣工
発注 主婦の友不動産
設計 磯崎新アトリエ
工事概要 SRC造、B3、13F、延2万2,232㎡ (左下写真はカザルスホール)
主婦の友3号館(お茶の水スクエアA館)(JV)
<東京都>昭和62年9月竣工
発注 主婦の友不動産
設計 磯崎新アトリエ
工事概要 SRC造、B3、13F、延2万2,232㎡ (左下写真はカザルスホール)

アサヒビール吾妻橋ビル・スーパードライホール(JV)

当ビル群はアサヒビール旧吾妻橋工場の跡地開発「リバーピア吾妻橋」の一角に計画されたもので、このうち本部ビル(アサヒビール吾妻橋ビル)は、躯体・外装工事を当社、熊谷組、前田建設工業、鴻池組、新井組の5社JV、内装・設備工事を同じ5社JVながら当社を幹事会社として、昭和62年(1987)12月着工した。

続いて63年7月、フィリップ・スタルク氏の設計になるスーパードライホール(アサヒビール吾妻橋ホール)が当社(幹事会社)、鹿島建設、東武谷内田の3社JVで着工した。二つの工程の違う現場の資機材搬出入路は1カ所しかなく、また目の前を流れる隅田川のスーパー堤防事業の関連で1階の床が道路面より4m高くなっているなどで工事用桟橋部分の躯体工事が竣工まぎわまでできず、水平・垂直・段違い工程管理ともいう考え方でこれに当たった。

ホール棟の工事では、ホール四周の屋外階段に用いたガラスブロックと下地鋳鉄材および照明方法の開発、4階多目的ホールに1,000㎡ある鉛壁での世界初の溶射技術(金属を高温で溶かして吹き付けて研磨する)、さらに屋上に取り付けた重さ360t、長さ43m×最大直径13mの鉄板製の巨大な金色のオブジェの制作・取付け方法など、設計者の新しい試みにどう応えるか模索の連続であった。このほかにも、切れば自動的にペーパーが30㎝送り出され、しかもそれが風になびくトイレットペーパーホルダー(実用新案3件申請中)や鉛板を床に使用するなど難問が相次いだ。そうしたなかで鉄骨建方での床デッキプレートの同時施工や、ホール棟とオブジェをすっぽり覆うユニット足場の開発など安全施工に注意を払い、両棟とも全工期無事故無災害で平成元年10月竣工した。請負金は両棟合計で82億11万円、所長は高橋仁一であった。なお、竣工後、当社単独で未着工部分の本部ビル22階の店舗・ゲストルームの内装工事など約12億円の追加工事を行い、これも3年4月完成した。

アサヒビール吾妻橋ビル・スーパードライホール(JV)
<東京都>平成元年10月竣工 ・吾妻橋ビル
発注 アサヒビール(内装・設備)、住宅・都市整備公団(躯体・外装)
設計 日建設計
工事概要 S造およびSRC造一部RC造、B2、22F、PH付、延3万4,650㎡
・スーパードライホール
発注 アサヒビール
設計 フィリップ・スタルク、GETT(グローバル・エンバイロメント・シンク・タンク)
工事概要 S造およびSRC造、B1、5F、PH2F、延6,004㎡ (左下写真はスーパードライホールのビアホール)
アサヒビール吾妻橋ビル・スーパードライホール(JV)
<東京都>平成元年10月竣工 ・吾妻橋ビル
発注 アサヒビール(内装・設備)、住宅・都市整備公団(躯体・外装)
設計 日建設計
工事概要 S造およびSRC造一部RC造、B2、22F、PH付、延3万4,650㎡
・スーパードライホール
発注 アサヒビール
設計 フィリップ・スタルク、GETT(グローバル・エンバイロメント・シンク・タンク)
工事概要 S造およびSRC造、B1、5F、PH2F、延6,004㎡ (左下写真はスーパードライホールのビアホール)

センチュリータワー

東京・お茶の水に建つセンチュリータワーは、旺文社がグループ全体のシンボルとなるようにと、日本学生会館(大正14年当社が施工した日本初のRC造集合住宅“文化普及会文化アパート”)跡地に建設したインテリジェント・オフィスビルである。設計は香港上海銀行などの先鋭的なデザインで知られる英国の建築家、ノーマン・フォスター氏。これが氏の日本で初めてのプロジェクトであった。設計にあたっては当社の設計陣がパートナーとして加わり、法規制や技術面でのバックアップを行うとともに、構造、設備の実施設計を担当した。

建物はツインタワーで構成され、地下2階から19階床まで吹き抜けるアトリウムでこの2棟を結んでいる。そして2層分を一単位とした柱・梁・偏心ブレースからなる構造で、偶数階は吊り床構造になっている。この構造体をそのまま露出させた大胆なデザインは当ビルの外観の特徴となっているとともに、内部にはダイナミックに演出された無柱空間を生み出している。

また、中央アトリウムは延焼防止計画および煙制御計画に関して建築基準法第38条の規定による認定を受ける必要があり、模型を使ってオープン・アトリウムの防災対策の研究を重ね、日本初のビル全体を含む加圧防排煙システムを採用した。この空間にはまた各階ドレンチャー設備もあわせもち、水のカーテンの実証もみごと成功を収めた。

施工においては、高層棟のOWS杭で最大断面2m×8.6mの巨大な杭を地下41.5mまで17本施工したこと、外周およびアトリウム面の鉄骨にあらかじめ耐火被覆をしてその建方を行ったこと、複雑な形状に対し仮設設備の充実を図ったことなどが特筆される。こうして138万時間無事故無災害を達成し、平成3年労働大臣優良賞を受賞した。

このプロジェクトの計画から完成まで当社のまとめ役となった後藤千秋取締役は、「理想に燃える施主とすぐれた設計者と当社の多くの部門を動員したチームワークの総力が、この作品を結実させた」と語り、また設計リーダーを務めた佐藤親英部長は、「目指すものについて妥協せず、それでいて施主の意向にも真摯な立場で取り組むフォスター氏の熱意には学ぶべき点が多かった」とその感想を語った。

一方、フォスター氏は「日本では前例のない幾多の革新的提案を実現に結びつけるため、大林組の皆さんは、長期にわたり熱心な折衝、打合せを積み重ね、技術的な側面においても多大な力添えをしてくれました。こうしたことがあってこそ私どものデザインが実現したのだと思います」と述べた。とかくトラブルの起きやすい外国人アーキテクトとの諸問題をスムーズに克服し、「設計者のデザインを忠実に実現させることに挑戦した」(所長談)工事は、平成3年3月予定どおり完成した。

請負金は207億4,323万円、所長は石塚計志であった。なお、当建物は平成4年BCS賞を受賞した。

センチュリータワー
<東京都>平成3年3月竣工
発注 センチュリータワー
設計 フォスターアソシエイツ、当社
工事概要 S造およびSRC造一部RC造、B3、21F、延2万6,471㎡ (左下写真はオフィススペース)
センチュリータワー
<東京都>平成3年3月竣工
発注 センチュリータワー
設計 フォスターアソシエイツ、当社
工事概要 S造およびSRC造一部RC造、B3、21F、延2万6,471㎡ (左下写真はオフィススペース)

変貌を続ける都市

都市圏の大規模な開発・再開発

近年、大都市における大規模開発が話題を呼んでいるが、都市圏におけるこうした大規模開発は、開発地をどこに求めるかによって、ウォーターフロント型と再開発型とに大別できる。前者では、当社は神戸ポートアイランドや六甲アイランド、大阪南港、幕張新都心、MM21(横浜みなとみらい21)、福岡シーサイドももちなどで多くの工事に携わった。後者では、古くは東京・新宿副都心などがあるが、YBP(横浜ビジネスパーク)やOBP(大阪ビジネスパーク)がその代表例で、YBPでは当社がその開発段階から参画し、OBPでもいくつかのビルを施工した。

ウォーターフロント型の大規模開発の特徴は、広大な土地を“面”として開発できるという点で、そこでは開発の主体(多くの場合は地方公共団体)が中心となって、オフィス、商業施設、コンベンションセンター、住宅など総合的な都市づくりが可能なことである。

一方、再開発型では、敷地の状況によってその開発形態、規模ともに多様なものとなる。都市圏での比較的まとまった土地としては、工場、鉄道関連施設、倉庫群などの移転跡地が考えられる。こうした例は数多く、石川島播磨重工業造船所跡地の「大川端リバーシティ21」やアサヒビール吾妻橋工場跡地の「リバーピア吾妻橋」、公務員宿舎跡地を第3セクターで開発した民活第1号事業であった「SNT団地(西戸山タワーガーデン)」やJR淀川貨物駅跡地の「桜宮リバーシティ」も、当社が携わったその代表的な事例である。

横浜ビジネスパーク(YBP)

当プロジェクトについては本文710、711ページに述べられているが、この巨大な事業で当社は、昭和63年(1988)1月にNRIタワー、ウェストタワー、地下駐車場、地域冷暖房センターの工事から着手した。

最初に着工したNRIタワー、ウェストタワーにイーストタワー(他社施工)を加えた3棟は「野村タワーズ」と総称され、3棟とも重量感のある花崗石と低反射ガラスの横連窓を美しく組み合わせた外観を基本とし、そのなかでもNRIタワーは高さ100mでYBPのシンボル的建物となっている。また、これらビルに導入されたシステムには、ビル群管理システム、地域冷暖房(横浜市第1号)、インテリジェント防災・消火システム、衛星通信利用システム、敷地内携帯無線システム、免震床、多分割空調システムなどがあり、続いて着工した他棟とともに、最新鋭のインテリジェントビルとなっている。

YBPはその開発規模の大きさ、先進的な施設、充実した設備ばかりでなく、インテリアやランドスケープ、色彩計画などの分野でも国内外の一流デザイナーを起用してユニークな魅力ある空間を創り出している。その中心となる公共広場・横浜ガレリアの中のエントランスホール・ベリーニの丘や野村タワーズのホール等は、イタリアの著名なデザイナー、マリオ・ベリーニ氏が担当した。

続いてコンピュータセンターである野村総合研究所横浜センターや研究関発センターである日本DEC研究開発センター、レストランコート・プレッツォが完成し、オムロン横浜研究所(JV)と野村證券横浜研修センター(他社施工)、ソニー中央研究所(他社施工)が、その後相次いで完成した。

工事に際しては、多数の建物をほぼ同時期に施工したため、それらの工程調整には多大な努力を要した。また、ちょうど景気が上昇し始め、労働力不足が激化するころであったため、省力化工法にも力を注いで施工に当たった。

請負金は平成3年2月末までで573億6,185万円、所長は本間光男、設計は鈴木征四郎であった。今後、ホテルや商業棟の増築が予定されており、それらをもって当YBPの巨大事業はすべて完了する。なお、当プロジェクトは平成4年BCS賞特別賞ほか多数の賞を受賞している。

横浜ビジネスパーク建物配置図
横浜ビジネスパーク建物配置図
横浜ビジネスパーク(YBP)
<神奈川県>
・野村タワーズ・NRIタワー 平成元年12月竣工
発注 野村不動産
設計 横浜ビジネスパーク設計室(野村不動産・当社)
工事概要 S造、B2、21F、PH付、延5万1,117㎡
・野村タワーズ・ウェストタワー 平成元年12月竣工
発注 野村不動産
設計 横浜ビジネスパーク設計室
工事概要 S造、B2、12F、PH付、延3万2,175㎡
・エントランスホール・ベリーニの丘 平成2年10月竣工
発注 野村不動産
設計 マリオ・ベリーニ、横浜ビジネスパーク設計室
工事概要 RC造、延1,018㎡
・日本DEC研究開発センター 平成元年12月竣工
発注 野村不動産
設計 横浜ビジネスパーク設計室
工事概要 S造、B1、5F、PH付、延2,037㎡
・野村総合研究所横浜センター 平成2年5月竣工
発注 野村総合研究所
設計 横浜ビジネスパーク設計室
工事概要 S造一部SRC造、B1、6F、延2万481㎡
・オムロン横浜研究所(JV) 平成3年2月竣工
発注 野村不動産
設計 横浜ビジネスパーク設計室
工事概要 S造、B1、5F、PH付、延1万264㎡
・レストランコート・プレッツォ 平成2年4月竣工
発注 野村不動産
設計 横浜ビジネスパーク設計室
工事概要 S造、B1、5F、PH付、延6,661㎡
・地下駐車場 平成元年12月竣工
発注 野村不動産
設計 横浜ビジネスパーク設計室
工事概要 S造一部SRC造、延1万4,976㎡
・地域冷暖房センター 平成元年12月竣工
発注 野村不動産
設計 横浜ビジネスパーク設計室
工事概要 S造一部SRC造、B2、2F、PH付、延1万4,976㎡
横浜ビジネスパーク(YBP)
<神奈川県>
・野村タワーズ・NRIタワー 平成元年12月竣工
発注 野村不動産
設計 横浜ビジネスパーク設計室(野村不動産・当社)
工事概要 S造、B2、21F、PH付、延5万1,117㎡
・野村タワーズ・ウェストタワー 平成元年12月竣工
発注 野村不動産
設計 横浜ビジネスパーク設計室
工事概要 S造、B2、12F、PH付、延3万2,175㎡
・エントランスホール・ベリーニの丘 平成2年10月竣工
発注 野村不動産
設計 マリオ・ベリーニ、横浜ビジネスパーク設計室
工事概要 RC造、延1,018㎡
・日本DEC研究開発センター 平成元年12月竣工
発注 野村不動産
設計 横浜ビジネスパーク設計室
工事概要 S造、B1、5F、PH付、延2,037㎡
・野村総合研究所横浜センター 平成2年5月竣工
発注 野村総合研究所
設計 横浜ビジネスパーク設計室
工事概要 S造一部SRC造、B1、6F、延2万481㎡
・オムロン横浜研究所(JV) 平成3年2月竣工
発注 野村不動産
設計 横浜ビジネスパーク設計室
工事概要 S造、B1、5F、PH付、延1万264㎡
・レストランコート・プレッツォ 平成2年4月竣工
発注 野村不動産
設計 横浜ビジネスパーク設計室
工事概要 S造、B1、5F、PH付、延6,661㎡
・地下駐車場 平成元年12月竣工
発注 野村不動産
設計 横浜ビジネスパーク設計室
工事概要 S造一部SRC造、延1万4,976㎡
・地域冷暖房センター 平成元年12月竣工
発注 野村不動産
設計 横浜ビジネスパーク設計室
工事概要 S造一部SRC造、B2、2F、PH付、延1万4,976㎡

