大林組100年史

1993年に刊行された「大林組百年史」を電子化して収録しています(1991年以降の工事と資料編を除く)。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

5 海外拠点の拡充

■―海外駐在員事務所の開設

海外工事に関する営業活動を一層有効的に行うためには、進出する海外諸国の政治、経済、社会等の一般情勢の調査、建設市場の調査および的確な情報の収集が必要不可欠である。

当社では、現地に根づいた活動を推進するため、すでにバンコックおよびシンガポールに駐在員事務所を開設していたが、海外進出の拡大に対処し、昭和45年(1970)以降、次のように各地に駐在員事務所を開設した。

45年1月 台北駐在員事務所{}およびジャカルタ駐在員事務所

46年4月 ホノルル駐在員事務所(40年代に入りハワイで建築工事2件を受注、これを契機に念願のアメリカ市場への進出を図ることとした)

48年12月 ロサンゼルス駐在員事務所(ロサンゼルスに設立された大林アメリカコーポレーションの業務活動支援と、米国本土での営業活動強化のため)

49年9月 サンパウロ駐在員事務所

51年2月 アスンシオン駐在員事務所

注 台北駐在員事務所は、中国の国連加盟、日中国交回復の影響を受け、47年2月廃止された。

CNAパークプレイスビル(ロサンゼルス駐在員事務所は3階にあった)
CNAパークプレイスビル(ロサンゼルス駐在員事務所は3階にあった)

■―現地法人の設立

日本の海外建設は、戦前は旧植民地および軍関係工事が主で、いわば国内工事の延長であった。戦後は、まず沖縄の米軍関係工事、続いて賠償工事で海外工事は開始された。昭和40年代に入って、各社とも海外拠点として各地に駐在員事務所を設置し始めたが、ちょうどこの時期に東南アジアを中心に日本企業が進出を開始したので、この関連工事および日本政府のグラント工事、円借款工事等で本格的に海外に地歩を築くことになった。

そのころまでは、ほとんど邦人業者の直営体制で受注施工されていたが、日本企業の進出が増大するにつれ、各地の海外拠点がナショナリズム等の影響で現地法人化したり、あるいは新規進出の場合、ホスト国の法律により現地法人の設立を義務づけられたり等々で、しだいに海外法人化が進行していった。ジャヤ大林組コーポレーションおよびタイ大林コーポレーションが設立されたのもこのころであった。

当社の海外進出は他社に比べて早い方であったが、昭和46年度(1971年度)を起点とする経営5カ年計画においても、土木、建築両部門とも海外工事の増大は工事獲得消化計画の一つの柱とされた。すなわち、ハワイ、東南アジア諸地域を重点地域として、市場調査および情報の収集を行うとともに、円借款工事、世界銀行借款工事、日本からの進出企業の工事等の受注に努めること、大手商社との連携、現地有力業者との提携についても積極的に進めることとしている。

こうした方針のもとに、この時期、海外工事獲得の手段としていち早く以下の現地法人の設立に踏み切り、よいパートナーとの提携もあって、おおむね成功を収めた。

まず47年1月、日本企業のインドネシアにおける工事の発注に即応するため、現地の有力業者であるプンバングナン・ジャヤ社との共同出資で次の現地法人を設立した。

●P.T.ジャヤ大林組コーポレーション{注1
 払込資本金 5万ドル(当社出資比率50%)
 授権資本金 50万ドル
 取締役社長 Ir.Ciputra{注2
 取締役副社長 茂野湘二
 常務取締役 笠原仰二
 同 Ir.Hanafi
 本店 ジャカルタ市

また、タイではバンコックに工事事務所があったが、47年11月に外国企業規制法、翌12月には外国人職業規制法が施行され、事業活動は強い規制を受けることになった。そこで49年5月、現地資本との合弁による次の会社を設立、バンコック工事事務所を閉鎖して、業務、資産を同社に引き継いだ。

●タイ大林コーポレーション
 払込資本金 1,000万バーツ(当社出資比率49%)
 取締役会長 Sommai Hoontrakool{注3
 取締役社長 村上忠直
 本店 バンコック市

同社はその後、受注、施工とも順調に推移し、日系企業はもとより、現地企業、公共機関からも工事の発注を受けるようになった。

アメリカにおいては、ロサンゼルス、サンフランシスコの日系企業からの発注工事を対象として、47年11月、次の会社を設立した。

●大林アメリカコーポレーション(OAC)
 払込資本金 10万ドル(当社全額出資)
 授権資本金 100万ドル
 取締役社長 大林芳郎
 取締役副社長 篠田駿二
 本店 カリフォルニア州ロサンゼルス市

