大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第三編 後記

六 内助と輔佐 1 内助のミキ子夫人

故人の死後、大林邸では、中陰間の七日七日の回向はもとより、日々唱名念佛の聲絶間なく、香煙は縷々(るる)として追慕の情を漂はせてゐた。その中に、何時も端然正坐して瞑目勤行する戚々たるミキ子夫人の姿を見ないことはなかつた。

夙川に程近い森具の村に、南野助五郞翁とて佛道の篤信者があつた。維新當時まで代々名主であつた素封家で、五歳の頃より彌陀(みだ)の道に入り、長じて淨土門の敎義を究め、自ら平易な敎典を編して衆人に頒(あか)ち、その敎化によつて佛門に歸依した者も少くない。在家ながら佛家にも勝る篤行家であつた。この南野翁は、故人の逝去を耳にするや、故人を夙川開拓の恩人なりとして常に私淑してゐた關係から、直ちに馳せて心からなる追憶の回向を捧げられ、その勤めは滿中陰まで續いた。後、翁は人に語つて『俺は六十餘歳のこの年になるまで、大林家のやうな唱名念佛に篤い家を見たことが無い』と讃歎せられた。眞に然りで、夫人の大悟徹底せる樣はまことに觀音の化身といつてよいほどである。過ぐる明治二十九年二月、二男永三郞氏が呱々(ここ)の聲を擧げ、事業の隆昌と相俟つて瑞祥慶福は大林家に充滿した。しかるに好事魔多しとやら、その歡びも束の間、玉のやうな愛兒永三郞氏は世に在ること僅に一ケ月、憐れ黄泉の客と消えたのである。追憶綿々、人世の無常を喞(かこ)つ夫人の悲嘆は、嗔恚(しんい)のほむらとなつて身をも焦さんばかり、眉目よき菩薩の相も何時しか夜叉の如く、あさましや夫人は遂に強烈なヒステリーを病むに至つた。人世朝露の如しと悟つた一茶でさへ愛兒を喪つて嘆きに堪えず「露の世は露の世ながらさりながら」と綿々の情をよせたその一句を見ても世の親の常として諦められないのが眞の人情だらう。心の靜まつた折であつたらうか、或る時夫人はふと鏡に映つた夜叉のやうな自己の姿に氣付き、自分ながら愛想が盡きるほど驚かれた。これでは一家の中に一人の鬼が棲むやうなもの、しかも身は一家の大事な主婦、どうして家政を圓滿に料理して行けようぞ、と踢飜滄海大地塵飛(てきほんそうかいだいちじんひ)で、忽にして大に悟るところがあつた。爾後直ちに佛門に歸依して信仰の訓練に入り、遂には大門了康師の勸誡及河原秀道師の傳法の下に、五重相傳を受くること二回に及び、始めて三昧無礙(むげ)の空廣く四知圓明の月が冴え、廣々と澄みきつた境地に入ることが出來、爾來幾星霜、佛道への精進は益その光彩を放ち、良人への貞淑、子女の養育、來客の歡待、世間への義理祝儀、社員の愛撫、傭人の躾、臺所のきりもり、家什家具一切の整理等隨分多端な仕事を一身に引受け、故人をして内政に一抹の不安さへ與へしめず、伸々とその全力を外部の事業に注がしめた功は、世に謳はるゝ烈婦的華やかさは無いにしても、寧ろその平々坦々たる行績の内に眞に解脱せる無限の味ひが含蓄されてゐることを見遁すことは出來ない。我等は一家の主婦としてはかうした地味な貞淑な勤勉な、そして飾り氣も山氣もない夫人を謳歌して己まないのである。夫人は井上家より出でて故人にかしづくこと二十五年、眞の糟糠の妻たるばかりでなく、故人の歿後、社員及縁者に對する愛撫は慈母をも凌ぐものがあつて、大林家に於ける崇敬の中心をなしたのである。