大阪南港地区(コスモスクエア)開発

当社は同地区で、まず昭和60年(1985)にインテックス大阪(JV)を施工した。続いて平成元年にライカグループ本社ビル、2年にIBM大阪南港電算センター(JV)、ミツトヨ大阪営業センターを、3年に住友生命情報通信センター(JV)を施工し、ミズノ大阪本社ビル(JV)、野村総合研究所大阪センター(JV)、トステム大阪ビル(JV)を4年に完成させた。大阪ワールドトレードセンタービルディング(JV)、アジア太平洋トレードセンター(その2)(JV)は3年に着工し、ハイアット・リージェンシー・オーサカの工事にも4年早々に着手、現在鋭意施工中である(715、888~892ページ参照)。

このうち、インテックス大阪についてはすでに述べたが、ライカグループ本社ビルは安藤忠雄氏の設計で注目された建物であった。

当ビルは、大きく三つの建物から構成され、2棟よりなる本棟はオフィスを中心に展示場などがある棟と、研修施設、倉庫、駐車場のある棟に分かれている。そしてもう1棟の別棟にはギャラリーとレストランがあり、本棟と4階に取り付けられた長さ80mに及ぶ渡り廊下で結ばれている。本棟のエントランスロビーはパンテオンに擬した直径40m、高さ22mの6層吹抜け円筒(これは古代ローマの神殿パンテオンと同じ大きさ)で、その下層はコンクリート化粧打放し、上層はガラスブロックパネルのカーテンウォールで巨大な光の筒となっている。2階エントランスロビーから3階さらに5階へとその内部を円弧に沿ってスロープがめぐっている。

氏の設計になる建物はコンクリート化粧打放し仕上げが多いが、当建物も型枠総面積15万1,000㎡のうち40%が打放しである。しかも筆舌に尽くしがたい複雑な形状、繊細なディテールを要求されるため、熟練労務者が不足がちな状況下で、この広い面積のコンクリート打放しをムラなく均一に仕上げるのは大変困難であった。また、円筒部のガラスブロックパネルは1ピースが円弧をもった幅4m×高さ2.6mの巨大なもので、性能テストを繰り返してその安全性を確認し施工に当たった。請負金は107億1,038万円、所長は内藤晴道であった。

当工事のさなか、63年6月に当ビルの東側隣地でIBM大阪南港電算センターの工事が当社(幹事会社)と前田建設工業のJVでスタートした。当電算センターは同社が川崎電算センターに次いで第2電算センターとして建設したもので、川崎のバックアップ機能をもち、遠隔操作でオペレーションできる無人型電算センターである。また、2万8,600㎡の敷地に、排水、散水、照明、舗装および植栽1万3,000本と大規模な外構工事を行ったのも特徴であった。請負金は41億3,237万円(設備工事は別途)、所長は吉田喜代司であった。

ライカグループ本社ビル
<大阪府>平成元年12月竣工
発注 ライカビル
設計 安藤忠雄建築研究所
工事概要 SRC造一部RC造、B1、7F、延3万9,211㎡ (左下写真は本棟エントランスロビー)
ライカグループ本社ビル
<大阪府>平成元年12月竣工
発注 ライカビル
設計 安藤忠雄建築研究所
工事概要 SRC造一部RC造、B1、7F、延3万9,211㎡ (左下写真は本棟エントランスロビー)
IBM大阪南港電算センター(JV)
<大阪府>平成2年2月竣工
発注 日本アイ・ビー・エム
設計 安井建築設計事務所 工事概要 SRC造、7F、延2万8,269㎡
IBM大阪南港電算センター(JV)
<大阪府>平成2年2月竣工
発注 日本アイ・ビー・エム
設計 安井建築設計事務所 工事概要 SRC造、7F、延2万8,269㎡

新しい原子力発電所

昭和55年(1980)は、日本で最初の商業用原子炉が運転を開始してからちょうど15年目であった。この間、当社は、右表のように原子力発電所の施工実績を着実に伸ばしてきた。

こうしたなかで、日本原子力発電敦賀発電所2号機では日本初のPCCV(プレストレストコンクリート製原子炉格納容器)を施工し、また、ウラン資源を有効利用できる高速増殖炉の原型炉である、もんじゅの工事も動力炉・核燃料開発事業団から受注した。

世界では、55年に250基近くの発電用原子炉が動いており、発電能力も約1億㎾に達し、日本でも原子力の発電能力は50年527万㎾、55年1,495万㎾、60年2,363万㎾と拡大を続けていた。しかし、1979年(昭和54)の米国のスリーマイル島事故、1986年のソ連のチェルノブイリ事故などが原子力発電所の建設に少なからず影響を与えた。

一方、核燃料サイクルを国内で完結させるため、青森県下北半島の六ケ所村でウラン濃縮工場や再処理工場を建設するという国家的事業が開始されたが、この両施設の建設工事にも当社は携わっている。また、西暦2000年ころから徐々に商業用原子炉の廃炉が現実化することが見込まれており、これに先立ち日本原子力研究所の動力試験炉の解体撤去実験が61年12月から始まり、当社もこれに参加している。

関西電力高浜発電所3・4号機本館(JV)
<福井県>昭和59年10月竣工
発注 関西電力
設計 当社、関西電力、竹中工務店、三菱原子力工業、三菱重工業
関西電力高浜発電所3・4号機本館(JV)
<福井県>昭和59年10月竣工
発注 関西電力
設計 当社、関西電力、竹中工務店、三菱原子力工業、三菱重工業
六ケ所ウラン濃縮工場第1期(JV)
<青森県>平成2年7月竣工
発注 日本原燃産業
設計 鹿島建設
六ケ所ウラン濃縮工場第1期(JV)
<青森県>平成2年7月竣工
発注 日本原燃産業
設計 鹿島建設

日本原子力発電敦賀発電所2号機本館建屋・サービス建屋(JV)

敦賀発電所2号機は、福井県若狭湾に突き出た敦賀半島の先端東側に、加圧水型ではわが国初の110万㎾級国産改良標準化プラントとして建設された。このプラントには、これまで鋼製であった原子炉格納容器に代わって、日本で初めてプレストレストコンクリート製原子炉格納容器(PCCV)が採用された。PCCVは、円筒の上に半球ドームがのった形の、内径43m、高さ64.5mという巨大なPC構造物で、わが国の建設技術で対応するため事前に多くの検討が必要であった。このため昭和52年(1977)7月、日本原子力発電より当社(幹事会社)、清水建設、竹中工務店の3社JVは事前検討の依頼を受け、東京本社に「GT‐2プロジェクト・チーム」(担当役員は吉川剛夫、担当部長は松本 崇)を発足し、対応した。

事前検討は、PCCVの先進国である米・仏の諸文献の調査から始まり、採用するPCCVの形状等の検討、緊張材関係の諸検討、高強度マスコンクリートの製造・施工に関する調査・施工実験を行い、なお設計上の問題として、コンクリートの諸性能の確認、実物大部分模型によるPC関連の実証試験(当社技術研究所で実施)、模型による耐震性能確証試験などの必要性を提案して、第1段階の検討を53年9月までに終了、引き続き前記確認実証試験の実施と並行してPCCVの詳細な実施設計、工程・施工計画に入った。

工事は、57年6月、当社(幹事会社)、清水建設、竹中工務店の3社と事務所本館を担当する熊谷組の4社JVでスタートした。PCCV直下の基礎となる厚さ8mにも及ぶベースマットでは、1日当たり約1,000㎥、連続27日間のコンクリート打設を行った。PCCVの工事も順調に進み、最後の山場である緊張材の挿入・緊張・グラウトを61年1月終了し、構造性能確認試験(耐圧試験)を実施、61年4月燃料装荷とともに試運転を開始し、62年2月営業運転のはこびとなった。ここに、52年事前検討の依頼を受けてから約10年の歳月をかけたPCCVという新しい顔をもつ原子力発電所の完成をみたのである。なお、PCCVは重要機器の一部ということから品質保証活動の要請があり、工事事務所に品質保証部を設けてこの推進に当たった。請負金は133億3,910万円、所長は鈴木四郎から木村 稔に引き継がれた。

このように当社が事前の技術検討から施工に至るまで、PCCV技術の導入確立に大きな役割を果たしたことは、その後、PCCVで計画された関西電力大飯3・4号機、九州電力玄海3・4号機に、いずれも当社がリーダーとして参画することにつながり、加圧水型の原子力発電所建設における当社の実績に新たな1ページを加えることになった。

日本原子力発電敦賀発電所2号機本館建屋・サービス建屋(JV)
<福井県>昭和61年9月竣工
発注 日本原子力発電(一部三菱重工業経由)
設計 当社、日本原子力発電、ベクテル、三菱原子力工業、三菱重工業
工事概要 原子炉建屋/RC造およびS造、B2、1F、PH付、延2万5,695㎡
原子炉補助建屋/RC造、B4、2F、PH付、延2万5,230㎡
タービン建屋/RC造およびS造、B1、3F、延2万5,017㎡
サービス建屋/RC造、B1、4F、延5,606㎡
日本原子力発電敦賀発電所2号機本館建屋・サービス建屋(JV)
<福井県>昭和61年9月竣工
発注 日本原子力発電(一部三菱重工業経由)
設計 当社、日本原子力発電、ベクテル、三菱原子力工業、三菱重工業
工事概要 原子炉建屋/RC造およびS造、B2、1F、PH付、延2万5,695㎡
原子炉補助建屋/RC造、B4、2F、PH付、延2万5,230㎡
タービン建屋/RC造およびS造、B1、3F、延2万5,017㎡
サービス建屋/RC造、B1、4F、延5,606㎡

高速増殖原型炉もんじゅ原子炉建物・原子炉補助建物(JV)

当社は多くの原子力発電所建設に携わったが、これらの発電所はウラン235を燃料とする軽水炉であった。そもそも天然ウランには、ウラン235は0.7%しか含まれず、残りの99.3%は燃やせないウラン238である。このウラン238は、高速の中性子をあてると燃料として燃やせるプルトニウム239に変化することから、高速増殖炉が生まれた。高速増殖炉はウラン235やプルトニウム239の燃料の周囲に配置されたウラン238を、運転時に生じる高速中性子によってプルトニウム239に変え、消費した燃料よりも多くの新たな燃料を作り出しながら運転される原子炉である。作り出されたプルトニウムは再処理工場で抽出され、新燃料となるため、天然ウランのもつエネルギーを最大限に利用できることから、夢の原子炉ともいわれ、ウラン資源に乏しいわが国では将来のエネルギー供給の安定に備え、国家プロジェクトとして21世紀初期の実用化を目指し開発が進められている。

動力炉・核燃料開発事業団が開発した高速増殖原型炉もんじゅは、実証炉および実用炉に至る中間ステップの原型炉である。この設計、建設、運転の経験を通じて、高速増殖炉の実用化に必要な技術の確証と展開を図るものである。

高速増殖炉に関連する新たな建設技術に関し、当社は、高温の金属ナトリウム冷却材の仮想漏洩事故に対する、建物の高温・耐震技術、耐ナトリウム防護ライナー技術等々の技術開発を行い、当事業の計画段階から建物設計を担当した。

工事は当社(幹事会社)、大成建設、鹿島建設の3社JVで担当し、数年ぶりの豪雪で遅れていた岩盤掘削工事の完了を待って、昭和61年(1986)3月から基礎の配筋を開始した。同年7月から機電工事である国内最大の格納容器の組立てが開始され、以後、建築・機電工事は並行して進んだ。機電は、東芝・日立製作所・富士電機・三菱重工業が担当し、その共通業務に4社関連の高速炉エンジニアリングが当たった。もんじゅに続く実証炉では事業主は民間団体に移ることも背景に、工事監理は原電に委託された。5年に及ぶ工事は順調に進み、平成5年の初臨界を目指して3年5月から総合機能試験が開始されている。

請負金は182億9,655万円、所長は太田進一から桜井仙三郎に引き継がれ、設計は三菱重工業のもとで当社が担当、当社設計は大熊昌昭であった。

高速増殖原型炉もんじゅ原子炉建物・原子炉補助建物(JV)
<福井県>平成3年8月竣工
発注 動力炉・核燃料開発事業団
設計 当社、動力炉・核燃料開発事業団、三菱重工業
工事概要 RC造一部SRC造、B4、2F、総延5万3,092㎡
高速増殖原型炉もんじゅ原子炉建物・原子炉補助建物(JV)
<福井県>平成3年8月竣工
発注 動力炉・核燃料開発事業団
設計 当社、動力炉・核燃料開発事業団、三菱重工業
工事概要 RC造一部SRC造、B4、2F、総延5万3,092㎡

関西電力大飯発電所3・4号機本館(JV)

当発電所は、関西電力が、関西地区の1990年代初期以降の基軸エネルギーとして、1・2号機(当社が単独施工)に隣接して計画されたもので、同社にとって10、11機目の原子力発電所であった。この3・4号機は、日本原子力発電敦賀発電所2号機(JV)と同じくPCCVをもつわが国2番目の110万㎾級加圧水型原子力発電所であるが、同発電所のPCCVは敦賀発電所2号機のものとはその形状、PSシステムともに異なっている点から新型の原子力発電所として参入するものであった。このため、当社は敦賀発電所2号機の建設と並行して事前検討を始め、4年近い歳月を経て、あらゆる省力化、合理化案を盛り込んで昭和62年3月に着工した。

設計は、タービン建屋を除く1次系建屋を三菱重工業の下で当社、大成建設、竹中工務店、熊谷組の協力体制で受け、その取りまとめと原子炉建屋のPCCVを含む最重要部を当社が担当した。施工は当社(幹事会社)、大成建設、竹中工務店、熊谷組の4社JVである。

工事は、着工前年に起きたチェルノブイリ発電所の事故による反原発という逆風のなかで、また既設の1・2号機を稼働しながらの狭隘な敷地内での工事という施工条件のもとで、地域との協調、品質・安全の確保、隣接プラントの保全を基本方針にスタートした。このような厳しい条件下ではあったが、十分な検討期間を経て策定した計画案はその後ほとんど修正することなく実施することができた。その間、すでにこれまでPCCVを含めた数多くの原子力発電所建設から得た当社の技術を遺憾なく発揮することとなった。とくにPCCVでの450㎏/㎠、1次系建屋での300㎏/㎠という高強度コンクリートの施工においてはその品質管理で発注者、JV、専用プラントが一体となったきめ細かい対応を行い、またペーストミキサーの使用によるコンクリートの製造{注1}、液化窒素によるプレクーリング工法やPCCV外壁の繊維型枠工法採用など、高強度、高品質のコンクリートを施工することによって信頼性の高い原子力発電所の建設を目指した。さらに、ジンポール式ジャンピング型枠工法{注2}や外壁複合化パネル工法{注3}、タワークレーンの総合監視システム、作業員の入退場に磁気カードを用いた監理システムを導入するなど、新工法や機械化による生産性の向上、安全の確保にも万全を期した。