さらに南米ブラジルにおいて、工事獲得を目的としてサンパウロに駐在員事務所を開設したのは49年9月であったが、続いて同年11月、資本金75万クルゼイロをもって大林ブラジル有限会社を設立した。取締役社長は坂本義雄、本店は同じくサンパウロに置いた。また、51年2月にはパラグアイのアスンシオンにも駐在員事務所を開設した。

ブラジル進出を決定したのは、同国の資源が豊富で、経済的潜在力が大きいと考えられたためであるが、実際にはインフレの昻進が甚だしく、国民生活も安定せず、期待に反する面が多かった。そのため、わずか数年で撤退することになり、53年11月に両駐在員事務所を廃止し、56年2月には大林ブラジル有限会社も解散するに至った。

注1 P.T.ジャヤ大林組コーポレーンョンは、その後の増資により資本金150万ドルとなった。当社は持分株式の1%をプンバングナン・ジャヤ社に譲渡し、出資比率を49%とした。また、同社は平成2年4月、社名をPT.ジャヤ大林(PT.JAYAOBAYASHI)に変更した。

注2 Ir.Ciputra氏:同氏は、1931年8月24日インドネシア・パリギ生まれ、1960年バンドン工科大学(建築学専攻)卒業、同国経済界の実力者の一人である。不動産・建設・工業・金融・観光産業で活躍するジャヤ、メトロポリタン、チプトラデベロップメントの三つの企業グループの創設者であり、現在もそれらの代表者である。インドネシア不動産協会、世界不動産協会の会長等を歴任。P.T.ジャヤ大林組コーポレーンョンでは、1972年1月から1974年6月まで社長職にあった。
注2 Ir.Ciputra氏:同氏は、1931年8月24日インドネシア・パリギ生まれ、1960年バンドン工科大学(建築学専攻)卒業、同国経済界の実力者の一人である。不動産・建設・工業・金融・観光産業で活躍するジャヤ、メトロポリタン、チプトラデベロップメントの三つの企業グループの創設者であり、現在もそれらの代表者である。インドネシア不動産協会、世界不動産協会の会長等を歴任。P.T.ジャヤ大林組コーポレーンョンでは、1972年1月から1974年6月まで社長職にあった。
注3 Sommai Hoontrakool氏:同氏は、1918年5月15日バンコック生まれ、タイ政財界の重鎮である。1942年慶應義塾大学経済学部修士課程を修了後、翌年タイ銀行に入社、同行総裁付取締役、ヤンヒー電力省総裁、タイ工業金融社会長、大蔵大臣、日タイ協会会長等を歴任、現在もタイ大林コーポレーンョンの会長職にある。数々のタイ王国勲章の受章者であり、わが国でも勲一等瑞宝章が同氏に授与されている。
注3 Sommai Hoontrakool氏:同氏は、1918年5月15日バンコック生まれ、タイ政財界の重鎮である。1942年慶應義塾大学経済学部修士課程を修了後、翌年タイ銀行に入社、同行総裁付取締役、ヤンヒー電力省総裁、タイ工業金融社会長、大蔵大臣、日タイ協会会長等を歴任、現在もタイ大林コーポレーンョンの会長職にある。数々のタイ王国勲章の受章者であり、わが国でも勲一等瑞宝章が同氏に授与されている。
タイ大林コーポレーションが入居していたタニヤビルディング
タイ大林コーポレーションが入居していたタニヤビルディング

■―海外における不動産事業

海外における不動産投資は、政府が資本の流出を規制したこともあり、昭和40年代前半まではきわめて少なく、わずかにハワイでホテル事業がみられた程度にすぎなかった。しかし、44年(1969)以降、数次にわたって資本の自由化が行われ、同時に金融が緩和されたことも重なり、企業の海外投資意欲を誘発して、47~48年には海外における不動産ブームが起こった。

ことに47年にわが国居住者の海外不動産取得が原則的に自由化されたことに伴い、大手の不動産業者はもとより、総合商社、建設業者その他の企業も、こぞって海外の開発事業に進出することになった。こうして不動産ブームは国内、国外を問わず発生した。当社が48年4月、不動産事業部門の強化を図って開発事業本部を発足させると同時に、海外においても開発事業を推進すべく海外事業部を設置したのは、このような情勢を背景としていた。

海外事業部は、海外における開発事業の基礎調査、企画立案等のコンサルティング業務を行うとともに、これを推進して建設需要を創出することを主な目的とした。しかし、その発足に先立つ47年、すでに当社ではハワイにおける活動を開始し、4月にはシェラトン社とカウアイ島のホテルの建物、借地権に関する購入契約を締結し、翌5月にはカイザー・エトナ社から、コンドミニアム(後のナニワガーデンズ)の開発権を購入する仮契約を結んでいた。次いで47年8月、これらを具体化するため次の現地法人を設立した。

