日本の海外建設は、戦前は旧植民地および軍関係工事が主で、いわば国内工事の延長であった。戦後は、まず沖縄の米軍関係工事、続いて賠償工事で海外工事は開始された。昭和40年代に入って、各社とも海外拠点として各地に駐在員事務所を設置し始めたが、ちょうどこの時期に東南アジアを中心に日本企業が進出を開始したので、この関連工事および日本政府のグラント工事、円借款工事等で本格的に海外に地歩を築くことになった。
そのころまでは、ほとんど邦人業者の直営体制で受注施工されていたが、日本企業の進出が増大するにつれ、各地の海外拠点がナショナリズム等の影響で現地法人化したり、あるいは新規進出の場合、ホスト国の法律により現地法人の設立を義務づけられたり等々で、しだいに海外法人化が進行していった。ジャヤ大林組コーポレーションおよびタイ大林コーポレーションが設立されたのもこのころであった。
当社の海外進出は他社に比べて早い方であったが、昭和46年度(1971年度)を起点とする経営5カ年計画においても、土木、建築両部門とも海外工事の増大は工事獲得消化計画の一つの柱とされた。すなわち、ハワイ、東南アジア諸地域を重点地域として、市場調査および情報の収集を行うとともに、円借款工事、世界銀行借款工事、日本からの進出企業の工事等の受注に努めること、大手商社との連携、現地有力業者との提携についても積極的に進めることとしている。
こうした方針のもとに、この時期、海外工事獲得の手段としていち早く以下の現地法人の設立に踏み切り、よいパートナーとの提携もあって、おおむね成功を収めた。
まず47年1月、日本企業のインドネシアにおける工事の発注に即応するため、現地の有力業者であるプンバングナン・ジャヤ社との共同出資で次の現地法人を設立した。
●P.T.ジャヤ大林組コーポレーション{注1}
払込資本金 5万ドル(当社出資比率50%)
授権資本金 50万ドル
取締役社長 Ir.Ciputra{注2}
取締役副社長 茂野湘二
常務取締役 笠原仰二
同 Ir.Hanafi
本店 ジャカルタ市
また、タイではバンコックに工事事務所があったが、47年11月に外国企業規制法、翌12月には外国人職業規制法が施行され、事業活動は強い規制を受けることになった。そこで49年5月、現地資本との合弁による次の会社を設立、バンコック工事事務所を閉鎖して、業務、資産を同社に引き継いだ。
●タイ大林コーポレーション
払込資本金 1,000万バーツ(当社出資比率49%)
取締役会長 Sommai Hoontrakool{注3}
取締役社長 村上忠直
本店 バンコック市
同社はその後、受注、施工とも順調に推移し、日系企業はもとより、現地企業、公共機関からも工事の発注を受けるようになった。
アメリカにおいては、ロサンゼルス、サンフランシスコの日系企業からの発注工事を対象として、47年11月、次の会社を設立した。
●大林アメリカコーポレーション(OAC)
払込資本金 10万ドル(当社全額出資)
授権資本金 100万ドル
取締役社長 大林芳郎
取締役副社長 篠田駿二
本店 カリフォルニア州ロサンゼルス市
さらに南米ブラジルにおいて、工事獲得を目的としてサンパウロに駐在員事務所を開設したのは49年9月であったが、続いて同年11月、資本金75万クルゼイロをもって大林ブラジル有限会社を設立した。取締役社長は坂本義雄、本店は同じくサンパウロに置いた。また、51年2月にはパラグアイのアスンシオンにも駐在員事務所を開設した。
ブラジル進出を決定したのは、同国の資源が豊富で、経済的潜在力が大きいと考えられたためであるが、実際にはインフレの昻進が甚だしく、国民生活も安定せず、期待に反する面が多かった。そのため、わずか数年で撤退することになり、53年11月に両駐在員事務所を廃止し、56年2月には大林ブラジル有限会社も解散するに至った。
注1 P.T.ジャヤ大林組コーポレーンョンは、その後の増資により資本金150万ドルとなった。当社は持分株式の1%をプンバングナン・ジャヤ社に譲渡し、出資比率を49%とした。また、同社は平成2年4月、社名をPT.ジャヤ大林(PT.JAYAOBAYASHI)に変更した。