3号機は平成3年4月、4号機は4年4月に燃料装荷を迎え、3号機は3年12月に営業運転を開始した。請負金は3号機本館が142億8,546万円、附属事務所が3億8,656万円、4号機は101億819万円にのぼる見込みで、セメント、鉄筋、鉄骨は支給であった。所長は木村 稔から堀江宏史に引き継がれ、当社設計は戸田義博である。

注1 ペーストミキサーによるコンクリートの製造:ペーストミキサーで流動性の高いセメントペーストを先練りした後、通常ミキサーで2段階練りを行うことにより、コンクリートのブリージングの減少、圧縮強度の増大、耐久力(中性化)の向上などに効果がある。

注2 ジンポール式ジャンピング型枠工法:大型型枠と外部足場を一体化し順次せり上げていくもので、型枠建込み精度の向上、効率化、足場組立て作業の省力化およびPCCVと周辺建屋との工事の干渉を回避することができる。

注3 外壁複合化パネル工法:外装(アスベスト積層被履銅板)と鉄骨下地ならびに内装材を複合化してショップ製品とし、現場での作業を最少限にして仮設資材の低減、施工品質、安全の向上および工期短縮を目的とした。

関西電力大飯発電所3・4号機本館(JV)
<福井県>平成3年6月竣工(3号機) 平成4年6月竣工(4号機)
発注 関西電力
設計 原子炉建屋・制御廃棄物建屋/三菱重工業、三菱原子力工業、当社、大成建設、竹中工務店、熊谷組タービン建屋・附属事務所/新日本技術コンサルタント
工事概要 3号機本館/RC造およびS造、B2、7F、延6万1,220㎡、容積84万2,651㎥
附属事務所/RC造、B1、6F、延5,030㎡
4号機本館/RC造およびS造、B2、7F、延3万6,408㎡、容積62万5,108㎥ コンクリート量48万9,987㎥、鉄筋6万3,584t、鉄骨1万8,454t
関西電力大飯発電所3・4号機本館(JV)
<福井県>平成3年6月竣工(3号機) 平成4年6月竣工(4号機)
発注 関西電力
設計 原子炉建屋・制御廃棄物建屋/三菱重工業、三菱原子力工業、当社、大成建設、竹中工務店、熊谷組タービン建屋・附属事務所/新日本技術コンサルタント
工事概要 3号機本館/RC造およびS造、B2、7F、延6万1,220㎡、容積84万2,651㎥
附属事務所/RC造、B1、6F、延5,030㎡
4号機本館/RC造およびS造、B2、7F、延3万6,408㎡、容積62万5,108㎥ コンクリート量48万9,987㎥、鉄筋6万3,584t、鉄骨1万8,454t

集合住宅にも超高層の波

集合住宅の超高層化の試みは、住宅という特性からそのテンポは遅く、昭和46年(1971)に竣工した東京・三井綱町パークマンション(19階、他社施工)から59年竣工の神戸のポートピアプラザ(25階)(515ページ参照)に至るまで15年間に14件を数えるのみで、そのほとんどが25階建以下であり、構造はSRC造が大多数であった。ところが、60年前後からにわかにRC超高層という新しい技術を使った集合住宅が計画され始めた。当社は59年に研究会を設置し、この分野の研究開発を進め、当社にとって初のRC超高層集合住宅であり、民活モデル事業第1号の「SNT団地(西戸山タワーガーデン)」(JV)に61年着手した。そしてRC超高層集合住宅の研究開発の成果が大きく花開いたのが、開発設計コンペで最優秀となった「桜宮リバーシティ」の日本一のRC超高層集合住宅「ウォータータワープラザ」であった。

こうした超高層住宅のほか、62年から平成3年までに竣工した当社施工の代表的な集合住宅は、以下のとおりである。

<62年竣工>

逆瀬川駅前地区第一種市街地再開発事業「アピア1・2」(JV)(兵庫)、ライオンズガーデン川口(埼玉)、立川サニーコート(東京)、オークタウン仙台坂(東京)

<63年竣工>

ホーマット・ウッドヴィル(東京)、嵐山グランドシティ(京都)

<平成元年竣工>

コープ野村緑山ヒルズ壱番館・弐番館(3年竣工)(東京)、草津駅前A地区市街地再開発事業「Lty932」(JV)(滋賀)、オークヒルズ香里壱番館(63年竣工)・弐番館・参番館(JV)(大阪)、リバーサイドヴィラ姫島(大阪)、ヒューマンズウェル京都(京都)、日生ニュータウンサウンズヒル・ヴィオロンの丘(63年竣工)・ホルンの丘・オーボエの丘・ハープの丘(平成3年竣工)(JV)(兵庫)

<2年竣工>

ハイツ東戸塚Ⅱ(神奈川)、ステージ星川(JV)(神奈川)、オークヒルズ香里四番館・五番館・六番館(JV)、南青山高樹町パークマンション(東京)、ライフフィールド・ハイム茨木(JV)(大阪)、サニーコート市川(千葉)

<3年竣工>

西神中央シティヒルズ(兵庫)、イーストコート2番街(兵庫)、デュオ柏原(JV)(福岡)、ロイヤルクリスタル光南(広島)、コープ野村あいの里エスパシオ(壱番館・弐番館)(北海道)

このほか、シルバーマンションである中銀マンシオン熱海水口22号館(JV)(3年竣工)やリゾートマンションである中央アルプス高原マンション・ユニテック木曽駒(元年竣工)、シーズ城ケ崎(JV)(2年竣工)を施工した。また1989年、シンガポールでトムソンコンドミニアムを施工している。

各企業の社宅や独身寮の建設需要も増加し、この時期、当社が施工した代表的なものには、日本航空箕面新社宅(JV)(大阪)、神栄石野証券東京寮(東京)、日本生命浦安今川荘(JV)・浦安荘4号棟(千葉)、千住三和ビル(JV)(東京)、三菱銀行練馬寮(東京)などがあった。

阪急日生ニュータウンサウンズヒル(JV)
<兵庫県>昭和63年3月竣工(ヴィオロンの丘)、平成元年3月竣工(ホルンの丘)、平成元年8月竣工(オーボエの丘)、平成3年5月竣工(ハープの丘)
発注 新星和不動産
設計 当社
(写真はオーボエの丘)
阪急日生ニュータウンサウンズヒル(JV)
<兵庫県>昭和63年3月竣工(ヴィオロンの丘)、平成元年3月竣工(ホルンの丘)、平成元年8月竣工(オーボエの丘)、平成3年5月竣工(ハープの丘)
発注 新星和不動産
設計 当社
(写真はオーボエの丘)
日本生命浦安荘4号棟
<千葉県>平成3年3月竣工
発注 日本生命
設計 当社
日本生命浦安荘4号棟
<千葉県>平成3年3月竣工
発注 日本生命
設計 当社
オークヒルズ香里(JV)
<大阪府>昭和63年9月竣工(第1期)、平成元年3月竣工(第2期)、平成2年3月竣工(第3期)、平成2年9月竣工(第4期)
発注 野村不動産、丸紅
設計 当社、竹中工務店
オークヒルズ香里(JV)
<大阪府>昭和63年9月竣工(第1期)、平成元年3月竣工(第2期)、平成2年3月竣工(第3期)、平成2年9月竣工(第4期)
発注 野村不動産、丸紅
設計 当社、竹中工務店
中銀マンシオン熱海水口22号館(JV)
<静岡県>平成3年3月竣工
発注 中銀マンシオン
設計 小倉建築設計事務所
中銀マンシオン熱海水口22号館(JV)
<静岡県>平成3年3月竣工
発注 中銀マンシオン
設計 小倉建築設計事務所
コープ野村緑山ヒルズ壱番館・弐番館
<東京都>平成元年2月竣工(壱番館)
平成3年2月竣工(弐番館)
発注 野村不動産
設計 当社
コープ野村緑山ヒルズ壱番館・弐番館
<東京都>平成元年2月竣工(壱番館)
平成3年2月竣工(弐番館)
発注 野村不動産
設計 当社
イーストコート2番街
<兵庫県>平成3年5月竣工
発注 積水ハウス、アーバンライフ
設計 東畑建築事務所
イーストコート2番街
<兵庫県>平成3年5月竣工
発注 積水ハウス、アーバンライフ
設計 東畑建築事務所

「SNT団地(西戸山タワーガーデン)」(JV)

民活第1号として各方面から注目された当事業は、敷地1万8,415㎡に超高層集合住宅3棟(25階、全住戸576戸)、多目的ホール1棟が計画され、周囲には児童公園、プラザ、緑地が配置された。

発注者である新宿西戸山開発は56社が共同出資したもので、設計は三菱地所をはじめとする10社JV、施工は当社を幹事会社とする16社JVというこの大規模な建設工事は、昭和61年(1986)1月、既存公務員宿舎の解体から始まった。

施工にあたってはRC超高層集合住宅に対応した新工法を種々採用し、梁と壁には工場製作のPC板を、鉄筋は高強度・太径、コンクリートには420㎏/㎠という高強度のものを使用した。また、柱型はタイル打込み薄肉PC板を型枠併用とし、梁部分もタイル打込みのPC梁とした。さらに外壁PC板にはアルミサッシを打ち込み、窓は工場取付けとして躯体工事と同時に施工した。これらの工法の採用により外装の80%が躯体工事中に仕上がり、工期短縮に大いに効果を発揮した。PC板の大胆な活用によるこの省力化工法は関係者の注目を浴び、施工中の見学者は延2,200人にのぼった。

63年3月予定どおり竣工し、4月入居を開始したが、割安な分譲価格が人気を博し購入希望者が殺到して、マスコミにも大きく取り上げられた。また、多目的ホール(客席650席)は17世紀ロンドンに実在したシェークスピア劇場「第二グローブ座」を復元させた建物として、これも同時にオープンした。

請負金は19億8,260万円、所長は和田 脩から神吉則夫に引き継がれた。

SNT団地(西戸山タワーガーデン)(JV)
<東京都>昭和63年3月竣工
発注 新宿西戸山開発
設計 新宿西戸山開発事業設計監理共同体
工事概要 住居/RC造、B2、25F、PH付、全3棟、総延7万1,154㎡、576戸
多目的ホール(パナソニック・グローブ座)/RC造、B1、3F、延4,034㎡、最大750席
(左下写真は円形広場のルネッサンスのプラザ、パナソニック・グローブ座)
SNT団地(西戸山タワーガーデン)(JV)
<東京都>昭和63年3月竣工
発注 新宿西戸山開発
設計 新宿西戸山開発事業設計監理共同体
工事概要 住居/RC造、B2、25F、PH付、全3棟、総延7万1,154㎡、576戸
多目的ホール(パナソニック・グローブ座)/RC造、B1、3F、延4,034㎡、最大750席
(左下写真は円形広場のルネッサンスのプラザ、パナソニック・グローブ座)

「大川端リバーシティ21」B棟・H棟・J棟(JV)

隅田川河口にある佃島の石川島播磨重工業造船所跡地の再開発として昭和56年(1981)にスタートした「大川端リバーシティ21」は、東京のウォーターフロント開発の先がけをなし、「マイタウン東京構想」の一翼を担う大規模な開発事業である。

敷地は17.2㏊で、この事業が完成すれば、テクノプラザ(文化交流、研究教育、宿泊など各施設を内包)を街のコアとし、1,600台の駐車場を擁する約2,500戸の住宅や親水公園などで構成された未来型都市が誕生する。敷地中央の都道をはさみ、東側は東京都住宅局、住宅・都市整備公団が事業主体で、西側は三井不動産が事業主体となっており、当社は、前者で1棟、後者で2棟の超高層集合住宅の工事に携わった。

東京都住宅供給公社発注のコーシャタワー佃(B棟)(JV)は住居427戸、SRC造およびRC造、37階建で、当社、大成建設、清水建設の3社JVが施工を担当し、請負金は18億5,095万円、平成3年3月完成した。

西側にあるリバーポイントタワー(H棟)(JV)は住居390戸、SRC造、40階建で、当社、三井建設、鹿島建設、清水建設の4社JVが施工に当たり、請負金は14億715万円、元年4月完成した。

当社設計のシティフロントタワー(J棟)(JV)は、住居290戸、SRC造、31階建で、その施工には当社(幹事会社)、清水建設、日本国土開発、三井建設の4社JVが当たり、4年2月完成した。住居部(4~31階)にはフリー・スペース・スラブ工法{}を開発、採用し、自由なレイアウトスペースとより余裕のある天井高を確保している。地上階部分の梁および床版はすべて工場製作とし、柱および梁・床の上端部のみ現場打ちコンクリートとした省力化工法を採用した。また、主要鉄筋は高強度・太径を使用し、梁主筋の継手はグラウト式機械継手、さらに躯体工事の工期短縮を図るため柱鉄筋は先組み工法であった。請負金は78億8,163万円、所長は内田要治、設計は清水仁寿である。

注 フリー・スペース・スラブ工法:リブ付きスラブの凹部を、各種設備配管スペースに利用することにより、自由度の高い住戸レイアウトを可能にし、余裕のある天井高、少ないデッドスペースというメリットを生み出す工法。

大川端リバーシティ21
<東京都> ・リバーポイントタワー(H棟)(JV) 平成元年4月竣工
発注 三井不動産
設計 三井建設
工事概要 SRC造、40F、延4万1,190㎡、390戸
・コーシャタワー佃(B棟)(JV) 平成3年3月竣工
発注 東京都住宅供給公社
設計 東京都住宅供給公社
工事概要 SRC造およびRC造、B2、37F、延4万6,289㎡、427戸
・シティフロントタワー(J棟)(JV) 平成4年2月竣工
発注 三井不動産
設計 当社 工事概要 SRC造、B2、31F、PH2F、延3万7,556㎡、290戸 (左下写真はシティフロントタワー、シティフロントタワー・ホールロビー)
大川端リバーシティ21
<東京都> ・リバーポイントタワー(H棟)(JV) 平成元年4月竣工
発注 三井不動産
設計 三井建設
工事概要 SRC造、40F、延4万1,190㎡、390戸
・コーシャタワー佃(B棟)(JV) 平成3年3月竣工
発注 東京都住宅供給公社
設計 東京都住宅供給公社
工事概要 SRC造およびRC造、B2、37F、延4万6,289㎡、427戸
・シティフロントタワー(J棟)(JV) 平成4年2月竣工
発注 三井不動産
設計 当社 工事概要 SRC造、B2、31F、PH2F、延3万7,556㎡、290戸 (左下写真はシティフロントタワー、シティフロントタワー・ホールロビー)