●大林ハワイコーポレーション(OHC)
 払込資本金 30万ドル(当社全額出資)
 取締役社長 大林芳郎
 取締役副社長兼出納役 水穂金弥
 本店 ハワイ州ホノルル市

OHCは発足と同時に当社からコンドミニアムの開発権の譲渡を受け、翌48年にナニワガーデンズ(110戸収容の高層高級マンション)の建設に着手した。同マンションは50年3月竣工し、53年12月完売した。

また同社は、ハワイ・マウイ島西部の景勝地カアナパリ地区に90エーカーの土地(丘陵側)を取得したが、さらに同地区の海浜側に別荘地を開発すべく11エーカーの用地を取得し、49年1月、邦人企業2社と共同して資本金60万ドルのアイナラニカイ社を設立して、まず海浜側の開発事業に当たらせた。

アイナラニカイ社による開発事業は、開発許可を取得して実施に移すばかりになっていたが、第1次石油危機後の当社の業績悪化の影響から、事業撤退のやむなきに至り、カアナパリ海浜側の当該用地を売却した。しかし、OHCが所有していた丘陵側の区域は、後年OHCによって開発が進められ、現在高級別荘地として熟成してきている。

〈カアナパリ地区(丘陵側)開発事業の概要〉

総面積  90エーカー(36万4,200㎡、約11万坪)
分譲区画数等  分譲宅地159区画、分譲住宅200戸
付帯施設  公園、プール、テニスコート

このほかOHCは、土地開発以外にも、先に当社が取得していたシェラトン・カウアイホテルを賃借してホテルの経営事業を始めたのに加え、49年7月にロサンゼルス市のウイルシャービルを取得し、ビル賃貸事業を開始した(後にOACも事業参加)。

また、当社は48年10月、東急グループとの共同出資により、資本金10万ドル(50年に240万ドルに増資)のユナイテッドデベロップメントコーポレーション(UDC)を米国ワシントン州に設立し、シアトル近郊のミルクリークにおいて一大ニュータウンの開発事業を進めることとした。

〈ミルクリーク開発事業の概要〉

総面積  約1,085エーカー(440万㎡、133万坪)
計画戸数  約3,000戸(独立住宅、連続住宅および集合住宅)
主要付帯施設  ゴルフ場(18ホール)、ショッピングセンター、屋内・屋外テニスコート、プール等

この開発事業は、56年に主要付帯施設工事を竣工し、住宅部分は平成3年5月現在、計画戸数の85%を完成して販売も順調な経過をたどっている。なお、平成元年、当社はOHCの増資を引き受けるに際し、UDCの事業の当社持分相当を現物出資したことにより、OHCが当社に代わってUDCの共同事業者となった。

このように海外における不動産事業は、主にハワイおよび米国西海岸において展開された。

大林ハワイコーポレーションが入居していたパシフィックトレードセンター
大林ハワイコーポレーションが入居していたパシフィックトレードセンター
カアナパリ地区の開発
カアナパリ地区の開発
シェラトン・カウアイホテル全景
シェラトン・カウアイホテル全景
同ホテルの売買契約調印式
同ホテルの売買契約調印式
ミルクリーク地区の開発
ミルクリーク地区の開発

■―海外工事担当部門の変遷

当社では海外建設需要の本格的増勢に備えて、昭和37年(1962)9月、本店機構に海外工事部を設置し、執務は東京としていた。その後45年4月、海外工事部を海外営業部に改めるとともに、土木本部に海外工事部を設置し、海外土木工事施工の担当部門とした。海外建築工事施工の担当部門としては東京支店に建築第五部を新設(45年12月、東京本社の設置に伴い当該業務は建築第六部に引き継がれた)、国内建築工事とあわせて担当させた。

海外営業部には営業課若干を置き、建設需要の調査、情報の収集、連絡をはじめ工事獲得方法の立案およびこれに基づく所要の対外業務に関する事項、その他必要な書類作成、手続き等に関する事項、海外駐在員事務所の運営に関する事項等を担任させることとした。

さらにその後、海外における建設、開発その他の業務が拡張してきたことに対応して、49年11月、次のような改正を行った。

  • 東京本社経理部に海外財務課を新設
  • 東京本社海外営業部を廃止し海外業務部(総務課、法務課、営業課若干制)を新設
  • 土木本部の海外工事部を海外土木部に改称し、分掌事項を改正
  • 東京本社建築本部に海外建築第一部および第二部(事務課ならびに建築課および積算課それぞれ若干制)を新設し、建築第六部から海外工事業務を削除
  • 東京本社海外事業部を開発事業本部の機構下に移管
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