大林芳五郎傳

1940年に刊行された「大林芳五郎傳」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第三編 後記

六 内助と輔佐 2 輔佐の伊藤哲郞氏

「牛は牛づれ、馬は馬づれ」とか「同聲相應じ、同氣相求む」とか、古來趣味の上に於て、嗜好の上に於て、事業の上に於て、社交の上に於てなど、同一型の者が一集團を造り易いのは自然の理かも知れない。平生釟三郞氏が、岩下翁を天才肌と評し、翁に愛せられた谷口房藏、小林一三、大林芳五郞、才賀藤吉、鈴木藤三郞の諸氏も亦天才肌だ、といつてゐる。一脈相通ずる靈的作用が、相互磁氣的に相吸引するかのやうである。天才の定義が『自然の成せる才能』とでもいふなら、無論故人は天才に相違ない。そしてこの天才故人に、天才伊藤と天才白杉とが相集つたのだから、所謂將門必ず將ありで、實にきらびやかな一團の陣容であつた。

伊藤哲郞氏は松江の出身、明治二十六年、二十三歳にして故人の傘下に集つた一人である氏の天才的な點は計數に長じた點で、他人と要談をなしつゝ自ら算盤を採つて精算をするといふ二重才能の發揮者であつた。しかもその精算が非常に速く且つ違誤のあつたことも要談に齟齬を來したことも無いといふのだから驚かされる。

世人の中には往々にして、請負業を頗(すこぶ)る蕪雜(ぶざつ)粗莽で投機的成分が多量に含まれてゐるやうに想像する向も少くないやうだが、透視の出來ない生駒隧道掘鑿(くっさく)のやうな工事は或は冒險的傾向が無いともいはれないが、それにしても科學的に相當な見透しをつけてあるから、遂には立派に完成を見たのであつて、まして露出的な建築工事の如きは、何等の不安も些の冒險性もなく、煉瓦一枚、釘一本の微細なものが基礎をなして請負總額が出て來るのである。だからその計算は實に複雜且つ緻密を極め、他業に一籌(いっちゅう)を輸するものでなく、請負業は寧ろ計算事務といつてよいほど計算が重要性を帶びてゐる。例へば請負業の簿記は銀行簿記のやうに金錢の表示に始終するやうな單純なものでなく、種類、形状、寸法、員數、單價、金額等の複雜さがある。殊に一つの建築を行ふに際しては、如何なる方法で施工するか、工築物の程度、工法の繁簡、勞力の分量、工事機械器具の應用範圍、數百種に亙(わた)る材料の種類と市場關係、運輸系統から、作業場の幅員及隣地關係、從業員の配置、竣功期限に伴ふ作業能率、以上に基く直接の生産費から、營業費、諸雜費に至るまで、隨分綿密周到な計算の下に豫算が編成されるのである。まして請負業は一定不變の規格品を製作する紡績とか、燐寸とか、足袋とかいふものとその趣きを異にし、大體の型は似よつてゐても、總べての内容が千差萬別、千變一律とは行かないのだから、計算も亦各異つた條件の下に起算しなければならない。故に請負業は、計算から出發して計算に終るといつて差支ないのである。

かくして編成された豫算が即ち見積又は入札額であつて、もしこれが正鵠を缺いた杜撰のものであつたなら、落札を見たところで終局は戰に敗れたのも同樣である。即ちこの豫算を通じて生産の管理も、産業の合理化も、豫算の統制も行はれるのであつて、世の進んだ現時に於ては、何事業に限らず無計算の下に業務を行ふ冒險的無謀を敢てする者は恐らくあるまい。この重要業務の擔任者として天才伊藤の在つたことは、故人として非常な強みであつたのである。殊に物故された副社長大林賢四郞氏をして、その手腕を主としてこの方面に長ぜしめたのも伊藤氏の薫陶が與つて力あつたことはいふまでもなく、大林組の成功は伊藤氏に負ふところ頗る大なるものがある。