「桜宮リバーシティ」

国鉄淀川貨物駅跡地を含めた29.8㏊の「桜之宮中野地区整備事業」は、昭和59年度(1984)に「特定住宅市街地総合整備促進事業制度」の新規事業実施地区として採択され、このうち住宅整備地区となる大川沿いの4.6㏊の用地を対象に、61年大阪市ほかによる「桜之宮中野地区都市型集合住宅プロジェクト開発設計競技」が実施された。このコンペは、対象地区全体の基本設計と、民間住宅ゾーンの事業計画についての提案を求める設計・施工・事業提案型のコンペで、応募した21企業グループのうち、松下興産、近鉄不動産、当社を事業主体とする「桜之宮MKOグループ」の案がみごと最優秀賞を射止めた。

RC超高層集合住宅として日本一の高さ(41階建)を誇るウォータータワープラザは、当社のRC超高層集合住宅の設計および施工技術の集大成ともいうべきもので、技術研究所をはじめとする関連各部門および現場が一丸となって当事業の推進に当たった。

全体計画では、隣接する公園と一体化させ、駐車場をすべて地下に設けるなど、あたかも公園内の住宅のような空間とし、外観は画一化を避け住宅バリエーションも豊富にしている。さらに高水準の設備や充実した共用空間、多彩な複合施設をもち、超高層集合住宅では珍しく住宅金融公庫の高規格住宅の評価を得た。

とくに、構造上もさまざまな工夫を施し、ダブルチューブ構造を採用して強風、地震による揺れを小さくし、チューブ内は梁型のない中空1枚スラブを採用、また柱は靭性を向上させ、さらに短スパン梁はX型配筋、コンクリートは420㎏/㎠の高強度となっている。

施工にあたっては、人手不足のさなか、品質の安定、精度の確保を目指して種々の省力化・工業化工法を開発し、その導入を図った。鉄筋工事では、①鉄筋総合管理システム、②X型鉄筋自動曲げ装置、③長手梁地組み装置、④組立鉄筋吊込み用治具などの開発・採用、また型枠工事では、柱・梁システム型枠の開発・採用のほか、スラブに型枠兼用の薄肉PC板を採用するなどして省力化を図った。このほかにも、無足場工法である外部せり上げ養生足場(3階分)をユニット化して安全性を高めた。

こうして63年6月の総合起工式を挙行の後、7月、日本勤労者住宅協会発注のコープ21からスタートした「桜宮リバーシティ」の工事は、平成元年3月のウォータータワープラザの着工で最盛期を迎えた。

2年春から入居が始まり、4年11月をもってすべての工事が完了し、グランドオープンの日を迎えた。請負金は合計374億4,403万円(大阪市住宅供給公社発注分のみ設備工事は別途)にのぼる。所長は浜野康生、設計は藤繩正俊(意匠)と樋口元一(構造)であった。

桜宮リバーシティ配置計画図
桜宮リバーシティ配置計画図
ウォータータワープラザ
ウォータータワープラザ
ヴォイド空間
ヴォイド空間
エントランスホール
エントランスホール
コープ21
コープ21
ウェスト13-1号棟
ウェスト13-1号棟

増大する製造業の建設投資

この時期の製造業における設備投資拡大局面の特徴は、食品、印刷、出版など内需の好調な業種が昭和62年(1987)半ばから拡大を始め、63年に入ってからは金属、化学、紙・パルプなど収益改善の著しい素材型産業に加え、ストック調整を終えた加工型産業も盛り返すなど、幅広い業種にわたって増勢が強まったことであった。

また、産業構造の転換とも相まって投資目的も多様であった。①内需の好調な分野での需要増に対応した投資、②技術革新に伴う製品の世代交代、競争力確保のための製品差別化、あるいは内需掘起しを目的とした新製品投入・製品多様化投資、③中長期的観点に立った先行投資(新分野進出、研究開発等)、④好収益、低金利という環境を受けて積み残していた更新投資や間接部門拡充投資(本社・営業所、福利施設)、⑤規制緩和に対応した投資などで、こうした製造業の設備投資の伸び率は63年度、平成元年度、2年度と2桁を記録した。なかでも食品業界は、“飽食の時代”“グルメの時代”といわれるなかで、とくに旺盛な建設投資を行った。

62年~平成3年に竣工した当社施工の代表的な工場は、以下のとおりである。(半導体産業については前章にも既述している。)

<食品・飼料>

ユアサ・フナショク高瀬工場、六花亭製菓帯広第3工場(JV)、剣菱酒造浜蔵、不二家富士裾野工場、日本キャンパック群馬第2工場、ドンク六甲アイランド工場、アサヒビール茨城工場(JV)・同名古屋工場・同西宮工場

<紙・パルプ>

山陽国策パルプ岩国工場8号抄紙機、王子製紙米子工場原質1系設備、コピア福井工場

<電機・電子>

松下電池工業湘南工場・同蓄電池事業部浜名湖第2工場、徳力精工今市工場、日本シイエムケイ新潟サテライト・同Gステーション増築、日本電気府中事業場第4工場、九州電子金属K1期3次(JV)、広島オプト液晶新工場

<機械>

ソディック加賀、NOK二本松事業場第1期・第2期・第3期、島津製作所秦野工場・研究所(第1期)(JV)、エヌティエヌ長野製作所精密機器工場・同岡山製作所CVJ工場、キヤノン上野工場89A・B―2棟、センサーテクノロジー筑波工場、バンドー化学和歌山工場(JV)、澁谷工業メカトロ第3棟、オーエスジー八名工場(JV)、不二越工作機製造所滑川工場、大分キヤノン90B・C棟

<化学>

ダイアホイルDFC-7(F)および5D、日本製薬SKP(新大阪工場)(Ⅰ期・Ⅱ期)、大倉工業丸亀第5工場、住友スリーエム相模原第3工場東側増築

<自動車・航空機>

富士重工業群馬製作所大泉工場第3機械工場および増築・同第4機械工場、トヨタ自動車田原第2車体工場プレスピット及び土間・同田原第2機械工場および第2車体工場拡張・同元町第1組立車体工場拡張、ダイハツ工業滋賀(竜王)工場新組立工場、日本発条横浜事業所シート工場(JV)、アツギユニシア秋田工場第3棟および増築、日本航空成田新原動機工場第1期(JV)、東海理化電機製作所恵那工場、髙島屋日発工業豊橋工場4号棟増築、日産自動車九州工場新機関工場(JV)、アラコ豊橋第3工場Ⅰ期

<セメント・窯業>

INAX上野住器工場・同知多工場、旭硝子高砂工場#50R主工場、東陶機器滋賀第二工場(JV)、大阪窯業新貝塚工場

<鉄鋼>

神戸製鋼所加古川製鉄所№3酸洗設備建家及び基礎・同加古川製鉄所4号連鋳設備(A工区)

<その他>

北海製罐千代田工場、城南臨海工業協同組合城南島工場(JV)、公害防止事業団尼崎(南初島)地区集団設置建物(JV)、伊藤喜工作所第3事業部滋賀事業所

アサヒビール名古屋工場(第1期増設および第2期増設)
<愛知県>昭和63年9月竣工(第1期増設) 平成2年7月竣工(第2期増設)
発注 アサヒビール
設計 伊藤建築設計事務所
(点線部が当社施工部分)
アサヒビール名古屋工場(第1期増設および第2期増設)
<愛知県>昭和63年9月竣工(第1期増設) 平成2年7月竣工(第2期増設)
発注 アサヒビール
設計 伊藤建築設計事務所
(点線部が当社施工部分)
NOK二本松事業場(第1・2・3期)
<福島県>昭和62年7月竣工(第1期)、昭和63年6月竣工(第2期)、平成2年6月竣工(第3期)
発注 NOK
設計 当社
(写真は第3期)
NOK二本松事業場(第1・2・3期)
<福島県>昭和62年7月竣工(第1期)、昭和63年6月竣工(第2期)、平成2年6月竣工(第3期)
発注 NOK
設計 当社
(写真は第3期)
トヨタ自動車田原第2車体工場および第2機械工場
<愛知県>昭和61年10月竣工(第2車体工場)、平成2年9月竣工(第2機械工場)、平成3年3月竣工(第2車体工場拡張)
発注 トヨタ自動車
設計 トヨタ自動車
(点線部が当社施工部分)
トヨタ自動車田原第2車体工場および第2機械工場
<愛知県>昭和61年10月竣工(第2車体工場)、平成2年9月竣工(第2機械工場)、平成3年3月竣工(第2車体工場拡張)
発注 トヨタ自動車
設計 トヨタ自動車
(点線部が当社施工部分)
ダイハツ工業滋賀(竜王)工場新組立工場
<滋賀県>昭和63年9月竣工
発注 ダイハツ工業
設計 当社
ダイハツ工業滋賀(竜王)工場新組立工場
<滋賀県>昭和63年9月竣工
発注 ダイハツ工業
設計 当社
神戸製鋼所加古川製鉄所4号連鋳設備(A工区)
<兵庫県>平成元年3月竣工
発注 神戸製鋼所
設計 日建設計(建家)、当社(機械基礎および電気室)
神戸製鋼所加古川製鉄所4号連鋳設備(A工区)
<兵庫県>平成元年3月竣工
発注 神戸製鋼所
設計 日建設計(建家)、当社(機械基礎および電気室)
剣菱酒造浜蔵
<兵庫県>平成元年7月竣工
発注 剣菱酒造
設計 当社
剣菱酒造浜蔵
<兵庫県>平成元年7月竣工
発注 剣菱酒造
設計 当社
アサヒビール茨城工場(JV)
<茨城県>平成3年4月竣工
発注 アサヒビール
設計 伊藤建築設計事務所、日本設計
(点線部が当社施工部分)
アサヒビール茨城工場(JV)
<茨城県>平成3年4月竣工
発注 アサヒビール
設計 伊藤建築設計事務所、日本設計
(点線部が当社施工部分)
アツギユニシア秋田工場第3棟および増築
<秋田県>平成2年7月竣工(第3棟)平成3年8月竣工(第3棟増築)
発注 アツギユニシア
設計 当社
(写真は平成3年11月撮影)
アツギユニシア秋田工場第3棟および増築
<秋田県>平成2年7月竣工(第3棟)平成3年8月竣工(第3棟増築)
発注 アツギユニシア
設計 当社
(写真は平成3年11月撮影)
東海理化電機製作所恵那工場
<岐阜県>平成3年3月竣工
発注 東海理化電機製作所
設計 当社
東海理化電機製作所恵那工場
<岐阜県>平成3年3月竣工
発注 東海理化電機製作所
設計 当社
東陶機器滋賀第二工場(JV)
<滋賀県>平成3年2月竣工
発注 東陶機器
設計 日建設計
東陶機器滋賀第二工場(JV)
<滋賀県>平成3年2月竣工
発注 東陶機器
設計 日建設計
伊藤喜工作所第3事業部滋賀事業所
<滋賀県>平成3年9月竣工
発注 伊藤喜工作所
設計 日建設計
伊藤喜工作所第3事業部滋賀事業所
<滋賀県>平成3年9月竣工
発注 伊藤喜工作所
設計 日建設計

徳力精工今市工場

徳力精工は、東京・調布市の本社工場で主に通信関連機器およびプリント基板の生産を行っていたが、工場が手狭なうえ、増設などができない状況から移転を計画、当社は2年余りに及ぶ工場の計画立案、用地の獲得、開発手続きなどの営業努力によって、栃木県今市市の新工場を生産装置ならびに建築、設備工事ともどもフルターンキーで受注し、昭和63年(1988)4月着工した。

移転計画では、本社工場の生産を中止することなく今市工場の生産へと切り替えなければならないことと、本社工場の生産装置の今市工場への転用を短い工期で行う必要から、設計から施工のすべてにわたりさまざまな工夫を行った。とくに設計の段階では、本社工場での生産の流れおよび必要条件、生産装置の特徴の調査、移転装置などの新工場での接続据え付け方法および切替え方法等まで細かく検討し、生産装置と建築・設備の相互のフィードバックを重ねながら計画を進めた。また、施工では、工期短縮や生産装置の早期立上げの必要から、建家工事と機械据付けを並行しなければならず、空調のない状態で機械の組立てを行うため温度変化への対策や生産設備の部分稼働への対応など難しい点も多かった。「初めての生産ラインでのフルターンキー工事であったため、従来の建家工事のみの場合には我々には関係なかった未知の問題が次々もちこまれましたが、第1号の完成品が生産されたときは感無量でした」と原所長は後に語っている。請負金は建築工事が23億7,400万円、エンジニアリング工事が22億4,900万円で、所長は原 義孝、エンジニアリング担当は浅葉一男であった。

徳力精工今市工場
<栃木県>平成元年4月竣工
発注 徳力精工
設計 当社
工事概要 S造、平家一部2Fほか、総延1万3,303㎡ (左下写真はパターン加工場)
徳力精工今市工場
<栃木県>平成元年4月竣工
発注 徳力精工
設計 当社
工事概要 S造、平家一部2Fほか、総延1万3,303㎡ (左下写真はパターン加工場)

アサヒビール西宮工場

昭和2年(1927)以来、アサヒビール西宮工場の増設工事はほとんど当社の手で行われてきた。62年のスーパードライの大ヒットに呼応し、当工場の生産設備効率化と増能力が検討され、63年7月に大増設計画の基本方針が示された。

第1期の主要工事は、装製場第1期工事(瓶詰ライン4系列)、仕込棟およびボイラー他基礎工事であった。スーパードライの増能力は一刻の猶予もなく、短工期は当初より予想され、また稼働中の建家および生産設備を阻害することなく、狭い敷地内の物流車輌等を最優先しなければならなかった。構造および工法も短工期・経済性に合致するよう当社設計・施工のメリットを生かして工事は進んだ。こうして平成元年4月、瓶詰ライン4系列の試運転にこぎつけた。

続いて第2期工事(平成元年9月~2年8月)がスタートした。主要工事は、装製場第2期工事(瓶詰ライン2系列+缶詰ライン3系列)、定温倉庫、排水処理場、ろ過コントロール棟および通路上屋の工事で、第1期工事に比べ2倍の規模であった。折しも建設ブームで人手不足のなか、それでも600人/日×5カ月を動員して工事を進め、計画どおり2年5月、ビール製造を開始し、3倍の増能力となった新工場が完成した。

第3期工事(平成2年10月~3年11月)では福利厚生および管理施設の拡充に着手し、事務厚生棟、脱気水ポンプ室および場内整備工事を行った。こうして昭和初期より60年余にわたって建設してきた建物の約90%を解体し再生する「昭和の大増設工事」はここに無事終了した。請負金は、この間142億円(昭和63年1月~平成3年11月)にのぼり、所長は東條順蔵であった。