かうした透徹せる歸依佛敎が、南野翁が言つたやうに、三心具足の唱名念佛となつて現はれたのは當然過ぎるのである。夫人は大正十五年五月、五十七歳を以て病歿されたが、幾多逸話の内、その四、五を摘録して見よう。

  • ○數ある社員、僕婢(ぼくひ)、その他出入の者までが、未だ曾てミキ子夫人の怒つた顏を見たことがない、といふのが一般の定評で、僕婢等の失策に對し『阿呆やな』と言つてニツコリ笑はれる位が關の山で、僕婢等はそれが却つて腸を抉ぐられるやうに反響したらしい。或る時下男の又四郞君が他に使し、過つて路上に顚倒(てんとう)して貴重の盆を割つたことがある。歸宅後夫人にその罪を謝したのであつたが、夫人は驚いて言下に『お前に怪我は無かつたかい』と反問し、怪我のないのを聞いて初めて安緒され、盆のことなどは敢て顧みもしない素振り、又四郞君が三十年の長きに彌(わた)つて大林家に忠勤を抽(ぬき)んでたのも宜(む)べなる哉と肯かれるのである。
  • ○朝夕、新聞を見終つたとき『又さん、御苦勞だがまた何時ものお使ひだよ』といふことが一ケ月に一回位はあるだらう。世にも憐れな記事が掲載してあると、對手方の境遇等を斟酌し、お米とか衣類とかお金とかを贈與するのであつて、その折々の功德を唯一の樂みとしてゐられた。贈與の際は主として又さんが使に行つたもの、そして贈與先には名前を絶對に明かさなかつた。
  • ○僕婢などは殆ど五年、七年と勤め、二十年以上の長きに達した者さへ四、五名もゐた。女中の中でも、今は良家の立派な奧さんとなつて、相變(かわ)らず出入してゐる者が尠くない。
  • ○日露戰爭の際、靱の大林邸は出征將校數名の宿舍に充てられた。將校等は生還を期せず既に敵を呑むの概があつた。ミキ子夫人は身を以て國に殉ずる名譽の將校を慰めんものと、その夜は婀娜(あだ)たる數名の妓を招いて歡待大に努め、興は盡きるところを知らず、時は深更に及んだ。同じく席に侍つてゐた一人の接待員が、翌朝出發の遲刻を慮つてこれを夫人に私語いた。夫人は『將校ともある方々が出發の刻限に遲れるやうなことがありますか。私とて絶對に遲れさせませぬ』と言ひきつて、自ら杯を羞めて時の遷るを知らなかつた。偶接待員との私語を幽かに聞き知つてゐた一人の將校が、將に杯盤を撤せんとする時、『自分は何回かの演習又は今回の出征に際し、隨分各方面のお宅に御厄介になつたが、今回ほどの歡待を受けたことがない。先刻チラと奧さんのお話を伺つたが、實に當家奧さんの襟度の大には感服しました。私等とて出發に遲れるやうなことは斷じていたしません』と誓ひ、他の將校もこれに和して心から夫人に感謝し、その夜は樂しく寢に就かれた。無論翌朝は擧(こぞ)つて早起され、勇みに勇んで出發された。
  • ○大阪倶樂部が火災に罹つたことがある。十間と距(へだた)れてゐない今橋の大林邸は、上を下への大混雜を極めた。その時のミキ子夫人は頗(すこぶ)る沈着いたもの。數ある家財の處理に對する命令など、實にキビキビしたもので、誰しもその沈着に舌を卷かぬ者はなかつた。就中(なかんずく)絶對に燒いてはならない二ツの品があつた。その一ツは、曾て上原元帥が大林邸に病を養つた折、畏くも 高貴より賜つた一枚の布團で元帥よりの預り品、も一ツは、祖先より傳はつた一體の佛像である。布團は土藏に入れてあつたが、目張りの土藏とて絶對に安全とはいはれないので、萬一の場合は持つて逃げようと藏より出したのである。