概して雪國の人は鈍重のやうだが、頭腦明晰、思慮綿密で、一般に頑張りが強いやうだ。近來同じ雪の出雲から若槻、櫻内、俵、島田といふやうに多數の大臣が輩出してゐる。伊藤氏も亦才氣渙發、滿身これ智といつてよく、正宗の刀のやうな凄さがあり、時に對手方が畏れ戰慄くほどの切れ味を見せた。而して若槻氏が杯を重ねるほど頭が冴えて來るやうに、伊藤氏も亦斗酒猶辭せず、徹宵痛飮することも尠くない。醉へば晤歌(ごか)朗吟全く世を忘れたかのやう。しかも翌日自己の任務を缺いだことなど一回もなく、その精力の絶倫さには誰しも驚いたものである。

伊藤氏は白杉氏より長ずること五歳、入社は五年早かつた。不幸にして故人の歿後僅に三年、大正八年十一月に故人を追ふて世を去つたのは恂(まこと)に惜まれてならない。二十三歳より四十九歳に至る二十五年間の一生を通じ、故人の忠實な股肱(ここう)を以て一貫したが、もし政界にでも飛躍してゐたなら相當の地位を占め得た有爲の器であつた。殊に我等の瞻仰(せんぎょう)己まぬものは、故人の歿後、自ら陣頭に立つて白杉氏と共に累卵のやうな大林組の危急を救つた一事である。得てして世の凡俗輩は、順風滿帆といふ順境時には意氣揚々たるものがあるが、一度び逆境に沈淪(ちんりん)すると、掌を反すやうに逋遁四散(ほとんしさん)するのが常である。秀吉恩顧の大名中、秀賴に味方したものは何人あつたか。赤穗藩數百頭顱(とうろ)中、眞の武士は四十七に過ぎなかつたではないか。しかし古來さうした悲劇の半面には數こそ少いが光彩陸離たる眞人間が輩出するものである。伊藤氏亦然りで、故人の物故當時は、現社長義雄氏は未だ早大在學中の身、女婿賢四郞氏は帝大卒業早々の技術家、共に未だ經營の材に達してゐない。この兩孤を抱いて孤城落日の殘壘(ざんるい)を死守するの意氣は、悲壯といはうか、凄絶といはうか、神人共に泣くの概があつた。天幸ひに氏等の忠貞に惠むに大林組の更生を以てし、死を賭した奮鬪は遂に酬ひられたのである。氏は他に何ものゝ慾望もなかつた。たゞ主家の更生を土産に、莞爾として安らかに逝いたのである。まことに偉なる哉だ。

氏は、長期に彌(わた)るその經歴を以てしても、又その天稟(てんぴん)の才幹を以てしても、優に獨立經營に難くはなかつた。しかるに主家殿堂の崩壞を救つた彼の廣瀨、三野村兩氏の行績に髣髴(ほうふつ)、一番頭で始終したその心事の淸らかさ、そこに凡俗の企及し能はざる崇高さが存在する。そこに何ともいへぬ味が津々として盡きない。もし氏が主家を去つて一方の雄たるを得たとてどこに人格的崇高さを見出し得よう。我等はどこまでも一番頭で終つたその誠忠を謳歌して己まぬものである。

伊藤氏も、白杉氏も、共に二十三歳の未成品時代に入社した。しからばその後の啓沃(けいよく)を誰人が掌(つかさど)つたかといふことになるが、言はずもがなそれは故人である。故に兩氏とも生粹の大林ツ子である。現時の學校敎育は天才とか頴才(えいさい)敎育にまで未だ及んでゐない。寧ろこれ等に對し抑制的な平凡敎育に終つてゐる。坪内逍遙博士やトルストイは曾ての學校落第生であつた。これに反し大林門は、その天才的手腕を伸張せしむるには好適の自由郷であつて、殊に天才故人の薫育(くんいく)に俟つたのだから、兩氏共、何等の脅威も屈託もなく、思ふ存分に伸々とその天分を發揮し得たのである。

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