西宮工場と並行して名古屋工場の大規模な増設工事(昭和62年7月~平成2年7月、請負金102億円、長屋清所長)と茨城新工場の新設工事(JV)(平成元年4月~3年4月、請負金77億2,121万円、秋田親男所長)も行われた。

名古屋工場は、48年4月当社施工で誕生した工場であった(811ページ参照)。増設工事は62年7月から平成2年7月にかけて第1期工事、第2期工事が行われ、生産能力は一気に21万㎘から39万㎘に増大し、東洋一のビール工場が出現した。

一方、茨城工場(812ページ参照)は、茨城県北相馬郡守谷町の守谷工業団地に建設された最新鋭工場で、平成元年4月に着工した。工事はA・B・Cの3ブロックに分かれ、当社はこのうちA工区の粉砕・展望接待館、仕込・醸造棟を6社JV(当社が幹事会社)で施工、またA・B工区全体の総合仮設工事も単独で行った。

アサヒビール西宮工場
<兵庫県>平成2年8月竣工(第1、2期) 平成3年11月竣工(第3期)
発注 アサヒビール
設計 当社
工事概要 装製場/RC造、4F、PH付 定温倉庫/S造、4F、PH付 ほか全10棟、総延8万3,000㎡ (左下写真は装製場4号倉庫)
アサヒビール西宮工場
<兵庫県>平成2年8月竣工(第1、2期) 平成3年11月竣工(第3期)
発注 アサヒビール
設計 当社
工事概要 装製場/RC造、4F、PH付 定温倉庫/S造、4F、PH付 ほか全10棟、総延8万3,000㎡ (左下写真は装製場4号倉庫)

増加の一途をたどるR&D投資

昭和54年度(1979年度)に西ドイツ並みにGNPの2%を超えて世界最高水準に達したわが国の研究開発投資は、その後も増加の一途をたどり、63年度にはついに10兆円強となり、平成2年度にはじつに13兆783億円と54年度の3倍近い値を示した。その特徴は先進各国に比べて民間の比率がきわめて高いことにあるが、この時期、その傾向を一層強め、57年度に6割を占めた「会社等」(会社にあっては資本金500万円以上)の比率は平成2年度には7割にも及んだ。その背景には、ボーダーレスな国際分業へと向かう流れのなかで、いまや世界の最先端を走るわが国産業界にとって研究開発はサバイバルのために不可欠という認識があった。

59年にわが国で研究を実施している「会社等」は1万5,000社あるといわれ、そのうち製造業が88%と大部分を占めている。60年代以降に当社の手で完成したこうした製造業の研究施設の代表的なものは下記のとおりである。

<研究所>

松下電子工業半導体研究所・同半導体総合技術センター、東洋紡総合研究所BK‐1・NKT(JV)、住友電気工業横浜研究本館(JV)、上野製薬上野生物科学研究所、キリンビール医薬開発研究所L棟、エヌティエヌ東洋ベアリング磐田技術新館、島津製作所テクニカルセンター(JV)、大王製紙技術開発本部、武田薬品工業第6技術棟、武田薬品工業筑波研究所および応用技術研究所・農業科学研究所、キヤノン下丸子本社L棟(JV)、保土谷化学工業筑波研究所第1期、東レ基礎研究所2号館(JV)、日産自動車エンジニアリングセンタービル(JV)、横浜ゴム研究開発センター第一ビル(JV)、トヨタ自動車技術12号館、川崎製鐵技術研究本部別館(JV)、積水化学工業京都技術センターB工区、オムロン横浜研究所・同熊本研究所

このうち、キリンビール医薬開発研究所L棟は国内最大級のRI(ラジオアイソトープ)施設をもった研究所である。

さらに、阪大微生物病研究会観音寺研究所は当社が30年代より建設に携わってきている研究所であるが、60年7月新たに生物工学センターを建設した。63年8月完成した蛋白工学研究所は次世代の基盤技術と期待される蛋白質を広い分野へ応用研究をする施設で、世界で2台目の極低温電子顕微鏡が設置されている。平成元年2月完成した国際電気通信基礎技術研究所(JV)は京阪奈学研都市の研究施設第1号で、高度情報化社会の根幹を担う電気通信に関する研究だけでなく、今後建設される研究機関に対する支援も行う施設である。また、63年9月完成した明治生命京都パストゥール研究所(JV)は難治性疾患の撲滅を目指すユニークな研究所である。63年3月完成した科学技術庁無機材質研究所無振動特殊実験棟と平成2年3月に完成した東京都老人総合研究所ポジトロン医学研究施設(JV)は、さまざまな最先端技術の研究設備を使っての研究に支障のないよう、当社開発の技術である免震・制振・除振システムを導入した建物となっている。

61年、地域に開放型試験研究施設(オープンラボ)、人材育成施設、交流施設、研究開発型企業育成施設(ビジネス・インキュベーター)など高次の産業支援機能を有する施設「リサーチコア」を整備するため、その第1号として通産省より8プロジェクトが認定された。こうしたプロジェクトのなかで、当社は、久留米リサーチセンタービル(JV)、恵庭リサーチ・ビジネスパークセンタービル(JV)、つくば研究支援センター(JV)をこの時期建設した。さらに大阪ガスにより設立された京都リサーチパークもこれに類した新しい研究施設で、当社はこの中の多くの施設を施工している。

科学技術庁無機材質研究所無振動特殊実験棟
<茨城県>昭和63年3月竣工
発注 建設省
設計 建設省
(写真は研究室内部に据え付けられた80万倍の電子顕微鏡)
科学技術庁無機材質研究所無振動特殊実験棟
<茨城県>昭和63年3月竣工
発注 建設省
設計 建設省
(写真は研究室内部に据え付けられた80万倍の電子顕微鏡)
大王製紙技術開発本部
<愛媛県>平成元年11月竣工
発注 大王製紙
設計 当社
大王製紙技術開発本部
<愛媛県>平成元年11月竣工
発注 大王製紙
設計 当社
蛋白工学研究所
<大阪府>昭和63年8月竣工
発注 蛋白工学研究所
設計 日建設計
蛋白工学研究所
<大阪府>昭和63年8月竣工
発注 蛋白工学研究所
設計 日建設計
松下電子工業半導体総合技術センター
<京都府>平成2年6月竣工
発注 松下電子工業
設計 当社
松下電子工業半導体総合技術センター
<京都府>平成2年6月竣工
発注 松下電子工業
設計 当社
キリンビール医薬開発研究所L棟
<群馬県>平成元年5月竣工
発注 キリンビール
設計 当社
キリンビール医薬開発研究所L棟
<群馬県>平成元年5月竣工
発注 キリンビール
設計 当社
トヨタ自動車技術12号館
<愛知県>平成3年5月竣工
発注 トヨタ自動車
設計 トヨタ自動車
トヨタ自動車技術12号館
<愛知県>平成3年5月竣工
発注 トヨタ自動車
設計 トヨタ自動車

日産自動車エンジニアリングセンタービル(JV)

神奈川県厚木市に日産自動車テクニカルセンターがオープンしてから10年、この間、当社は設計本館(テクニカルセンター101・102号棟)(JV)、エンジン駆動実験棟(テクニカルセンター801・802号棟)をはじめ数々の建物を施工してきたが、平成元年(1989)7月、新たに先進的な車の開発を推進するR&D基地・エンジニアリングセンタービルの建設に着手した。当社設計・施工で、近年の自動車産業の国際化とスピーディな研究開発に対応すべく、大規模なLANシステムを導入するなど、高度に情報化が進むオフィスのハード面の充実を図る一方、「フェイス・ツー・フェイスのコミュニケーションの充実とフレキシブルで快適なオフィス空間の実現」を設計の主テーマに据えていた。

このテーマを実現するため、意匠、構造、設備にわたる当社の技術を存分に盛り込み、傾斜支持地盤で建物を支えるOWS杭、2階から8階はその中央を貫くアトリウムで無柱空間を実現、1,300席のダイニングホール、全館多機能開口をもつフリーアクセスフロア、床吹出し空調システム、冷水蓄熱システムなどを導入した。

階高が高く、吹抜けが多いうえ、床や天井間仕切りが設備機能の一部に組み込まれているなど特徴のある建物となっており、さらに既設研究所の敷地内での短工期・大型工事であるため、とくに安全、工程、労務、機密保持等に尽力して、工事は3年2月工期どおり完成した。施工は当社(幹事会社)、錢高組、西松建設の3社JV、請負金は89億7,627万円、所長は大沢仙三郎で、設計は林田昌己であった。

日産自動車エンジニアリングセンタービル(JV)
<神奈川県>平成3年2月竣工
発注 日産自動車
設計 当社
工事概要 S造一部SRC造、B1、9F、PH付、延6万3,000㎡
日産自動車エンジニアリングセンタービル(JV)
<神奈川県>平成3年2月竣工
発注 日産自動車
設計 当社
工事概要 S造一部SRC造、B1、9F、PH付、延6万3,000㎡

京都リサーチパーク・CORE京都(一部JV)

京都駅からひと駅のJR丹波口駅前にある大阪ガス京都製造所跡地で建設が進んでいる京都リサーチパークは、大阪ガスの関連会社である京都リサーチパークが、先端技術の研究開発を支援しようと未来志向の都市型リサーチパークの建設を目指したものである。「民活法」に則った通産省認定のリサーチコア構想8プロジェクトとは異なるが、平成7年(1995)完成すると、約7㏊の敷地に研究所を中心として会議場、ホテル、レストランなどの関連施設が集まった総延25万㎡、研究者6,000人の24時間型インテリジェントシティが出現する。

CORE京都はこの第1期工事(元年8月完成)で、東地区敷地面積2万㎡に建設されたものである。人工地盤の中庭を囲むように、京都府中小企業総合センター(JV)のほか京都高度技術研究所、京都市工業試験場(以上2件は他社施工)などの公的な試験・研究施設をはじめ、企業の研究所やベンチャーラボが入居するサイエンスセンタービル(当社単独)、同・アネックス(JV)などのインテリジェントビルが立ち並び、人工地盤は120台の駐車場スペースとなっている。全5棟のうち当社は3棟と人工地盤などの建設に携わり、請負金は54億3,613万円(設備工事は別途)、所長は浅見公順であった。

京都リサーチパーク・CORE京都(サイエンスセンタービル・アネックスと京都府中小企業総合センターはJV)
<京都府>昭和63年11月竣工(サイエンスセンタービル)
平成元年8月竣工(同・アネックスおよび京都府中小企業総合センター)
発注 京都リサーチパーク
設計 日建設計
工事概要 サイエンスセンタービル/RC造およびS造、B1、5F、PH付、延1万4,418㎡
サイエンスセンタービル・アネックス/RC造およびSRC造、B2、5F、PH付、延7,531㎡
京都府中小企業総合センター/SRC造およびRC造、B1、5F、PH付、延5,916㎡ (左写真はCORE京都全景、左下写真は京都サイエンスセンタービル)
京都リサーチパーク・CORE京都(サイエンスセンタービル・アネックスと京都府中小企業総合センターはJV)
<京都府>昭和63年11月竣工(サイエンスセンタービル)
平成元年8月竣工(同・アネックスおよび京都府中小企業総合センター)
発注 京都リサーチパーク
設計 日建設計
工事概要 サイエンスセンタービル/RC造およびS造、B1、5F、PH付、延1万4,418㎡
サイエンスセンタービル・アネックス/RC造およびSRC造、B2、5F、PH付、延7,531㎡
京都府中小企業総合センター/SRC造およびRC造、B1、5F、PH付、延5,916㎡ (左写真はCORE京都全景、左下写真は京都サイエンスセンタービル)

武田薬品工業筑波研究所および応用技術研究所・農業科学研究所

同社の研究施設は、主として近畿圏に配置されていたが、筑波研究学園都市に新しい拠点を建設することとなり、まず、新薬の開拓研究を主眼とした筑波研究所を開設、続いて二つの新研究所を設けた。筑波研究所は昭和61年(1986)10月に着工、続いて平成元年8月から応用技術研究所・農業科学研究所の建設に着手した。

同研究所はつくば科学博施設の跡地である筑波北部工業団地内にあり、全敷地は約17万3,000㎡と広大なもので、研究員1人当たり床面積は100㎡という恵まれたものである。

この三つの研究所棟にはいずれも動物実験室やRⅠ施設を多く含み、これら実験室用の大型設備を収容し、かつメンテナンスを容易にするため、各階とも階高は5.5m、天井裏のスペースはISS(Interstitial Space)と呼ばれる、人間が立って歩ける高さとなっているのが特徴である。

また、応用技術研究所・農業科学研究所は、前者は医薬品外の専門分野における新製品や新技術の研究開発を目的としたもので、後者はアグロ事業部の研究所として開設された。

筑波研究所の請負金は26億2,500万円(設備工事は別途)、所長は佐々木良昭である。

また、応用技術研究所・農業科学研究所の請負金は管理棟(当社設計)を含め45億5,257万円(研究所の設備工事のみ別途)、所長は佐藤和男であった。

武田薬品工業筑波研究所および応用技術研究所
・農業科学研究所
<茨城県>
発注 武田薬品工業
・筑波研究所 昭和62年12月竣工
設計 日建設計
工事概要 RC造、3F、PH2F、延9,620㎡
・応用技術研究・農業科学研究所 平成3年4月竣工
設計 日揮
工事概要 RC造、3F、PH2F、延1万9,800㎡ (左写真は筑波研究所、左下写真は応用技術研究所・農業科学研究所)
武田薬品工業筑波研究所および応用技術研究所
・農業科学研究所
<茨城県>
発注 武田薬品工業
・筑波研究所 昭和62年12月竣工
設計 日建設計
工事概要 RC造、3F、PH2F、延9,620㎡
・応用技術研究・農業科学研究所 平成3年4月竣工
設計 日揮
工事概要 RC造、3F、PH2F、延1万9,800㎡ (左写真は筑波研究所、左下写真は応用技術研究所・農業科学研究所)

消費の拡大と個性化に応える店舗・物流基地

昭和60年代に入り景気上昇とともに個人消費は拡大を続け、そうしたなかで流通業も新たな構造変革の波を受けることとなった。その背景として、第1に消費者ニーズの変化がある。所得水準の上昇とともに量的な面が一応充足され、購入するものにより高い質と商品のもつソフト的価値が求められてきたのである。第2にそうした消費者ニーズの変化を把握し、それに対応しうる情報・通信、物流面の環境整備が進んだことがあげられる。POSやVANの普及は商品管理、受発注の効率化を促進し、またクレジットカードの急増や宅配便の急速な拡大もこのころのことであった。