恰もよし、正直者の八百屋の善さんが御家の大事と驅けつけ來たつたのを幸ひに、夫人は『この品は大林家の大事な品、お前さんの正直を見込んでお賴みするが、この品をお前さんの家に預つて貰ひたい。他の手傳ひ人は餘る程あるが、この品を預けるのはお前さん一人だ。必ず他人の手に渡してはなりませぬぞ』といつて、安全地帶への搬出を全ふしたのである。幸ひ火勢衰へて類燒の厄を免れ、二品は時を移さず再び戻つて來たが、惟ふに一ツは他よりの預り品ましてや 高貴よりの御下賜品、一ツは常に偈仰已まぬ彌陀の像、金では買へぬ貴重品中の貴重品、この二品を選んだ夫人の心の冴、贅長(ぜいちょう)な讃辭を呈するまでもなく、その嚴たる心根には敬服させられるのである。加ふるに臨機應變の沈着ぶり、凡庸の婦人には眞似の出來ないことである。
  • ○佛門に歸依して後の夫人は、婦人に有りふれた嫉妬の氣配など微塵もなかつた。夫たる故人は、事業上の關係から遊里に大白を擧ぐる機が少くなかつた。或る時、山田甚助氏に嫁した故人の姉たね子刀自(とじ)が『ミキ子さんを粗末にしては罰が當るよ』と故人を誡めたことがある。故人は『遊里の女は金で買へますが、内のミキは義雄の母ですからね、金では買へませんよ』と答へ、ミキ子夫人の尊重さを讃へたのであつた。實際故人は、眞實にかく信じてミキ子夫人をまたとなき良妻として好遇したのである。夫人も亦夫たる故人は絶對に自分を愛してゐるといふ堅い信念に終始し、のみならず佛者としての光明攝化(こうみょうせっけ)、安心起行を實行に移し、觀音の心構たる慈悲精神を具現する爲、安らかに、明るく、樂しく世の事物を觀じたから、自分の愛する主人が愛する物は、自分も亦愛してやらうといふ大きな慈悲心となり、かうした信仰の極致から世にも稀な婦德が日々に現はれたのである。
  • ○たね子刀自は、弟の妻たるミキ子夫人を非常に可愛がり、且つ絶大の信任を拂つてゐた。創業當時には、二百や三百の金にさへ逼迫したことのある故人が自らたね子刀自を訪ふて一時の用立を懇請すると、『お茶屋拂ひのお金などありませんよ』とけんもほろゝの挨拶、もしミキ子夫人が訪ねると、快よく借して呉れたものである。當時微々たる故人に對する誤解もあり、且つ訓誡も含まれてゐたのであらうが、切つても切れぬ實弟より、寧ろその妻女たる夫人に對してかくまで深い信任と愛情を灑(そそ)がれたのは、汲めども盡きぬ夫人の貞淑がかくさせたものである。
  • ○菩提寺の住職河原秀孝師は次のやうに語つた。『故人の墓參は、命日たると否とに拘泥してゐない。又時間も問はず、時には夜間に參られることなどもありつた。かう不規則であつた原因は、故人が非常に繁忙の身であつたから、偶閑が出來たり或は父母を想ひ起したとき又は附近を通る機會等に參られたのであらう。これに反し、夫人は故人ほど繁忙の身でないから、故人の命日には晴雨を論ぜず墓參を缺かされたことがなかつた。時には他より芳香馥郁(ふくいく)たる名花を贈られた折など、その半ばを佛壇に献じ、殘る半ばを必ず自ら墓前へ供へられた。惟ふに「御覽なさい、こんな綺麗な花ですよ」と、追憶切々、墓前に供へずにはゐられなかつたのでせう。そして拙僧が命日の棚經(たなぎょう)に、何か事故があつて遲れたときなど、必ず夫人は、既に佛前に自ら唱名念佛されてゐるのを常としました。』
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