■―大阪城天守閣の復元
大阪のシンボルとして市民に親しまれる大阪随一の名所、大阪城天守閣の復元は昭和6年(1931)10月30日に竣工したが、当社施工による記念的建造物の一つである。
昭和天皇の即位御大典(3年)を記念し、2年4月、大阪市会は大阪城天守閣の再建を決議し、総予算は150万円(第4師団司令部庁舎新築、公園施設を含む)として全額市民の寄付によることとした。
当時、この地には第4師団司令部が所在し、陸軍用地であったが、そのうち旧本丸一帯の地を市民に開放して公園とし、ここに豊太閤時代の天守閣を、現代の材料と工法で復元しようというものであった。
設計、監理には大阪市土木局建築課が当たり、4年2月の起工式後、公園施設と師団司令部庁舎はただちに着工したが、天守閣については往時の姿を伝える資料が皆無のため、設計は容易に進まなかった。たまたま旧福岡藩主黒田家に伝わる「大坂夏の陣屏風」の一隅にそれが描かれていることを知り、その信頼性を研究した結果、これを全面的に採用することとなり、設計は急速に具体化、5年4月、当社がこれを受注した。
天守閣は、鉄骨鉄筋コンクリート造の5層8階、延1,534坪(5,062㎡)、楼上に高さ7尺の金の鯱を置き、地上高は174尺(53m)である。工事材料は大手門から搬入する手はずであったが、城内の通路は曲折が多く、また軍用地のため出入りが不自由であるため、鉄骨以外の諸材料は、濠をへだてて架設したケーブルを用いて運搬した。また、工事に使用したエレベータは225尺(68m)という前例のない高さで、これらはいずれも市民の話題となった。工事主任は森定松之祐であった。
太閤の隆盛を再現
大阪城は豊臣秀吉が天正11年(1583)に完成したと伝えられるが、元和元年(1615)の夏の陣でほとんど壊滅した。徳川幕府はさらにこれを徹底的に破壊し、寛永7年(1830)、全く新しい大阪城を構築した。造営を命じられたのは西国、北陸の諸侯64家で、これらの家紋は石垣に刻まれて現存する。天正時代の大阪城に比べると規模ははるかに縮小され、本丸、二の丸を残し、旧三の丸の大部分には町家が建築された。このとき建てられた天守櫓(天守閣)は小堀遠州の設計と伝えられるが、寛文5年(1665)雷火で焼失し、さらに明治維新の動乱に際し、本丸、二の丸、山里丸のほとんどを焼失した。その後城跡は陸軍用地となり、正午の時刻を告げる午砲(ドン)の所在地として市民に親しまれた。
天守閣再建計画は、ここに当初の大阪城、豊太閤時代の姿を復元しようとするものであった。