こうして、従来、規模の経済を追求し、量販店を中心に消費者のもつ画一的なニーズに着目して大量・廉価な商品を供給することにあった流通業の競争のあり方は、販売面においては多様化、個性化した消費者ニーズを効率的に把握し、それを商品開発に反映させ、一方、仕入面では多品種・少量の供給をいかに効率的に実施させるかという方向に変化してきたのであった。

小売業のこうした流れを反映して当社施工の店舗建築(822ページ表参照)のなかにも個性的な店舗が数多く登場し、そのなかには物を売るだけでなく、エアロビクススタジオやプール、各種文化教室などサービス施設を内包した店舗も多かった。また、市街地再開発事業施設のなかに出店する例が、50年代に引き続き60年代に入っても依然多く、さらに米国のおもちゃ量販店トイザらスが入居した荒川沖ピアタウンは小売業にも国際化の波が押し寄せている一つの象徴的店舗であった。この時期、こうした消費の拡大や個性化による物流の増大から倉庫・物流センターの工事も相次いだ(次の表参照)。

逆瀬川駅前地区第一種市街地再開発事業「アピア1・2」(JV)
<兵庫県>昭和62年3月竣工
発注 逆瀬川駅前地区市街地再開発組合
設計 安井建築設計事務所
逆瀬川駅前地区第一種市街地再開発事業「アピア1・2」(JV)
<兵庫県>昭和62年3月竣工
発注 逆瀬川駅前地区市街地再開発組合
設計 安井建築設計事務所
クラレニッセイビル(梅田LoFt)(JV)
<大阪府>平成2年3月竣工
発注 興陽産業、日本生命
設計 日建設計
クラレニッセイビル(梅田LoFt)(JV)
<大阪府>平成2年3月竣工
発注 興陽産業、日本生命
設計 日建設計
草津駅前A地区市街地再開発事業「Lty932」(JV)
<滋賀県>平成元年3月竣工
発注 草津駅前A地区市街地再開発組合
設計 東畑建築事務所
草津駅前A地区市街地再開発事業「Lty932」(JV)
<滋賀県>平成元年3月竣工
発注 草津駅前A地区市街地再開発組合
設計 東畑建築事務所
スリースター稲毛ビル(JV)
<千葉県>平成2年9月竣工
発注 三星機工
設計 当社、日本電信電話
スリースター稲毛ビル(JV)
<千葉県>平成2年9月竣工
発注 三星機工
設計 当社、日本電信電話
西神中央駅百貨店ビル(そごう)
<兵庫県>平成2年9月竣工
発注 神戸市
設計 神戸市
西神中央駅百貨店ビル(そごう)
<兵庫県>平成2年9月竣工
発注 神戸市
設計 神戸市
ニチレイ船橋第二物流SC(JV)
<千葉県>平成3年2月竣工
発注 ニチレイ
設計 横河建築設計事務所
ニチレイ船橋第二物流SC(JV)
<千葉県>平成3年2月竣工
発注 ニチレイ
設計 横河建築設計事務所

ロビーシティ相模大野(伊勢丹相模原店)(JV)

神奈川県相模原市と住宅・都市整備公団によって小田急線相模大野駅周辺商品街区整理事業が推進されているが、その中核をなす北口の米軍医療センター跡地に百貨店を建設しようと設計コンペが実施され、当社・清水建設JV案がみごと採用となった。

全体としては街づくりの顔となる華やかな都市型百貨店を目指しながら、外観は周囲になじむよう落ち着いたものとし、また駅から公園に至るモール軸を強調したエントランスゲートと売場の核となる3層吹抜けの公共歩廊などを設計のポイントとしている。

工事は平成元年(1989)2月、建築本体は住宅・都市整備公団、店舗施設は伊勢丹発注でスタートした。延6万9,709㎡を19カ月で完成という厳しい工期、建設ブームのさなかでの労務事情の悪化や鉄骨製作の遅れを数々の省力化工法を採用して乗り切った。

なお6~7階のレストラン共用部分は新しく誕生した当社の関係会社アトリエ・エイティエイトが初めて設計したものである。

請負金は102億5,117万円、施工は当社(幹事会社)と清水建設のJVが当たり、所長は山岸仲治、設計は山崎輝雄であった。

ロビーシティ相模大野(伊勢丹相模原店)(JV)
<神奈川県>平成2年8月竣工
発注 伊勢丹、住宅・都市整備公団(躯体・外装)
設計 当社
工事概要 SRC造、B3、7F、PH付、延6万9,709㎡
ロビーシティ相模大野(伊勢丹相模原店)(JV)
<神奈川県>平成2年8月竣工
発注 伊勢丹、住宅・都市整備公団(躯体・外装)
設計 当社
工事概要 SRC造、B3、7F、PH付、延6万9,709㎡

ジャスコ北戸田店ショッピングセンター

JR埼京線北戸田駅近くの三菱倉庫所有地に建つ当ショッピングセンターは埼玉県下最大級のもので、当社は土地利用の企画提案から設計・施工まで一貫してかかわった。マイカー客と埼京線の開通(昭和60年9月)による沿線の人口増をねらって提案したショッピングセンターであったが、このねらいは大成功であった。約4万㎡の店舗棟と約1万9,000㎡の駐車場棟で構成され、店舗棟は4階吹抜けのセントラルコート、4階のプール、ジャグジーなど郊外型大規模ショッピングセンターの高級化、個性化の流れを先取りしたものとなっている。

工事にあたっては、ちょうど建設ブームのさなかであり、すべての工事にわたり、作業員不足、資材納入の遅れが予想された。このため、SRC造とS造の組合せ、基礎梁におけるスレート型枠工法、アスファルト防水とステンレスプールの組合せなど、設計・施工の両面で各種の省力化工法を駆使し、平成元年(1989)11月、約1年の短工期で工事は完成した。請負金は78億7,184万円、所長は上原徳男、設計は井上邦明であった。

ジャスコ北戸田店ショッピングセンター
<埼玉県>平成元年11月竣工
発注 三菱倉庫、ジャスコ
設計 当社
工事概要 SRC造一部S造、7F、PH2F、延5万9,259㎡
ジャスコ北戸田店ショッピングセンター
<埼玉県>平成元年11月竣工
発注 三菱倉庫、ジャスコ
設計 当社
工事概要 SRC造一部S造、7F、PH2F、延5万9,259㎡

東京都中央卸売市場大田市場(青果棟)(JV)

大田市場は既存の神田、荏原、大森、蒲田の4市場を統廃合し、東京における生鮮食料品など物流の増大に対応し、かつ合理化を図るために建設されたもので、当社(幹事会社)はこのうち青果棟を西松建設、東海興業、不動建設、東亜建設工業、大本組、南海建設との7社JVで担当した。当市場はわが国最大のものであるとともに、隣接する野鳥公園との一体的な整備を図るなど都市計画上の配慮を十分に加えた最先端市場である。青果棟は東西400m、南北180mの広大なもので、三つの大屋根の下に卸売場2面、仲卸売場1面が並び、さらに建物上部駐車場へのランプウェイが設置されている。

各卸売場の間口108m、奥行144mの屋根は中央の7本の円柱とSRC造の卸売場仕切りと外周部の建物とで支持された形となっている。また、仲卸売市場には大屋根下に2階建の302店舗が全面に配置されている。

工事は昭和62年(1987)3月開始したが、途中、敷地直下を走るJR地下貨物線の防護工事(当社も1工区担当)が始まり、これが完了しないと地下躯体工事も上部建家工事も着手できない。そこで大屋根3面のうち2面にジャッキシステムによる横引き工法を採用した。この横引き工事は現在の当社実績のなかでも最大のもので、2棟で計4,000t、しかも屋根両端だけでなく、屋根中央の柱も一体化し、3カ所で牽引する横引きであった。この方法は屋根両端部分と柱部分の荷重状態が異なるためそのバランスをとるのがポイントであるが、多数の見学者の見守るなか無事終了した。こうして大型機械の搬入が不可能という難問も克服し、大屋根の下でPC建家の並行工事も可能となり、大いに工期短縮を図ることができた。請負金は63億5,028万円、設備工事は別途で、所長は内田要治であった。

東京都中央卸売市場大田市場(青果棟)(JV)
<東京都>昭和63年11月竣工
発注 東京都
設計 東京都中央卸売市場、日建設計 工事概要 SRC造およびS造、3F、延9万5,082㎡
東京都中央卸売市場大田市場(青果棟)(JV)
<東京都>昭和63年11月竣工
発注 東京都
設計 東京都中央卸売市場、日建設計 工事概要 SRC造およびS造、3F、延9万5,082㎡

拡大し続けるホテル需要

昭和50年代から続いている第3次ホテルブームは60年代に入っても衰える気配をみせず、とくに60年代では年間400軒前後の増加を維持している。この数字は、44年(1969)わが国に存在していたホテル軒数とほぼ等しい。こうして平成元年はホテル軒数でみると40年の20倍、客室数では15倍、また45年比でみるとホテル軒数、客室数とも約10倍となった。そしてここ数年の傾向は、大都市圏から地方中核都市、県庁所在地、さらにはそれ以外の小都市へとその建設ブームが広がっていることである。都心部や新たなビジネスセンターでの都市再開発プロジェクトのテナントとして出店する例も増え、高級ホテルよりは廉価だが施設構成ではビジネスホテルより充実している中級ホテルも増加している。さらには、リゾートホテルの急増や日本企業の資本による海外でのホテル建設も増加していった。

右表は、62年~平成2年に竣工した当社施工の代表的な国内のホテルであるが、このほかに海外で、花園飯店(上海)、ホテルニッコーメヒコ(メキシコシティ)、サーファーズ・パラダイス・トラベルロッヂ(オーストラリア・クイーンズランド州)などが建設され、シェラトンカウアイホテル(ハワイ)やロイヤルホリデイインクラウンプラザ(シンガポール)での大規模な改修工事もあった。

オークラホテル丸亀(JV)
<香川県>昭和62年12月竣工
発注 大倉工業
設計 当社
オークラホテル丸亀(JV)
<香川県>昭和62年12月竣工
発注 大倉工業
設計 当社
伊勢志摩ロイヤルホテル
<三重県>昭和62年6月竣工
発注 大和ハウス工業
設計 当社
伊勢志摩ロイヤルホテル
<三重県>昭和62年6月竣工
発注 大和ハウス工業
設計 当社
花園飯店(上海)
<中国・上海市>1990年3月竣工
発注 花園飯店(上海)
設計 当社 設計コンサルタント 華東建築設計院
花園飯店(上海)
<中国・上海市>1990年3月竣工
発注 花園飯店(上海)
設計 当社 設計コンサルタント 華東建築設計院
宝塚ホテル第3新館
<兵庫県>平成元年9月竣工
発注 阪急電鉄
設計 日建設計
宝塚ホテル第3新館
<兵庫県>平成元年9月竣工
発注 阪急電鉄
設計 日建設計
ホテルコスモ横浜
<神奈川県>平成2年2月竣工
発注 国際興産
設計 久米建築事務所
ホテルコスモ横浜
<神奈川県>平成2年2月竣工
発注 国際興産
設計 久米建築事務所
函館大沼プリンスホテル
<北海道>平成2年6月竣工
発注 西武ゴルフ
設計 黒川紀章建築都市設計事務所 第3次ホテルブーム後半(昭和62年~平成2年)に完成した当社施工の代表的なホテル・旅館(国内)
函館大沼プリンスホテル
<北海道>平成2年6月竣工
発注 西武ゴルフ
設計 黒川紀章建築都市設計事務所 第3次ホテルブーム後半(昭和62年~平成2年)に完成した当社施工の代表的なホテル・旅館(国内)

名古屋東急ホテル(JV)

このプロジェクトは、客室数568、大小宴会場12、店舗13、延6万㎡の大型都市ホテルを、企画から竣工まで35カ月という厳しい時間的制約のもとに建設しなければならないという課題に、ゼネコンの設計・施工のメリットを最大限に活用して挑戦したものである。

着工は昭和60年(1985)10月、敷地は、名古屋市中心部の旧中京女子大跡地で、主要前面道路には敷地のごく一部(幅13m)で接するのみで、上空はNTT電波伝播路が対角線状に縦断している。さらに建物外観はいずれも隣地の建物に遮蔽され街路から見えなくなるというホテルにとってはあまり芳しくない立地であった。そのため内部空間をより豊かにすることを設計主眼とし、内部はヨーロッパ調の本格的国際ホテルとしてまとめ上げられている。シャンデリア、椅子および張地などはオーストリアから買い付け、またアトリウムラウンジやメインバーの人造石やレリーフ、大宴会場の装飾やシャンデリア、エレベータ内の金砂子仕上げ等に手づくりの良さが感じられるよう工夫を凝らした。工期短縮のため地上階はすべてS造、内外仕上げとも極力プレハブ化、軽量化、乾式化し、構造コスト削減のため八字型偏心ブレースを採用した。また、設備では吹抜け空間の温度制御システム、畜熱槽の容量制御および監視システム、エネルギー計量および部門別エネルギー料金計算システムなど実用的な新システムも導入した。

こうしてインテリアデザインはもちろん、サインデザインからロゴマーク、コースター、ファッションプレートに至るまで目に触れるものほとんどを当社でデザインし、ホテルのターンキー受注のノウハウを畜積した。施工は当社(幹事会社)と新井組のJVで、請負金は84億2,006万円、所長は浅田仁司、設計は細川清和である。なお、当ホテルは平成元年BCS賞を受賞したほか、SDA賞佳作(63年)、愛知県快適空間賞(平成4年)などもあわせて受賞している。

名古屋東急ホテル(JV)
<愛知県>昭和62年7月竣工
発注 東急ホテルチェーン
設計 当社、新井組共同企業体
工事概要 SRC造およびS造一部RC造、B2、16F、PH2F、延5万7,086㎡、客室568室 (左下写真は吹抜けホール、大宴会場)
名古屋東急ホテル(JV)
<愛知県>昭和62年7月竣工
発注 東急ホテルチェーン
設計 当社、新井組共同企業体
工事概要 SRC造およびS造一部RC造、B2、16F、PH2F、延5万7,086㎡、客室568室 (左下写真は吹抜けホール、大宴会場)

加賀屋「能登渚亭」「雪月花」

能登半島七尾湾にのぞむ和倉温泉・加賀屋は、「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」で、昭和55年(1980)以来12年連続日本一の座を独占している和風旅館の名門である。

創業は明治39年であるが、当社は昭和55年に初めて特命・単独で「能登渚亭」を受注し、日本海側最大の高層旅館の工事に着手した。岩盤まで18~52mと高低差がある複雑な地盤、海に面しているため心配された土留め・止水・掘削、吹雪の中でのコンクリート打設、海上クレーンでの足場解体、さらに日本旅館特有の複雑で凝った設計のおさまりの難しさなどを克服し、56年5月竣工、翌6月、客室数78、大小宴会場7などをもつ新館がオープンした。

続いて62年4月から、この能登渚亭に隣接して「雪月花」に着工、旅館建築としては最高層を誇る高さ71mで、一般ビルとしても北陸最高層のものであった。雪月花は前の能登渚亭と同様、凝った数寄屋風建築で、外観はRC造の和風の庇がつき、内装も木工事が主体となっている。そのため造作工事などで技量をもつ大工や石工が相当人数必要であったため、全国から集めて施工に当たった。こうして平成元年9月、客室数125、大小宴会場43のほか、コンベンションホールや多数の会議室など伝統のなかにも新基軸を盛り込んだ旅館が誕生した。

能登渚亭の請負金は33億750万円、所長は佐藤敏文であり、雪月花の請負金は127億8,700万円、所長は竹沢忠彦であった。

加賀屋「能登渚亭」「雪月花」
<石川県>昭和56年5月竣工(能登渚亭) 平成元年9月竣工(雪月花)
発注 加賀屋
設計 山本勝建築設計室
工事概要 能登渚亭/SRC造一部RC造およびS造、12F、PH付、延1万3,742㎡、客室78室
雪月花/SRC造、B1、18F、PH2F、延3万3,000㎡、客室125室 (左下写真は能登渚亭メインロビー、雪月花・錦大路のカクテルラウンジ)
加賀屋「能登渚亭」「雪月花」
<石川県>昭和56年5月竣工(能登渚亭) 平成元年9月竣工(雪月花)
発注 加賀屋
設計 山本勝建築設計室
工事概要 能登渚亭/SRC造一部RC造およびS造、12F、PH付、延1万3,742㎡、客室78室
雪月花/SRC造、B1、18F、PH2F、延3万3,000㎡、客室125室 (左下写真は能登渚亭メインロビー、雪月花・錦大路のカクテルラウンジ)

南海サウスタワーホテル大阪(JV)

当ホテルは、南海電鉄難波駅と商業施設・なんばCITYからなるターミナルビルの真上に建つ高さ147mの大阪一の高層ホテルである。南海電鉄難波駅ターミナル整備計画の最終工事であるとともに、難波地区再開発の第一歩に位置づけられ、関西国際空港の玄関口を飾るにふさわしいランドマークを目指して計画された。

南海電鉄が難波駅改造整備工事に着手したのは昭和47年(1972)、当社もこの工事に携わり、ターミナルビルが完成したのは55年11月であった。この時からここに超高層ホテルを建設することは計画されており、基礎の構造もそれに対応できるように設計されていた。そして今回、花博や関西国際空港へ向け、新たにシティリゾートをテーマにした国際シティホテルにコンセプトを変更して着手することとなった。

63年1月着工と同時に鉄骨建方から開始、施工は当社(幹事会社)、竹中工務店、南海建設の3社JVで行った。1日乗降客40万人、買物客25万人という場所での工事のため搬出入計画はとくに難問であった。そこで、150tクローラクレーンで資材を直接ターミナルビル屋上に吊り上げ、そこから建設ヤードまで約100mのレール上に20t自走台車を走らせる方法を採用した。また、タワークレーンを本設の鉄骨で支持する受架台とその盛替え作業を簡略化する方法を考案し、作業の安全性ならびに工期の短縮などに大いに効果をあげた。この方法は当社の第4回全国SK大会で金賞を受賞し、特許も取得した。また、複雑な形状をもつ外装、高層棟直下に設けられた大きなアトリウム、壮大なラウンジなどは当ホテルの特徴となっているが、この外装工事は高所での細かな仕事となり神経を遣う作業であった。こうして既存建物の改修工事も終え、工事は平成2年2月無事完成、客室数548、大小宴会場18、レントラン・バー12の豪華ホテルが同年3月オープンした。請負金は110億3,840万円、鉄骨は支給であった。所長は若井正次である。

南海サウスタワーホテル大阪(JV)
<大阪府>平成2年2月竣工
発注 南海電気鉄道
設計 日建設計
工事概要 SRC造およびS造、B3、36F、延6万7,778㎡、客室548室 (左下写真はロビー吹抜け)
南海サウスタワーホテル大阪(JV)
<大阪府>平成2年2月竣工
発注 南海電気鉄道
設計 日建設計
工事概要 SRC造およびS造、B3、36F、延6万7,778㎡、客室548室 (左下写真はロビー吹抜け)

横浜プリンスホテル

当ホテルは、横浜・磯子の海に向かって台形に突き出た丘の上に、弓を張ったような優美な曲線を見せてそびえ立っている。客室数441、大小宴会場31、レストラン11など、横浜でも最大級の規模を誇るホテルである。

規模ばかりでなく、弓形をなす高層棟の5階より上の客室は、一般の都市ホテルより3~4割広く、ブルーを主体としたガラスモザイクの大きくうねるような壁に囲まれた4層吹抜けのアトリウムの豪華さなどグレードも国際級となっている。工事は昭和62年(1987)10月スタートしたが、こうしたグレードに十分配慮するとともに、柔らかな弓状を描く外壁の施工、また、客室相互、宴会場相互の遮音や振動、防熱など難しい技術に対して一層の慎重を期して施工に当たった。

建物は高層棟に包まれるように後方に低層棟が連なっているが、これらに囲まれた庭には、貴賓館として旧東伏見宮別邸を修復改築した和風建物が建ち、低層棟の流れるような屋根とよくマッチしている。オープンは平成2年5月である。

敷地は旧磯子プリンスホテルと旧ゴルフ場部を合わせた6.2㏊と広大なもので、将来は当ホテルをはじめスポーツ・レジャー施設を併設した一大都市型リゾートとなる計画である。請負金は190億815万円(厨房設備・什器備品などは別途)、所長は金澤治夫であった。なお、当建物は平成3年BCS賞を受賞した。

横浜プリンスホテル
<神奈川県>平成2年3月竣工
発注 西武鉄道
設計 村野・森建築事務所
工事概要 SRC造一部S造、B2、13F、延6万8,877㎡ 客室441室 (左下写真は吹抜けアトリウム)
横浜プリンスホテル
<神奈川県>平成2年3月竣工
発注 西武鉄道
設計 村野・森建築事務所
工事概要 SRC造一部S造、B2、13F、延6万8,877㎡ 客室441室 (左下写真は吹抜けアトリウム)

一層の充実を図る庁舎建築

官庁施設の建設は、行政需要の増大に伴う施設の建設、老朽庁舎の建替えならびに合同庁舎化を主要な目的としてこれまで進められてきた。しかし、わが国社会・経済の発展と全国的な都市化の進展、情報化社会への急速な移行が進むなかで、社会生活基盤として重要な役割を担う行政施設の一層の充実が求められ、施設の再配置、インテリジェント化への対応も必要になってきた。

当社は、中央官庁施設では法務省の神戸法務総合庁舎(JV)や大阪刑務所諸工事(庁舎他)、郵政省の広島郵便貯金会館・広島中郵便局(JV)、都道府県庁舎では東京都第二本庁舎(JV)を筆頭に三重県警察本部庁舎(JV)、滋賀県庁舎新館増築及び公文書センター(JV)、宮城県行政庁舎(JV)、北海道庁西地区複合施設(JV)、市町村庁舎では福岡市庁舎行政棟(JV)、名張市庁舎(JV)、小牧市役所南庁舎(JV)、守谷町庁舎(JV)、上尾市庁舎(JV)の各庁舎を昭和62年(1987)から平成3年にかけて建設した。

上尾市庁舎(JV)
<埼玉県>平成3年11月竣工
発注 上尾市
設計 佐藤総合計画
上尾市庁舎(JV)
<埼玉県>平成3年11月竣工
発注 上尾市
設計 佐藤総合計画

宮城県行政庁舎(JV)

旧宮城県庁舎は昭和6年(1931)当社の手で完成したものであったが、53年の宮城沖地震がきっかけとなり、新庁舎建設計画は一気に加速した。工事は3期に分けられ、61年5月に第1期の議会棟(他社JV)が完成、続いて第2期の行政庁舎が61年7月、当社(幹事会社)、鹿島建設、大成建設、フジタ工業ほかの9社JVで着工した。工事は旧庁舎の一部保存復元のための型取り、解体工事から開始したが、建築の9社JVに各設備JVを加えると構成会社は26社に及び、この集団を軌道に乗せるには多大な労苦を要した。

延1万7,000㎡の旧建物解体、11万㎥の掘削は予定どおり進んだが、その後、作業員不足による工事の遅れが生じ、これを取り戻すべく鉄骨建方に先組み工法を、高層部地上階は鉄骨の進捗にあわせてほぼ同時に外装PC板、サッシュ、ガラスを順次施工する工法を採用した。また、当社が開発したオートクランプを鉄骨建方に使用し、外装パネル取付けには自動昇降足場を採用し、成果を収めた。

当庁舎は、屋上にヘリポート、衛星通信施設など地方公共団体庁舎としては全国初の試みがいくつかあり、計画中の都庁関係者をはじめとする見学者が工事中から相次いだ。途中、建物のインテリジェント化に対応する全面的な追加変更工事や外構工事の追加があったが、平成元年5月、工事は工期どおり完成した。請負金は33億1,672万円(設備工事は別途)、所長は葛和敬章であった。

宮城県行政庁舎(JV)
<宮城県>平成元年5月竣工
発注 宮城県
設計 日建設計、三菱地所、山下設計
工事概要 SRC造、B2、18F、PH2F、延7万2,514㎡
宮城県行政庁舎(JV)
<宮城県>平成元年5月竣工
発注 宮城県
設計 日建設計、三菱地所、山下設計
工事概要 SRC造、B2、18F、PH2F、延7万2,514㎡

東京都第二本庁舎(JV)

一大設計コンペとして、多くの建築家が覇を競った東京都新庁舎は、昭和61年(1986)4月、丹下健三・都市・建築設計研究所案に決定し、63年3月着工した。工事は大きく第一本庁舎、第二本庁舎、都議会議事堂の3ブロックに分かれ、当社は第二本庁舎を鹿島建設、西松建設、住友建設ほかとの10社JVで施工した。

新庁舎の巨大さは当初より評判を呼び、総建設経費は総額1,569億円、工事に携わった人員は3年間で延約150万人、使用された鉄骨は約7万8,000t(第二本庁舎2万8,000t)でエッフェル塔9基分、延床面積は約38万1,000㎡(第二本庁舎14万20㎡)で霞が関ビルの約2.3倍という膨大さであった。ちなみに、地下20~23mまでの掘削土は22万㎥(総量64万㎥)にものぼり、この掘削土は、当社もその施工に携わった東京国際空港(羽田)沖合展開や若洲ゴルフリンクス、青少年キャンプ場等の造成に有効利用された。

構造はスーパーストラクチャー構造で高い耐震性をもつ建物となっている。また、外壁はスウェーデン産とスペイン産花崗石をいずれもイタリアで半製品化し、日本で電波吸収材をセットしたPC板と一体化して乾式工法によって取り付けたが、第二本庁舎だけでもその面積は4万4,700㎡にのぼった。内装では、コンピュータ室に免震床を、他のオフィスエリアではフリーアクセスフロアを導入するなど、防災とインテリジェント化対応の技術が組み込まれている。工事にあたっては日本最大のタワークレーン2基を含む計4基を使用し、3層1節の積層工法で工期の短縮を図った。請負金は81億3,300万円(設備工事は別途)、所長は佐々木良昭である。なお当庁舎は平成4年BCS賞を受賞した。

東京都第二本庁舎(JV)
<東京都>平成3年3月竣工
発注 東京都
設計 丹下健三・都市・建築設計研究所
工事概要 SRC造およびS造、B3、34F、延14万20㎡
(右の建物が東京都第二本庁舎)
東京都第二本庁舎(JV)
<東京都>平成3年3月竣工
発注 東京都
設計 丹下健三・都市・建築設計研究所
工事概要 SRC造およびS造、B3、34F、延14万20㎡
(右の建物が東京都第二本庁舎)

海外でさらなる飛躍

わが国の海外建設工事受注額(現地法人分も含む)は1986年度(昭和61年度)に1兆円を割って以来3年間低迷していたが、1989年度に入ってようやく1兆円の大台を回復した。この間の動きとしては、従来のアジア地域にとどまらず米国等の先進国市場での急速な伸展があった。1988年度の地域別シュアでも米国29%、大洋州15%、ヨーロッパ7%で過半数を占め、アジアは42%であった。

当社はアジアへ進出してすでに20年余がたとうとしており、とくにアジアNIESからさらに労働力の安いタイへの日本企業の移動にしたがって、タイ大林が1988年度以降空前の受注高伸長を遂げ、ジャヤ大林も工事請負だけでなく、ゴルフ場開発事業やテナントビル事業への投資で受注量拡大を続けていった。こうしたなか、1989年にタイ大林は創立15年、1992年にジャヤ大林は創立20年を迎えた。1990年に入ると一時低迷していたシンガポールでも再び活気を取り戻し、大型工事を次々受注した。

1990年までに完成したタイ大林の代表的工事は、パインハースト・ゴルフアンドカントリークラブ、NMB(ミネベア)タイランドバンパイン工場であった。また、同国での当社の直轄工事としてはバンコック高速道路第1期(ダオカノン~ポート)が完成した。シンガポールでは地下鉄、MRT第1期南北線109工区(JV)・同第2期東西線304工区(JV)、ブラスバサ・コンプレックスビル、ホウパービラガーデン改修、ロイヤルホリデイインクラウンプラザ(改修)が完成、オーストラリア・ブリスベーンでは超高層ビルのウォーターフロント・プレース・コンプレックスが完成した。また、中国の北京長富宮センター、花園飯店(上海)、北京発展ビルも平成に入って相次いで完成した。

大型ODA工事も相次ぎ、タイ社会教育文化センター(タイ)、バンナラ灌漑水門(タイ)、メグナ橋(バングラデシュ)(1991年2月竣工)、中央林業開発訓練センター(ミャンマー)、ワニ養殖研究所や土壌研究開発センター(フィリピン)などが完成した。

欧州ではキヤノンヨーロッパ本社ビル・物流倉庫、HOYAビルディングアウトホルン、日産欧州本社ビルなど(いずれもオランダ)が完成し、米国では以下のとおり多くを施工したが、なんといっても最大のものは米国トヨタ自動車ケンタッキー乗用車製造工場であった。

●1987~1990年の米国での主な工事

<当社>

ミネアポリス下水道トンネル、ワシントンD.C.地下鉄B-10C工区(JV)、テンペ排水トンネル(JV)、ロサンゼルス地下鉄A171工区(JV)・A146工区(JV)、米国松下電子カラーブラウン管工場(JV)

<大林アメリカ>

キャニオン・ヒルズ・クラブ老人ホーム

<ロバーツ大林>

ミッションウエルズアパート第1期・第2期、カーサ・サンドバル、バイロン・パーク

<シタデル>

キヤノン・バージニア工場、松下冷機米国工場

タイ社会教育文化センター
<タイ・バンコック市>1987年3月竣工
発注 タイ政府文部省
設計 久米建築事務所
タイ社会教育文化センター
<タイ・バンコック市>1987年3月竣工
発注 タイ政府文部省
設計 久米建築事務所
ミネアポリス下水道トンネル
<米国・ミネソタ州>1988年9月竣工
発注 ミネアポリス下水処理委員会
設計 CSCジョイント・ベンチャー・グループ
ミネアポリス下水道トンネル
<米国・ミネソタ州>1988年9月竣工
発注 ミネアポリス下水処理委員会
設計 CSCジョイント・ベンチャー・グループ
ウォーターフロント・プレース・コンプレックス
<オーストラリア・クイーンズランド州>1989年12月竣工
発注 ウォーターフロント・プレース(№2)プロプライエトリーリミテッド、ウォーターフロント・プレース(№3)プロプライエトリーリミテッド
設計 当社、キャメロン・チソルム・ニコル
(写真中央の黒い建物)
ウォーターフロント・プレース・コンプレックス
<オーストラリア・クイーンズランド州>1989年12月竣工
発注 ウォーターフロント・プレース(№2)プロプライエトリーリミテッド、ウォーターフロント・プレース(№3)プロプライエトリーリミテッド
設計 当社、キャメロン・チソルム・ニコル
(写真中央の黒い建物)
バンコック高速道路第1期(ダオカノン~ポート)
<タイ・バンコック市>1987年9月竣工
発注 タイ政府内務省高速道路公団
設計 アジア・エンジニアリング・コンサルタント
バンコック高速道路第1期(ダオカノン~ポート)
<タイ・バンコック市>1987年9月竣工
発注 タイ政府内務省高速道路公団
設計 アジア・エンジニアリング・コンサルタント
ブラスバサ・コンプレックスビル
<シンガポール>1989年8月竣工
発注 データクエスト社
設計 アール・エス・ピー
ブラスバサ・コンプレックスビル
<シンガポール>1989年8月竣工
発注 データクエスト社
設計 アール・エス・ピー
ロイヤルホリデイインクラウンプラザ(改修)
<シンガポール>1990年8月竣工
発注 Sajahtera Investment (S) PTE,LTD.
設計 RSP Architects Planners & Engineers
(写真はロビー)
ロイヤルホリデイインクラウンプラザ(改修)
<シンガポール>1990年8月竣工
発注 Sajahtera Investment (S) PTE,LTD.
設計 RSP Architects Planners & Engineers
(写真はロビー)
キャノンヨーロッパ本社ビル・物流倉庫(大林ヨーロッパ)
<オランダ・アムステルフィーン市>1988年7月竣工
発注 キヤノンヨーロッパ
設計 キヤノンヨーロッパ
キャノンヨーロッパ本社ビル・物流倉庫(大林ヨーロッパ)
<オランダ・アムステルフィーン市>1988年7月竣工
発注 キヤノンヨーロッパ
設計 キヤノンヨーロッパ
NMB(ミネベア)タイランドバンパイン工場(タイ大林)
<タイ・アユタヤ県>1989年11月竣工
発注 NMBタイランド
設計 タイ大林 (点線部が当社施工部分)
NMB(ミネベア)タイランドバンパイン工場(タイ大林)
<タイ・アユタヤ県>1989年11月竣工
発注 NMBタイランド
設計 タイ大林 (点線部が当社施工部分)
日産欧州本社ビル(大林ヨーロッパ)
<オランダ・アムステルダム市>1990年12月竣工
発注 ニッサンヨーロッパ、ニッサンモーターアクセプタンス(オランダ)
設計 ゾップ社
日産欧州本社ビル(大林ヨーロッパ)
<オランダ・アムステルダム市>1990年12月竣工
発注 ニッサンヨーロッパ、ニッサンモーターアクセプタンス(オランダ)
設計 ゾップ社

シンガポールMRT第1期南北線109工区(JV)・第2期東西線304工区(JV)

シンガポールMRT(Mass Rapid Transit)は、現在総延長約67㎞(地下部分約19㎞)に42駅(地下駅15駅)があるASEAN諸国初の地下鉄である。当時、超大型プロジェクトとして世界中から注目され、工事獲得競争は熾烈を極めた。そして第1期工事として当社(幹事会社)は南北線109工区(全長約2,300m、シールドトンネル、オートラム駅および渡り線工事を含む)を奥村組とのJVで公共工事では初の設計・施工・コーディネーションの形態で受注し、1983年(昭和58)11月工事はスタートした。翌年5月からトンネル部のシールドが発進し工事は本格化したが、平均土被り約12mと浅いうえ、地山は崩壊性の変化に富んだ風化土・岩のため、ロードヘッダ搭載の半機械式シールドに圧気工法やロックボルト、ショットクリート{}地盤改良などを施し、さらに縫地、手掘り掘進を繰り返すという新旧技術を駆使しての難工事であった。

この第1期工事中の1986年1月、第2期工事の東西線304工区(全長3,266mのうちトンネル部706m、高架部2,560m、ケンバンガン駅とベドック駅を含む)を当社(幹事会社)と現地業者RDC社(Resource Development Corporation)とのJVで受注した。トンネル部はオープンカットで、高架部では場所打ち杭1,588本、橋脚150基、PC桁212桁などを施工し、1989年9月予定どおり工事は竣工し、シンガポールの地下鉄は翌年全線が開通した。

なお、当工事では激しいクレーム交渉が行われたのも特徴であった。109工区では、前述したように、入札時に予測できなかった地質状況による工期および工事費用の追加要求を提出した。その交渉は難航したものの成功裡に解決した。請負金は109工区が4,182万シンガポールドル(邦貨約39億8,567万円)、304工区が6,091万シンガポールドル(邦貨約41億6,297万円)で、残土処理工事(111工区)は1,690万シンガポールドル(邦貨約13億5,000万円)であった。所長は109工区が田川信俊から増田知行に引き継がれ、304工区は今田宣夫であった。

注 ショットクリート:セメント、細骨材および水を圧縮空気によって吹き付けたモルタルのこと。

シンガポールMRT第1期南北線109工区(JV)
<シンガポール>1987年5月竣工
発注 MRTC
設計 当社、奥村組共同企業体
工事概要 シールドトンネル部/延長1,858m、内径5,300㎜、2本 駅舎部/延長176m、幅22m、B2、1F、延7,800㎡
渡り線部/延長230m、幅17~22m 建築仕上げ/設備工事、内装工事
シンガポールMRT第1期南北線109工区(JV)
<シンガポール>1987年5月竣工
発注 MRTC
設計 当社、奥村組共同企業体
工事概要 シールドトンネル部/延長1,858m、内径5,300㎜、2本 駅舎部/延長176m、幅22m、B2、1F、延7,800㎡
渡り線部/延長230m、幅17~22m 建築仕上げ/設備工事、内装工事
シンガポールMRT第2期東西線304工区(JV)
<シンガポール>1989年9月竣工
発注 MRTC
設計 デ ルー カーサー インターナショナル ウィルバー スミス アンド アソシエイツ(米国)
工事概要 工区延長3,266m、駅2カ所、トンネル延長706m、高架橋延長2,560m、高架橋桁258本
シンガポールMRT第2期東西線304工区(JV)
<シンガポール>1989年9月竣工
発注 MRTC
設計 デ ルー カーサー インターナショナル ウィルバー スミス アンド アソシエイツ(米国)
工事概要 工区延長3,266m、駅2カ所、トンネル延長706m、高架橋延長2,560m、高架橋桁258本

米国トヨタ自動車ケンタッキー乗用車製造工場

北米大陸の最南端フロリダ半島の先端からデトロイトを経由してカナダまで達する延長3,500㎞の国道75号線は、別名「オートモビル ハイウェイ」と呼ばれ、米国の代表的自動車会社、日本の進出自動車会社の各工場が点々と連なっている。トヨタ自動車がこのハイウェイ沿いのケンタッキー州スコットカウンティに、年産20万台規模の工場の建設計画を発表したのは1985年(昭和60)12月であった。推定工事費は生産諸設備を含め8億ドル(邦貨1,040億円)に達する超大型プロジェクトである。当社はこのプロジェクトを設計・施工のCM方式(コンストラクション・マネージメント方式)で受注することに成功した。

米国での一般常識では、優に3年半かかるといわれた延約40万㎡のこの工場を、造成から建家および原動力設備まですべてを設計込みで2年以内で完成するという突貫プロジェクトである。そのため工事は、設計完了を待って着工する余裕がなかったため、設計と並行して工事を進行させるいわゆるFast Track方式を採用した。

1986年2月に造成工事を開始、500tに及ぶダイナマイト、超大型ブルドーザ、スクレーパを昼夜兼行で駆使し、着工から5カ月で340万㎥の掘削および埋戻し転圧工事を完了し、建家本体工事に着手した。そのため、コンクリート工事と鉄骨工事の大部分を12月から2月の厳寒期(最低気温-20℃)に施工することになり、工期的にも技術面でも、また安全上からも多くの試練に見舞われた。

さらにケンタッキー州は、基本的にはノン・ユニオン地区であり、当初からノン・ユニオンを基本とする体制で工事を進めたが、ユニオン側からの猛烈な反対運動が起こり、1986年12月からユニオン方式への変換を余儀なくされた。

これらの諸問題を日米スタッフ一丸となったチームプレーと地元ゼネラルコントラクターによる協力で克服し、着工から1年半の1987年8月、予定どおり生産設備機器の据付けを開始し、翌年5月テスト1号車の完成へと、計画どおりの工期で工事は完成をみた。「建設工事の計画と管理が科学として認められている米国で、この工事の規模に対して非現実的と考えられた工期をみごとに実現したことは、各方面から驚異と称賛をもって評価され、当社の米国における実績をまた大きく前進させたことになったと思う」と溝口所長は後に語っている。請負金は土木、建築工事ともで4億3,053万ドル(邦貨約622億8,751万円)であった。所長は大場若夫から溝口哲也に引き継がれた。

米国トヨタ自動車ケンタッキー乗用車製造工場
<米国・ケンタッキー州>1988年5月竣工
発注 トヨタモーターマニュファクチァリングU.S.A.
設計 当社、ギッフルズ・アソシエイツ
工事概要 土木工事/表土除去40万㎥、土砂掘削167万㎥、岩掘削112万㎥、岩土砂混合盛土177㎥、盛土80万㎥、機械基礎岩掘削9万㎥
建築工事/S造、平家、プレス工場、ボディー工場、塗装工場、組立工場、プラスチック工場ほか全15棟、総延36万9,760㎡
米国トヨタ自動車ケンタッキー乗用車製造工場
<米国・ケンタッキー州>1988年5月竣工
発注 トヨタモーターマニュファクチァリングU.S.A.
設計 当社、ギッフルズ・アソシエイツ
工事概要 土木工事/表土除去40万㎥、土砂掘削167万㎥、岩掘削112万㎥、岩土砂混合盛土177㎥、盛土80万㎥、機械基礎岩掘削9万㎥
建築工事/S造、平家、プレス工場、ボディー工場、塗装工場、組立工場、プラスチック工場ほか全15棟、総延36万9,760㎡

メグナ橋

バングラデシュの首都ダッカは内陸部にあり、同国最大の貿易港チッタゴンとは最重要幹線道ダッカ・チッタゴン道路で結ばれている。しかし、この道路はフェリー渡河部分が2カ所残っており、そこへの架橋が以前から強く望まれていた。当社は、1970年(昭和45)~1977年に同道路でシタラキヤ橋の建設に携わったが、同国第2弾の工事としてメグナ橋の建設に1987年3月着手した。架橋地点のメグナ河は雨季(5~10月)と乾季の水位差が4mもあり、同国では最大の暴れ河といわれている。また河川幅も870mと広く、水深は10mと深い。

工事は12基の橋脚、2基の橋台を造り、全長930mの上部工はフレシネー方式のカンチレバー工法により施工、さらに左右両岸部に計1,965mの取付道路や護岸工事も行うという大規模な工事を単独で施工するものであった。1987年7月、キャンプヤード建設(埋立工事、バッチャープラント・クラッシャープラントの組立て、事務所等の建設)やセメント、骨材、鉄骨などの調達と貯蔵を行って工事の基礎を築くことから約4年の工事がスタートした。引き続いて橋脚の仮締切り、リバース杭等下部工構築が、ハタールと呼ばれるストライキの勃発、非常事態宣言という不穏な空気の中で進行していった。明けて1988年、上部工の工事を開始したが、たび重なる竜巻や洪水に工事は幾度か危機に見舞われた。あの未曾有の大洪水では現場員は約30㎞離れたダッカ市内の宿舎からエンジンボートで片道4時間かけて数日通ったこともあった。1990年に入り工事は順調に進捗し、3月待望の連結式が橋上中央部において挙行され、その後、舗装工事を終え、メグナ橋の全容がここに出現した。

同年5月1日、日本の海部首相とバングラデシュのエルシャド大統領が出席して盛大な開通式が挙行され、1991年2月、すべての工事を完了してバングラデシュ国に引き渡した。

なお、当プロジェクトでは技術移転が請負者の履行責務と明示されていたが、毎日の作業をとおしての反復教育を行い、現地の職員、作業員は十分これを習得した。こうして日本側からコンサルタント20人、当社職員17人、1日最高1,000人の現地の人々が従事したメグナ橋は、両国友好のランドマークとなり、「日バ友好第一橋」と名付けられた。請負金は当社グラント工事としては過去最高の73億8,700万円、所長は竹谷 清であった。

メグナ橋
<バングラデシュ・ナラヤンガンジー県>1991年2月竣工
発注 バングラデシュ政府運輸省道路局
設計 パシフィックコンサルタンツインターナショナル・日本工営共同企業体
工事概要 橋長930m、幅員9.2m(うち車道7.2m)、取付道路右岸(ダッカ側)937m、同左岸(コミラ側)1,028m、下部工(橋脚12基、橋台2基)、上部工(場所打ちカンチレバー工法)
メグナ橋
<バングラデシュ・ナラヤンガンジー県>1991年2月竣工
発注 バングラデシュ政府運輸省道路局
設計 パシフィックコンサルタンツインターナショナル・日本工営共同企業体
工事概要 橋長930m、幅員9.2m(うち車道7.2m)、取付道路右岸(ダッカ側)937m、同左岸(コミラ側)1,028m、下部工(橋脚12基、橋台2基)、上部工(場所打ちカンチレバー工法)
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